悪夢の召喚、澱みの底で
重く、ひどく、体が鉛のように重い。
ディスプレイから放たれる蒼白い光が、積み上げられた書類の山を不気味に照らし出し、俺の視界の端で現実が歪んでいく。焦点の合わない瞳は、無数の数字とグラフが踊るエクセルシートの上を滑り、その情報はもはや意味を成さず、ただ光の羅列として脳裏に焼きつくだけだった。明日までに終わらせなければならない仕事は、まだ半分も終わっていない。パソコンの隅に表示された時計をチラッと横目で確認する。01:34。今日も徹夜か、と疲労困憊の脳がぼんやりと認識する。
デスクに置いてあった栄養ドリンクの蓋をこじ開け、濁った色の液体を一気に喉にぶち込んだ。苦みと化学的な甘みが混じり合った味が、焼け付くような食道を無理やり押し通る。空になった瓶を足元のゴミ箱に投げ入れ、乾いた音を立てるのも気にせず、俺は再び無機質な光を放ち続けるディスプレイに顔を向けた。この案件を落とせば会社が危ない。取引先からの信用は地に落ち、ひいては、この身を粉にして働いてきた自分の存在意義すら揺らぐ。そんな、呪いにも似た上司の言葉が頭の中で反響し、俺の意思とは無関係に指はキーボードを叩き続けていた。視界はボヤけ始め、指先の感覚が薄れてくる。それでも俺は、もはや意識の奥底でしか残っていない「仕事」という義務感に突き動かされ、キーボードを叩き続けた。一瞬、激しい眩暈と頭痛が俺を襲い、胃から何かが込み上げてきそうになる。それでも俺は、止めることを知らない指を動かし続けた。やがて視界は真っ暗になり、意識は薄れていき、体は重力に逆らいきれなくなった。俺は、ようやく、冷たいデスクに突っ伏した。
次に意識が覚醒した時、全身を襲う途方もない困惑と、全身にまとわりつく不快な湿り気に包まれていた。薄く開いた瞼の向こうに広がるのは、煤けた岩肌がむき出しになった洞窟のような空間だった。湿った土の匂いが鼻孔をくすぐり、遠くから水滴が滴る音が、薄暗闇に不気味に響く。視線を足元にやれば、血のような赤黒い液体で描かれた歪な魔法陣が禍々しく輝き、その不吉な光が、洞窟の壁に奇妙な影を踊らせていた。魔法陣の周囲には、蠱惑的な笑みを浮かべた数人の女性が、まるで品定めをするかのように俺を見つめていた。彼女たちの背中からは、蝙蝠を思わせる漆黒の翼が不自然なほど滑らかに生え出し、その異形さが、俺が認識する「日常」とはかけ離れた現実を突きつけていた。
「うおおー!すげー!ヨーコの言った通りホントに人間召喚できたぞ!」
そのうちの一人が、無邪気に大きな笑い声を上げながら、こちらに飛びかかって来た。彼女は、首元からライオンのようなもふもふのタテガミを生やし、全身は黄金色の体毛で覆われた、まさしく獣人のような見た目をしている。その筋肉質な腕が、俺の頭を唐突にヘッドロックし、視界が固定された。彼女の豊満な胸が、俺の左頬にぴったりと押しつけられる。甘いような、それでいてどこか獣じみた匂いが、俺の鼻腔をくすぐった。
「じゃ、早くこいつ食っちまおーぜ!」
彼女は、屈託のない、しかし恐ろしい言葉を放ち、さらに腕に力を込めた。
「え!?ちょ、ちょっと待って! 食うってどういうことですか……ぐぇ!」
腕の力が強まり、一気に呼吸が追いつかなくなる。冗談じゃない。俺は、会社のために徹夜で残業していただけなのに、どうしてこんな目に遭っている? ていうか、ここどこだよ。お前ら誰だよ。頼むから、殺すにしても、せめて説明ぐらいはしてからにしてくれ!
「やめなさい、レオナ。人間は食べるものじゃないわ。相変わらずサキュバスとしての自覚がないわね」
レオナと呼ばれているライオン女の隣にいた、小さな女の子が諭すように言った。ライオンの女とは違い、彼女は人間の小学生ほどの見た目だ。二つに結んだ亜麻色のおさげ髪に、制服のようなジャンパースカート姿は、背中の翼と尻尾を除けば、どう見ても人間の少女としか思えない。
「そ……そうですよ、レオナさん。せっかく人間さんを召喚できたのに、殺すのはもったいないです……」
岩肌の影から、ボサボサのロングヘアの女の子が、申し訳なさそうに小さく喋った。黒色のレース生地のドレスを着ており、肩の部分が剥き出しで露出が多いデザインだが、彼女自身はそれを隠すように身を縮こめている。
「え、あー、そうかそうか、ごめん! あたしまた先走っちゃったー!」
レオナの声と共に、腕の力が緩む。解放された俺は、ドスン、と床に落とされた。肺が新鮮な空気を求めて激しく収縮する。
「まったく、先走るのは男性器だけで十分よ」
少女の冷たい声が、洞窟に響いた。ドッと、他の者たちから笑い声が上がる。何だ、この茶番は。わけがわからない。だが、少なくとも、目の前のこの女たちは、今のところ俺に対して明確な敵意というか、殺意のようなものはないのかもしれない。まあ、人間かどうかは判断できないが。
「あの……楽しんでるところすみませんが、あなた達、誰ですかね? というか、ここ、どこなんです?」
俺の声に、彼女たちの動きがぴたりと止まった。全員の視線が、一斉に俺へと向けられる。その瞳は、まるで獲物を見定めているかのように爛々と輝き、ぞっとするような背筋の寒さを覚えた。
「ふふっ、あなたがそれを知る必要は無いわ。だってあなたはこれから、私たちサキュバスに搾り取られるだけの家畜になるのだから」
少女のサキュバスが、妖しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとこちらに近寄ってくる。彼女の動きは、まるで熟練の捕食者のようにしなやかで、見る者を否応なく惹きつける。背中の翼が、カサリ、と乾いた音を立てた。ぞわり、と全身に鳥肌が立った。逃げなければ。そう思った時には、もう遅かった。
彼女は瞬く間に俺の目の前まで移動すると、細く白い指が、俺の顎を掴み、無理やり顔を上向かせた。その指の先から、焼けるような熱が伝わってくる。吐息が、耳元に吹きかけられた。
「あら、いい反応。あなた、もしかしてロリコン?」
少女の顔がどんどん近づいてくる。顔面に、生暖かい吐息がかかる。甘いような、腐ったような、嗅いだことのない独特の匂いが、俺の鼻腔を刺激した。そして、彼女の指先が、俺のシャツのボタンを一つ、また一つと開いていく。恐怖で震える指で、その手を振り払おうとするが、全く力がこもらない。
「ごめんね、人間さん……本当は、直接私たちが人間界で"狩り"をしないといけないんだけど、私たち、ダメダメだから……」
「そーそー! だから人間を召喚して、ずっとあたし達の奴隷にすれば、狩りなんてしなくてもいいじゃん! ってなったんだよね!」
「ふふふ。私がこの"禁断の召喚魔術"見つけたおかげよ。あなた達、感謝しなさい」
気づけば俺は三人に囲まれていた。ふざけるな。そんな身勝手な理由で俺をこんな訳の分からない場所に連れ出し、訳の分からない奴らに、これ以上逆らうこともできないまま従わなければならないのか?
「や、やめろ……!」
声を出そうとするが、喉がひりつき、か細い、情けない音しか出ない。このままでは、どうなってしまうのか。恐怖で全身が硬直した。
その時だった。背中から、今まで感じたことのない、強い「熱」がこみ上げてきた。焼けるような、それでいて甘美な、奇妙な感覚。まるで、体内から何かが沸騰し、溢れ出すかのようだ。そして、その熱が頂点に達した瞬間、背中を突き破るかのような激痛が襲いかかった。
「ぐっ……があああああ!」
俺の叫び声に、サキュバスたちがわずかに怯んだ。その隙に、背中に手を伸ばす。そこには、皮膚を突き破って生えてきたかのような、滑らかな感触の「何か」があった。まだ小さいが、それは間違いなく、あのサキュバスたちと同じような翼の感触だった。熱い。痛い。そして、この感覚は……
「な、何これ!? どうなっているの!?」
少女の声が、どこか驚きを含んでいる。俺の背中から生えた翼を見た他のサキュバスたちも、奇妙なものを見るかのようにざわつき始めた。
体の中から、さらに熱が湧き上がってくる。肌が、内側から燃えるように熱い。指先が、見る間に細く、しなやかに変質していくのがわかる。顔に手を当てると、頬のラインが、今までとは違う、どこか滑らかな曲線を描いているのが感じられた。そして、唇が、薄く、艶を帯びていく。全身の毛穴が開き、今まで感じたことのない、異質な快感が、脳髄に直接響く。それは、男としての自分には決して到達しえなかった感覚だった。
「ま、まさか……まさか俺が……」
全身に力が抜けていく。恐怖よりも、抗えない変貌への諦念が、心を支配し始めた。肉体の変化は止まらない。男としての輪郭が削がれ、女性としての、サキュバスとしての身体へと変質していった。