巡回
夜、その建物の中でポタッ、ポタッと水が滴り落ちる音と足音が響く。
外は雨……ではない。何日か前に降った雨が屋上から下へ下へと染みこんでいるのか、それとも配管から漏れているのか、いや、水道は止められているはずだ。
ここは廃墟。彼の仕事はそこの巡回。
なんだってこの俺がこんな仕事を……。
という心の嘆きは足音に表れることなく、ただ体の内部で繰り返し繰り返し木霊し続けている。
この社会が、実力主義であることはわかっていた。受け入れていた。望んでもいた。
……自分が一番前を走っている時は。だが、今や若い連中に職を、居場所を奪われ……
「ああっ!」
と、彼はとうとう堪えきれず声を上げた。肩に水滴が落ちてきたからだ。
彼は手で払い、そしてその手もまた、ぶんぶん振った。
汚い汚いああ嫌だ空気がそうだあああ嫌だ怖い怖い……。
窓はない、暗い廊下。先に進むことを躊躇う彼。裸一貫。身を守る術はない。ライトは持っているが、それで視界が万全とは言い難い。
また水適が落ちた音がした。この先からだ。まただ。ポチャンと。水溜まりがあるかもしれない。まただ。静謐な空間に響く音。ライトの光の中に浮かぶ埃。それが大きく揺らいだ。違う、揺らいだのは光のほう。つまり彼の手。悲鳴が聞こえ、思わずライトを手から落としそうになったのだ。
ああ嫌だ嫌だ嫌だ。今した叫び声は何だ。こんなジメジメしたところに、わざわざ来る者などいるはずがない。
野良犬か? 馬鹿な。いや、ないこともないか。処分されることを恐れ、隠れているかもしれない……ああ、怖い怖い……。
彼は一歩、前に進んだ。身を翻し、出口に戻ることも一瞬考えたが、一応、仕事へのプライドはある。それにGPS機能により、歩いたルートは記録され、会社に送られるはずだ。
こんなところに追いやられた身で仕事をサボったらその先は、野良犬……野良……殺処分。そう連想しないはずがなかった。
床を、天井をライトで注意深く照らし、進む。
――壁に何か
そう頭を掠め、彼はライトを素早く振った。
「あ……あああああああああっ!」
薄汚れた灰色の壁。そこに血痕、あるいはウイルスのような放射状の円がいくつも、そしてまたそれらが合わさり一つの巨大な形を成していた。
まるで幽鬼。耐え難い嫌悪感と恐怖が込み上げるが、ふとそれらは途絶えた。
足音がしたのだ。
それは彼の後方から。水溜まりを踏み、こちらへ近づいてくる。
何かあるならば確認するのが彼の仕事、義務であろう。だが気づけば彼は走り出していた。
もういい、ただ巡回ルートを回るだけでいい。関係あるか。どうせ――
彼は走った。無我夢中、時折水溜まりを踏み、悲鳴を上げては、また走り、そして何かに躓き盛大に転んだ。
よりによってこのタイミングで、というのは矛盾するようでよく起こりがちだ。彼が倒れた先。そこには浅く広い窪みがあり、大量に水が溜まっていた。
「ああああああああぁぁぁぁぁ!」
彼は堪らず叫んだ。叫び続けた。押し殺していた感情が溢れ、滴る水を押しのけるようだった。
ひとしきり叫ぶと彼は、自分が何に躓いたか確かめる気になった。
――足
落ちていたのは足だった。そしてそれが誰のものかまで彼にはわかった。背後でしていたあの足音は、もうすぐそこまで近づいてきていた。
「あ、あ、あ、あああああっ!」
彼は手にしたその足を放り投げ、走った。
そして廃墟から出ると振り返り、耳を澄ました。
風が草木を撫でる音。滴り落ちる水の音。その中、片方だけの足音はまだ廃墟の中で響いていた。
彼はその場で座り込み顔を覆った。彼にはわかっていた。わかってしまった。
あれは俺だ。過去の俺であり、未来の俺だ。
薄汚れ、錆びついた体。型落ちしたロボットの末路。
そこまでわかっていながら彼は、その廃墟から離れようとしなかった。あてもなく街をぶらつけば野良犬のように捕まる。ゆえに、すがるしかなかった。与えられた、たった一つの仕事に。
不要な仕事。遂行しているか誰も気にもしない仕事に……。