第28話 誓い
その少女を見つけた瞬間、アスカの背中を嫌な汗が伝った。
ルカとサトルの模擬戦終了後、午後からの訓練に参加するために善とともに食堂へ向かった時だった。入口を過ぎたところで周りを見渡すと、多勢の隊員や職員でごった返す食堂の中に颯の姿が見えた。それ自体はいつも通りの風景で特段驚く要素はない。
しかし颯の目の前に座る人物に気づいたところで、アスカは思わず抱えていた食堂のお盆を落っことしそうになった。アスカの動揺に気づいた善が視線の先を追い、「ああ」と頷く。
「颯さん、早速新しい子と仲良くなってるね」
今日から新隊員が配属されるという話はアスカも聞いていた。しかしまさか、エルと一緒にいたあの少女までもが何事もなく配属されるとは思いもしなかったのだ。思わず零の顔を思い浮かべるが、上が良しとしたことであればアスカが何か言える筋合いはない。そうは言っても確か、ルカを捕らえた時点ではあの少女も相当な怪我を負っていたはずだ。
怪我はもう治ったのか。颯とは何を話しているのか。そもそもあのエルとはどんな関係なのか。自分が彼にーーエルに何をしたか、あの少女は気づいているのか。
ぐるぐると頭を駆け巡る疑問でいっぱいいっぱいのまま、アスカは配膳を受け取る。その隙に少女は食事を終えたようで、颯をそのままにすっくと立ち上がると、足早に返却口へと向かってしまった。
ショートヘアの髪を僅かに揺らしながら食堂を去る少女の背中を見送りつつ、慌てて颯の元へと走る。
「は、颯さん。あの子と喋ったの」
先ほどまで少女が座っていた席に腰を下ろすアスカを、颯はチラリとだけ見上げると「ああ、日向ね」と返事をした。どうやらもう名前を呼び合う程度の仲にはなっているらしい。
「色々教えてほしいって言われてさ、午後も射撃見てやる予定」
「ってことは隊は」
「第3小隊。俺らと同じ」
思わず宙を仰ぐアスカに対し、隣の空席に座りながら善が言う。
「あの子が首席卒業の子ですか」
「女子では史上初、かつ文武ともに抜群に優秀。それに加えて勉強熱心で人柄もいいもんだから、士官学校の教授達からも随分評価が高かったって話だ」
「そんな子がよく御坂になんか来ましたね。軍の中でももっと楽で待遇いいとこあっただろうに」
「お前が言うかそれ」
「俺みたいな物好きは他にいないと思ってたんで」
抜群に優秀。評価が高かった。自分がーーアスカが一切言われたことがないような輝かしい言葉を受け取るに値する存在。それがあの日向という名の少女なのだと思い知らされると同時に、不意に息が詰まるような心地になる。そんなアスカの心もように触れないまま、善と颯の会話が続く。
「でも話した感じ、噂通りのいい子だったよ。礼儀正しいし、コミュ力も高いし」
「へえ」
「てかお前ら、新年度の初日からいないって。午前中どこ行ってたんだよ」
「え、それここで聞いちゃいます?」
「…その答え方で大体予想できたわ」
「あとで教えろよ」と善に小言を言いつつ、颯が席を立つ。いつの間に食べ終わったようで、皿は空になっていた。そのまま立ち去るかと思いきや、ふと思い出したように颯が言った。
「そういえば、日向がアスカと話したがってたぞ」
思わず目を見開くアスカに対し、淡々と颯が続ける。
「本当は昼だって、俺よりもアスカと食べたかったみたいだったからさ。夜にでも声かけてみれば」
ーーそれは私が女だから?
ーーそれともルカに対して私が何をしたか、気づいているから?
それらの疑問を尋ねる暇もなく、無言でアスカは颯の背中を見送る。
「颯さんはああ言ってたけどさ、俺は無理に話しかけなくてもいいと思うよ。本当に話したいなら、向こうから声かけてくるはずだしさ」
颯が去ってからも表情が晴れないアスカに対し、宥めるように善が言う。相変わらずアスカ以上にアスカが必要としている言葉を見つけるのが速い。投げかけられた言葉に頷きつつ、どうにかを食事を口に運ぶ。これまでのことはさておき、善にあまりみっともない姿は見せたくなかった。
それでも、いつもの味のない食事を飲み込むのが、その日はやけに辛く感じた。
颯の言葉通り、午後の射撃訓練においては颯の隣に日向がいた。時折首を傾げる日向の姿と、それに対し声をかける颯の姿。それらが視界の隅に映るたびに、アスカの心が鈍い音を立てて軋んだ。アスカから見れば日向だって十分上手いのだ。それこそアスカより、ずっと。
無言で撃ち続けてもなかなか命中率が上がらないアスカに対し、小隊長が励ましの言葉をかける。なぜだか今日はそれがひどく、気を遣っての発言に聞こえてしまう自分の卑屈さが心底嫌だった。
その後も機材を変えての訓練を繰り返すうちに、日向の周りには自然と人が集まってくるようになっていた。
午前中のうちからそうだったのかもしれないが、日向は人に教えを乞うのが上手く、その上理解も早いようであった。いわゆる教えがいがある、というやつなのだろう。興味深そうに日向が所属する班を眺める班員に気付きながらも、そのことを話題にすることさえアスカにはできなかった。
あいにく今日の班員にはアスカの話相手になってくれるような存在ーー颯も善もいない。さすがだ、優秀だ、なんて言葉を周りが言い始めるのを聞き流しながら、黙々と1人作業を進めることしかできないし、元々アスカがあまり喋る方でないことをほとんどの隊員が知っているため、黙り込んでいても追求されない。
それでもアスカは内心、今日1日だけでかなり気が滅入っていた。一を聞いて十を知る人間も世の中にはいるという話を零から聞いたことがあったが、まさに日向はそういった存在なのではないか。ならば自分は、一を聞いてもその半分も理解できない存在なのではないか。
日向は今後、どんな場面においても実力を伸ばしていくのだろう。生まれながらの資質に胡座を欠くことなく、努力を怠らず、人柄も良く、理解も早い。善も零も颯も、皆きっとそんな日向を頼りにし、期待し、必要とするはずだ。
対するアスカは、相変わらず善や颯以外の人間と話すのは苦手なままだし、戦術や機材に関する覚えも悪ければ理解も悪い。終業後に復習をしたりと努力はしているつもりだが、それだってきっと日向は当たり前のようにやるのだろう。もしアスカが日向を上回っている部分があるとすれば、対人格闘術と剣術と、この特殊な身体くらいだろうか。
ーーでも、それすらも日向に追い抜かれてしまったら?
その時、果たして自分に居場所はあるのだろうか。
終業後、いつも以上に疲れ切った身体を引きずり、アスカは訓練場を後にした。終業後もわざわざ残って、小隊長に機材の使い方を聞き直しているようなのはアスカくらいだったせいか、周囲に他の隊員の姿は見えない。善と颯の2人も食堂に着いている頃合いだろう。午前中に何があったか教えろと善は颯に言われていたから、その話をしているかもしれない。
もしまだ残っていたら混ぜてもらおうかーーそんなことを考えていた時だった。
「アスカ、ちゃん」
聞き慣れない呼び方だった。呼ばれるままアスカが顔を上げると、声の主がそこにいた。昼間の零の言葉を思い出し、心がドクンと揺れる。
ーー本当に話したいなら、向こうから声をかけてくるよ。
そう善は言ったが、アスカだって本当は、自分から声をかけてみたかったのだ。だって、本当の本当は嬉しかった。自分と話をしてみたいと言ってくれたことが。いつか女の子の友達ができたらーーそう零に話をした幼い日の自分が、やっと報われたような気がしたから。
困惑した表情をしているであろうアスカをそのままに、目の前の少女がーー日向が微笑む。
「よかったら一緒に、夕ご飯食べない?」
────
「普段からあんまり食べない?」
「あ…きょ、今日はそこまでいらないかなって」
食堂にて席についた日向の言葉に曖昧に返事をする。あまりこの話題については話したくないというアスカの意志を感じ取ったのか、それ以上は日向も追求してこず、「そっか」と一言だけ返事をした。
特殊な身体をしているアスカは通常の人間と異なり、味覚がない。なので基本的に食の好みというものはないのだが、今日のメニューは食感が苦手な肉を使った料理がメインだったため、若干量を減らしてもらっていた。
対する日向はお皿もお椀も満杯といった具合だ。見た目はアスカよりも小柄だし細身であるように見えるが、鍛えている分食べる必要があるということなのだろうか。それにしたってよくあの身体に入るなと思いつつ、何を語るべきか考える。
しかしアスカが答えを導き出す暇もなく「聞くかどうか、迷ってたんだけど」と日向が早々に口火を切った。
「あの日、ルカを襲ったのって、アスカちゃん?」
箸を持ったまま固まるアスカに対し、腹が減っていたのか早速といった調子で日向が夕食を口に含む。単なる雑談とでもいうかのようにあまりにも自然に聞かれたため、アスカも「うん」とつい正直に頷いてしまった。
アスカの返事にほっとしたのか、日向の口に笑みが溢れる。
「よかった。御坂に所属している女の子はアスカちゃんだけだから、多分そうだとは思ってたんだけど」
あ、と気づく。確かに日向の言う通りだ。
「もしかして、気づかれてないと思ってた?」
「き、気づいたら怒るかなって…」
思わず正直に答えてしまうアスカに対し、また日向が笑う。仕方がないとでもいうかのような、そんな笑い方。
「そんな、怒るわけないよ。私がアスカちゃんの立場なら、多分同じことしたと思う」
「そう、かな」
「そうだよ、立場の違いでしかない」
そうか、そんな風に考えていいのか。
でも、もしもアスカが日向の立場だったとして、あのエルと共に戦ったかと聞かれれば答えに迷う。偶然会っただけの存在であるエルーールカを、日向がどうしてそこまで気にかけるのか、アスカにはわからなかった。
「ちなみに、私を撃ったのって颯さん?」
「う、うーん…多分…」
「やっぱり?今日見た限り、颯さんが一番狙撃うまそうだったもんなあ」
「そんなこと考えて訓練してたの?」
「ううん、それは今思っただけだけど」
確かに颯の狙撃の腕は、御坂の中でも一位二位を争うレベルのものだ。しかし僅か1日でそれを見抜くのはさすがとしか言いようがない。抜群に優秀、という言葉がアスカの脳裏をよぎる。
「そういえば、今日午前中アスカちゃんいなかったよね」
立て続けに日向が言う。模擬戦のことについては零から聞いていないらしい。どうせ近いうちに御坂全体に広まる話だと思い、これもまた正直に答える。
「うん、模擬戦、見てて」
「模擬戦?」
「エル…ルカと、サトルさんっていう、ウチで一番強い人を戦わせる試合」
「…へえ、そんなのやってたんだ」
「上の人とかたくさん来てたから、ルカをみんなに見せる必要があったんだと思う」
「…そう」
「知らなかったな」と一言呟くと考え込むように日向が一瞬目を伏せたが、「1人で?」とまたすぐに質問を重ねる。
「颯さん…はいたか」
「あ、善と…」
じゃなくて、と慌てて零と同じ苗字を口にしようとしたが、それよりも早く日向が答える。
「ああ、蒼真さん?」
善を指す言葉が日向の口からするりと出てきたことに、ずしんとアスカの胸が重くなる。
「知り合い?」
「ううん。でも士官学校で去年首席卒業だったらしいから、名前だけは知ってるっていうか」
「ああ…」
「ああでも、蒼真さんってもしかして、蒼真零大佐の弟だったりする?」
「…うん」
違う、と嘘を言うことはできなかった。誤魔化すという選択肢だって選べただろうが、日向がそれを見抜くことをなんとなくアスカは予想していた。まだ大して会話を重ねたわけではないが、日向は恐らくかなり勘が鋭い。
「あの2人って、あんまり仲良くない?」
ほらやっぱり、と思う。なぜわかったのかとアスカが問う前に日向が言う。
「でも本当に、二度と会いたくないくらい嫌いなら、わざわざ同じ道選ばないよね」
アスカが辿り着くまでに随分と時間がかかった答えに、日向はいとも簡単に触れてみせる。胸の内から生まれてきたこの感情に名前があることを、アスカは知っていた。
うまく言葉が出てこず、黙りこくってしまうアスカと日向の間に沈黙が漂う。しかし沈黙を破り発せられた日向の言葉は、アスカの予想だにしないものだった。
「私、昔一度ルカに会ったことがあるんだ」
「…え?」
驚いたまま思わず日向を見る。
頬杖をついた日向がどこか遠くを眺めていた視線をアスカに戻して、薄らと笑みを浮かべる。
「蒼真さん…零さんには言わないでね。この前のこと、多分疑われちゃうから」
言えるわけがないと思った。たかだか1週間かそこら前の出来事の見え方が、急激に変わってくる。
「じゃあ、あの時ルカを逃がそうとしてたってこと?」
「まさか、そこまではしないよ。でも、そばにい続けるけるためにはどうしたらいいのかってずっと考えてた」
再び日向の視線がアスカから逸らされる。
「やっとまた会えたって思ったから。それ以外には何もいらないってくらい、嬉しかった」
遠くを見つめたまま、日向が続ける。
「でもダメだね。もう一度会えただけでも十分だったはずなのに、結局その先を望んでしまった」
その感情をアスカは知っていた。同じ感情を、善に対してもっていたからだ。
「後悔、すると思う?」
アスカの言葉に日向がこちらを見たのがわかったが、アスカはうまく日向を見ることができなかった。
怖かった。この道を選んだことを将来後悔してしまうことを、アスカは何よりも恐れていた。今はこんなにも善を思っているのに、それをいつか後悔する日が来るかもしれないなんて。
「しない、絶対に」
しかし日向の声に迷いはなかった。
「この先何が起こったとしても、どんな死に方をしたとしても、この道を選んだことを後悔なんてしない」
真っ直ぐに答える日向の瞳の中に映る自分が、ひどく情けない顔をしているのがわかった。そんな風には思えなかった。そんな風に信じられるほど、自分は強くないとアスカは思った。
「アスカちゃんにも会えたしね」
軽く、歌うように言う日向に思わず拍子抜けする。
ーーなに、それ。
いきなりはずるいと思うと同時に、この心をかき乱される感じには覚えがあった。
「ルカのことを抜きにしても、来てよかったって思ってる」
「ほ、本当に…?」
「本当に。やっと女の子の友達ができるって思ったんだよ?」
こちらを揶揄うように笑う日向の顔に、善の笑顔が重なる。こちらの思考を読まれているかのような感覚。
多分、日向は少しだけ善と似ているのだ。だけどそれを少しも嫌だと思えないくらいに自然なところも、日向は善と似ていた。
「今度休みの日、どこか一緒に遊びに行こうよ」
「いいの?」
「私は行きたい」
冗談ではないだろうということは、なんとなく日向の瞳から察していた。「零に聞いてみる」とそれとなく返事を返すと、日向がまた楽しそうに頷く。そして言った。
「ありがとう」
約束だと、日向は言わなかった。
ただ、誓いのように告げられたその言葉を、きっと自分はこの先忘れることができないのだろうと、アスカは祈るように思った。




