56 安らぐ居場所
クレアは結婚しても生活が大きく変わることはないと思っていた。家を引っ越す必要はなく、近所との付き合いも今まで通り。ほんの少し、心のあり方が違うのみだと。
テオドールは人前だと節度を保った、今まで通りの距離感を保っていた。あまりに変化がなさすぎて、知り合いからは本当に結婚したのかと不思議がられるほどだ。心配と好奇心から普段の様子を聞いてきた人たちに、テオドールは人前でいちゃつくわけがないだろうと呆れたように返す。それが照れ隠しからきた態度だと知っている人は少ない。
二人きりになると、言葉だけでなく触れ合うことで愛情を示してくれる。帝国の文化や言葉の細かい表現に疎いクレアへ伝わりやすいようにという配慮だろう。クレアもできる限り返すようにしているが、足りているだろうか。
包みこんで守ってくれるような愛情は、幸せを感じたまま溺れていきそうなほど深い。クレアが受け取っている気持ちをテオドールも感じてほしいと抵抗してみるものの、言葉巧みに追い詰められて、いつも負けてしまう。
惜しみなくクレアに伝えてくれるから、嫌なんて思ったことがなかった。
交わされる言葉は二人だけしか知らない。日を追うごとに秘密が増えていく。
クレアは朝がきたことを感じて、目を開けた。隣ではテオドールが眠っている。結婚して二ヶ月ほど経ったけれど、まだこの状況には慣れていない。起きるたびに新鮮な驚きがあって、同時に幸せが幻でないことを教えてくれる。
「朝ですよー……」
テオドールの髪に、頬に触れて呼びかける。同じベッドで眠って起こすのがクレアだけの特権になる日がくるなんて、過去の自分は考えもしなかっただろう。
小さくかすれた返事があった。テオドールの灰色の瞳が、ぼんやりとクレアを捉えた。そのまま起きるのかと思われたが、テオドールはクレアの肩に顔を埋めるようにして抱きしめてきた。
「テ……テオドールさん」
「ん。もう少し……」
完全に二度寝の態勢に入っている。
寝ぼけたまま抱きついてくるのは、一度や二度ではない。テオドールが実は朝に弱いなんて、結婚するまで微塵も思わなかった。フェルを養育する立場として、クレアが来てからは格好悪いところを見せまいと、気を張っていたらしい。
――これはこれで好きだわ。
隙がないテオドールが油断した姿を見せてくれるのは、クレアを受け入れているから。幻滅なんてするわけがない。
一向に起きようとしないテオドールの頭を撫でていると、サイドテーブルに置いた目覚まし時計が鳴った。内蔵されているオルゴールの音で、クレアの体を枕にしていたテオドールが動いた。
残念そうな顔で、ゆっくりと離れる。
「もしかして、抱き心地というものが悪かったのでしょうか」
「朝から何の話だ」
「残念そうな顔をされたので、もしや私の体型に不満があったのかと」
「断じて違う」
「違うのですか」
テオドールはクレアの髪を指先に絡めた。
「……今日から出張だから、しばらく会えないだろ」
「そう、ですね」
もちろん覚えている。寂しいと思っているのが自分だけではなかったことに、安心してしまう。
しばらく無言で抱き合ってから、ようやく一階へ降りた。
朝食を終えたころ、庭に転移してきたフェルが裏口から入ってきた。両親と話し合った結果、学校がある期間はテオドールの家から通い、長期休暇に入ると両親がいるところへ帰ることにしたそうだ。今日は冬の休暇を終えて登校するために、こちらへ顔を出したのだろう。
「今日からまたお世話になるね」
フェルは挨拶もそこそこに、庭や室内を見まわした。
「テオ、出張するの?」
「よく分かったな」
「いや……敷地の結界がまた強化されてるから、しばらく家にいられない理由があるのかなって」
「限界まで見えなくした自信作だったんだが、お前に見破られるとは」
「僕は結界の変遷を見てるからね。今まで探知できたものが消えたら、不思議に思うよ」
「ついでに罠でも設置しておくか」
「何がついでなのか、僕には全く分からないんだけど」
戸惑っているフェルに対し、テオドールは不思議そうに言った。
「昼間はクレアが一人になるんだから、防犯に力を入れるのは当たり前だろ」
「力を入れすぎて要塞並みになってる気がするなあ。ブロイ公爵の屋敷でも、ここまで堅牢にしてないよ」
「公爵のところは私兵がいるから、魔術は補助的な使い方になるんだよ」
テオドールは壁にかかった時計を見上げ、時間かとつぶやいた。
仕事の道具が入ったカバンを持ち、裏口から出たテオドールは、庭の一角をじっと眺めた。特に何も口にしなかったが、新しい結界の構想でも思いついたのだろうか。
「テオってあんなに過保護だったっけ? それとも物作りの趣味が暴走してるのかな」
そう呆れたように言ったフェルは、動こうとしないテオドールに遅刻するよと声をかけた。
数日後、庭の温室に干していた洗濯物を取り込んでいると、裏口から家の中へ入っていくテオドールの背中が見えた。予定通り出張を終えて帰ってきたらしい。クレアは手早く作業を終わらせ、温室を出た。
家の中へ入って洗濯物を入れたカゴごとテーブルに置いたところで、ちょうど工房から出てきたテオドールと目が合った。
わずかに安堵した表情を浮かべたテオドールは、クレアに近づくなりしっかりと抱きしめてきた。愛おしさからの行動というよりも、クレアが生きていることを確かめるような動作だ。
以前にも、同じことがあった。まるで遠く離れていると、凶事が起きると思っているかのようだ。
ふとテオドールの母親は一人で家にいる時に殺されたのだと思い出した。自分と関わったことで、クレアにも同じことが起きるかもしれない不安を抱えているのだろうか。そう推測すると、クレアに渡した指輪や、敷地を囲む結界を強固なものにした理由に納得がいく。
「お帰りなさい」
クレアは少しでも安心してもらうために、抱きしめ返した。
ややあって離れたテオドールは、大切なもののようにクレアの顔を両手で包み、額を寄せた。それから、ただいまと照れくさそうに答えて微笑んだ。
***
幸せな日々に不安を感じないと言えば、嘘になる。
テオドールは拘束してくる性格ではないので、クレアが外出しても何も言わない。王国との確執も解決したため、もう一人で買い物へ行けるようにもなった。休日をもらったフラヴィと外で会うこともある。クレアが感じている不安は、そんな自由すぎる日々に対してだ。
これが夢だったらどうしようか。目覚めると王宮のメイド部屋に戻っているのではないか。眠る前に良くない思考が忍び寄ってきて、朝になると心の奥に隠れている。新しい生活に慣れていけば、不安が消えるのだと思いたい。
育ててくれた母親の命日が近づいていたとき、テオドールから王国へ行かないかと提案された。
「私は入国できるんですか?」
「正規の方法では難しいだろうな」
平民が外国へ行く場合、身分の証明のために行政から旅券を発行してもらわないといけない。クレアはアリアンヌが身元を保証してくれているので、行き先によっては簡単に旅券がもらえるそうだ。
「帝国としては、あまり王国に関わってほしくない。申請をしても公爵夫人が却下するはずだ」
「では、どうやって?」
「転移魔術で。すでに見つからない経路は開拓してる。年に三回ぐらいならバレないだろう」
なぜ三回なのかと尋ねる前に、テオドールが続けた。
「たとえバレたとしても、親の墓参りが目的なら見逃してくれるだろうよ」
育ての親と、血が繋がった両親。クレアは入国を諦めていたのに、テオドールは命日に合わせて連れて行ってくれる。
「テオドールさんの負担になりませんか?」
「クレアを連れて往復する程度で、負担になるほど弱くねえよ。それに、何年かかってもクレアが幸せだと思えるようにするって言っただろ?」
「今のままでも十分すぎるほど幸せです」
「諦めろ。俺が満足していない」
「私ばかり受け取っている気がします」
「そう思っているのはクレアだけだ。俺がどれだけ救われているか、今から教えようか?」
テオドールの笑みに色香が混ざった。こうなるともうクレアは逃げられない。唇をそっと指でなぞられ、クレアは観念して目を閉じた。
唇に、全身に感じている熱が現実だと告げている。
不安がゆっくりと溶けて、消えていくのを感じていた。
完結しました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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今回は等身大の幸せを目指して書きました。
身分差なし、婚約破棄なし、トンビなし。
なんだかテオドールが心配性というか過保護なほうへ転がっていきましたが……幸せそうだからいいか。
そんな読後感です。
2023/06/28 佐倉百





