タイトル未定2024/07/16 00:22
失楽園のなかで失楽に耽っている者はそこがディストピアだと気付かないという。夢に沈んだ者が夢と認識できぬように。
ならば、私はきっとその中にいなかったのだろう。ただ、いつも境界近くから、そのディストピアの中を見て、1本のか弱い糸で繋がった糸電話を通してその中の人と話し、その中にいるつもりだったのだろう。そしてついぞその中に身を投げ出すことはなく、1人でその境界の壁に座り、何かを綴っていたのだろう。
やがて、か弱いその糸はいつしか人知れず千切れていた。それはすぐには気付かずとも、やがてある日、返答が無くなって初めてその糸が千切れていたことに気づいたのだった。そのか弱い糸だけが、境界上の孤独な観測者とそのディストピアを繋ぐ縁であった。それが切れてしまった以上、観測者はそのディストピアから去っていった。もう二度と登れなくなった境界の壁に囲まれた中で、今日もまた失楽園は堕落を謳歌するのか、それを知っていた観測者ももう居ない。もう戻ってくることは無い。
彼に残ったものは何も無かったから。全てをそこに置いてきたから。それで、彼は知らない世界に歩みだした。だけど、歩き始めて知ったのは、その壁の外は、荒涼とした大地、ただ一片の肉、一掬いの水を求めて数人が互いに殺し合うような不毛な世界だった。あの失楽園の方が、よっぽどマシな環境だった。圧政だし独裁だけど、辛うじて秩序は存在していたから。その外にあったのは言うなれば混沌そのものだった。
こんな表現が正しいのかどうかは分からないけどあえてこう言わせて貰うよ。「原始時代だ。」とね。そうして、観測者は次第に後悔し始めてしまったのさ、あの失楽園に入っていって、盲目になることを良しとしなかった観測者は、外の世界に逃げ出したけど、それは片道切符、もうその壁を登ることは叶わない。
だから、観測者は自分で秩序の国を作ろうとしたんだけど...まあ上手くいかなかった、人は少ないし、失楽園にあったような娯楽もないんだもの。何より、信頼されていなかったんだろう。言ったことを反故にされて、詰ることも叶わないんだから。そんなんで本当に国なんて作れるはずないのにね。
そうして観測者はしばらく旅に出たんだよ。目的は無いけど、ただ、狭い、自分の足で届く範囲の世界を見て回るためだけの旅に行ったんだ。そこで彼は何を見たと思う?
しばらく歩いて、彼は一つの劇場を見つけたんだ。モダンなその劇場に他に観客はいなかったけど、不思議と劇は上演されていたんだよね。それに、その劇は演者が舞台上で本物の血を流して死んでいく劇だったの、でも何度も繰り返し上演されていて、死んだはずの演者は次の劇にはピンピンしてるし、傷跡も見えないんだ。
彼は次第に気分が悪くなり始めた。でも彼の好奇心が勝ったんだろうね、彼はその劇場の舞台裏に足を踏み入れたんだ。そこにはただ1人の少女の姿をした「舞台装置」と十数人の演者がいたんだ。
それが、観測者が最後に見た景色だった。次に目を覚ました時には、彼もまた一人の演者となって、舞台上にいたんだから。