第5話 青い血
書庫や座敷のある母屋に対して、日向が普段暮らす部屋は離れにある。書庫を出て2つの建物をつなぐ渡り廊下へ陸が向かうと、仁が言っていた『みんな』──陸と同年代の子供達のことだ──の声が嫌でも耳に入ってきた。思わず渡り廊下の入口で陸の足が止まる。
それでも視界の隅に入る子供達の姿に気づかないふりを決め込み、日向の部屋へと足早に向かう。そうして離れに入り襖を閉めれば、子供達の声はほとんど聞こえなくなった。
ホッとしつつ襖が開いた部屋の中を覗けば、荷物のそばに座る日向の背中がすぐに見えた。日向、といつものように声をかけようとする。
だが、今の陸にはそれができなかった。
日向の姿自体はいつも通りだ。
煤竹色の袴も、それと同系色の着物も、肩の上で微かに揺れる栗色の髪も、見慣れたものだ。
それでも陸は怖かった。
日向の周囲に声を出すことも、呼吸すらも躊躇われるような空気を感じてしまったのだ。
背を向ける日向の表情をまるで読めないことが、怖かった。
「ひ、日向!」
「わ、」
なんとか勇気を振り絞り声をかけてみれば、驚きの声を出しつつ日向が振り返った。
聡明さと愛らしさが調和したような顔つきに、柔らかな木漏れ日のような微笑み。
──よかった、いつもの日向だ。
ホッとしつつ、日向へと近づく。
「夕食の準備できたって、先生が」
「ありがとう陸。わざわざ呼びに来させちゃってごめんね」
話しつつ、日向が膝の上に乗せていた上着を折り畳み始める。やけに俯いていると思ったら、これを見ていたらしい。軍服のように見えるそれは、日向が着てもまだ袖がかなり余るくらいのサイズをしており、穴が空いていたり汚れていたりと、お世辞にも綺麗とは言えない見た目をしていた。
日向のものではない。おそらく男性のものだということは陸にもすぐにわかった。なぜか、そのことに胸がずしんと重くなる。
「それもあっちに持っていくの?」
日向の肩に顎を乗せながら尋ねる。しかし問いに対し、日向が曖昧に首を傾げたため、陸はまた少し驚いた。こういう、はぐらかすようなことをする日向を見るのは初めてだったからだ。
「本当は他のいらないものと一緒に、燃やしてしまおうかと思ってたんだけど…やっぱりやめとこうかな」
宝物に触れるかのように日向が上着を撫でる。この機会に色々整理しようと、仁からも呆れられるくらいゴミ出ししていたというのに。
そんなに思い入れのあるものなのだろうか。そういえば日向は幼い頃外国に住んでいたことがあるらしいから、その頃のものだろうか。頭の中で持ち主を想像しながら上着を眺めているうちに、陸はふとあることに気がつく。
「血が、飛んでる」
上着には酸化して黒くなった血がべっとりと張り付いていた。それともう1つ。黒でも赤でもない、別の色も。
これ、と言いかけて陸は口をつぐむ。先程の書庫での出来事を思い出したが、あり得ないという気持ちの方が強かったからだ。でも、日向なら。いつもの日向なら驚いた顔をして、すごい偶然だねって笑ってくれるかもしれない。
しかし陸がそのことを口に出すよりも先に、日向の手が血痕を隠すように覆ってしまった。思わず上着に伸ばしかけた手を引っ込める陸に対し、また曖昧に日向が微笑む。そうして、それ以上は何も語らずに上着を荷物の上に置いた。
これ以上この話をしたくないという意思を言外に示され、陸は戸惑う。それに気づいているのか、いないのか。張り詰めた空気を一掃するように、いつもの笑顔を見せながら日向は言った。
「行こっか、みんな待ってるもんね」