第1話 粉々に破壊された夢
四階の階段を上がりきった踊り場は、少しほこりっぽい。
金属のトビラには古い字体の『関係者以外立入禁止』のかけ看板が傾いている。
さびついたドアの取っ手に手をかける。
(ん? 少し開いてる)
ドアを開けるとギィ、と鈍い音が鳴る。
途端、屋上の空気が流れ込み、半袖の制服の袖がふわりと揺れた。
グラウンドからは、掛け声と金属バットの乾いた音が聞こえてくる。
(聞きたくなかった音だ)
つい数日前まで俺が立っていた世界、それが屋上の手すりの向こうで別の時間を生きている。
右足首にはまだ痛みがわずかに残っている。
固定の包帯は外れたけれど、医者には「選手としての復帰は難しいでしょう」と言われた。
言葉は刃物とはよく言ったものだ。あの一言は、俺の輝かしい毎日をまっすぐ二つに断ち割った。
放課後の校舎は、いつもより声が大きい。廊下を歩けば、クラスメイトや後輩が口をそろえて
「惜しかったな」
「残念だったな」
などとと肩を叩いてくる。みんな気を遣ってくれて、悪気がないのはわかってる。わかってるけど、ああいう視線と言葉は俺の心の傷に塩を塗りたくるのだ。
そんな彼らに笑って返すたびに、胸のどこかに小さなささくれが増えていく。
ふと視線と屋上の隅の方へやると、少し離れた手すりの近くに、“先客”がいた。
(ぜ、全然気が付かなかった!)
内履きの赤のラインの色で彼女が同学年だとわかる。
ショートの髪の、小柄な女子。膝の上にはスケッチブック。左手の鉛筆が、紙の上で細い音を立てている。
彼女はこの校舎の屋上に広がる晴天の青空を描いているようだ。
「や……やぁ。こんなところで何してるんだ?」
先客がいることに気が付かなかった俺が気を遣って声をかけた。
しかし、彼女はこちらをちらりと見ただけで、すぐに視線を落とした。
(なんだか。愛想のない女)
俺は気にしないことにした。
屋上の端まで歩いて、手すりにもたれる。所々のさびた鉄の冷たさが、制服越しに胸にへ伝わる。
グラウンドでは、相変わらずキャッチャーミットの「パシン」という音が規則正しく響いている。
俺は高坂直也。高校二年で春からは野球部の期待のエースだった。
この夏、甲子園出場が決まった日は、家が、学校が、町が、ちょっとした祭みたいになった。
商店街の八百屋のおばちゃんが、スイカを切ってくれて、知らない小学生が「高坂さん、がんばってください!」って手を振ってくれた。
――なのに、直前の練習試合で、俺は右足首をひねった。運が悪かった。スパイクのポイントがぬかるんだ土に引っかかって、その瞬間、空が回ったのだ。
ベンチまで抱えられた俺は、「大丈夫だ」と何度も言っていたけれど、心の底ではわかっていた。これは、ヤバいやつだと。
それからの日々、誰かに見られるのが怖かった。
俺から野球を取ったら何もない。そんな何もない俺を見られることに耐えられなかったのだ。
だから今日、俺は屋上に来た。誰もいない空が欲しかった。
けれど、俺の知らない誰かは、ここで空を描いている。
「……俺、さ」
自分でも驚くくらい、簡単に口が開いた。彼女は一瞬、紙の上で鉛筆を止めたけれど、顔は上げない。
「チームの期待、背負ってた。俺がいなきゃ勝てないって、みんな言ってたし、俺もそう思ってた。なのに――なんで俺だけ、こんな目にあうんだよ。ちくしょう」
風が一度止まって、グラウンドの声だけが残った。
彼女は、少し間を置いてから言った。
「――あのさ。静かにしてくんない?」
(今なんて?)
その声は、驚くほど平らだった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、紙の白さと同じ温度で置かれたことば。
「あたし、悪いけど野球部のこととか、全然知らない。……それに、不幸自慢して、楽しい?」
「……なっ!」
突然、胸の奥が熱くなって、喉の手前まで何かがせり上がった。
彼女に言い返したかった。「俺のことを知らないのかよ」と。
でも、言葉は出なかった。所詮は過去の栄光だからだ。
沈黙――
彼女はもう、視線をスケッチブックに戻している。
俺はその場から逃げるみたいに扉へ向かった。
踊り場の階段の途中で立ち止まり、自分の靴のつま先を見つめる。
――たしかに、そうだ。俺は誰に向かって、何を言っていた? 同情を拒みながら、結局どこかで同情を欲しがっていたんじゃないか。
最初に見た彼女の横顔が、妙に鮮やかだった。紙に線を引くときだけ、そこに世界が生まれるみたいな顔。
その夜、布団の中で何度も今のことを思い返した。
「不幸自慢して、楽しい?」
答えなんて決まってる!
――楽しいわけがない!
なのに俺は、何度も同じことを誰かに言いたくなっていた。
たかだか野球が少しばかりできるからって俺は天狗になっていたのだ。
俺は弱い。
そして俺は翌日から、放課後に屋上に通うようになった。