54 仕掛けと祝福2
人の容姿を褒める表現に、あんなにも種類があるとは思わなかった。クレアは茹だりそうな頭を抱えた。聞き取りやすい声で言われたことが、ずっと頭の中に残っている。
「今夜はアリアンヌ様のところで頭を冷やしてきます……」
「新婚初日で実家に帰ろうとするんじゃねえよ」
止められてしまった。自力で平常心を取り戻さないといけない。こんな調子でまともに生活できるだろうか。クレアは初めてテオドールのことを酷いと思った。
――ああ、でも、アリアンヌ様に頼ってばかりじゃ駄目よね。自分のことだもの。
さんざんクレアを褒めたくせに、テオドールはまだ物足りないらしい。時計を見て、時間切れかと仕方なさそうに言う。
「残りは折りを見て小出しにするからな」
「に、日常生活に支障が出ない程度でお願いします」
先ほどと同じ量を浴びせられると、きっとしばらく動けなくなる。
テオドールはしばらく間をおいてから、分かったとだけ答えた。絶対によからぬことを考えている。だが問いただす気力は出てこなかった。
「テオドールさん、さっきから何も聞こえないんだけど。何かした?」
不満そうな声がする。室内に入らないよう言われているのか、扉のところでリコが手を振っていた。顔見知りになった近所の人たちばかり集まっている。
「当たり前だろ。なんでお前らに聞かせなきゃいけないんだよ。見せ物じゃねえぞ」
すっと無表情になったテオドールは、野良犬を追い払うように手を振った。だが冷たい対応には慣れきっているのか、誰も動じていない。
「立ち位置まで調整してさ、顔がぜんぜん見えなかったし。フェル、お前も何か言ってやれ」
「えっ僕? 防音の魔術って便利だね……?」
「感想かよ」
「我が弟子よ、干渉を防ぐ防壁まで組み込んであるようだが。国家機密でも話していたのか?」
フェルの横にいたアルブレヒトが、のんびりと聞いてきた。
「お前みたいな奴が勝手に解除するからだよ。そこに集まっている奴らから頼まれて、干渉してきたのは知ってるんだからな」
集団の中にいる数人が、気まずそうに目を逸らした。そろそろ移動するかなどと白々しく離れる者もいる。
「困っている様子だったから協力しようとした。駄目か」
「困ってる奴を片っ端から助けようとするのを止めろ。犯罪に加担しそうになった過去を忘れたのか世間知らず」
「あれは特殊な例だろう」
「特殊な例しかないから言ってんだよ」
「もう、時間がないんだから言い争いは後にしてくれる?」
アルブレヒトを雑に押しのけ、ソーニャが前に出てきた。腕には彼女の子供が抱き抱えられている。子供はクレアと目が合うと、愛想よく笑った。
「あんたたち、聞く相手を間違ってんのよ。リヒターさんに聞いても答えてくれるわけないじゃない。どうせ口先で誤魔化されて終わりよ。だから……ねえ、クレア。なんて言われたの?」
「わ、私ですか!?」
ソーニャの子供と手を繋いで遊んでいたクレアは、急に名前を呼ばれて驚いた。期待と好奇心に満ちた視線が、クレアに集まっている。絶対に何かを答えないといけない空気だ。
テオドールを見上げると、ただ苦笑しているだけだった。
言われたことは全て覚えている。熱がこもった視線も、声音の柔らかさも、クレアしか知らない。
なんとなく、独り占めしておきたかった。
「……たくさん褒めていただきました」
それだけ言うのがやっとだった。幸せな気持ちで心の中が埋め尽くされて、息切れしそうだ。時間が経てば、誰かに語ってみたくなるかもしれない。思い出すだけで熱っぽくなる今は、想像がつかないほど未来のことに感じる。
「なんだろう。この返り討ちにあったような気分は。幸せそうでいいなあ」
「事実だからでしょ。リコ、みんなも気は済んだ? 最初っから勝ち目ないんだから、未練たらしい顔すんじゃないわよ。大人しく席に座ってなさい」
ソーニャは集まっていた人々に声をかけた。またねとクレアに笑顔を見せて、綺麗よと最後に褒めることも忘れない。
ぞろぞろと去っていく人の背を眺めながら、クレアは首を傾げた。
「なぜ、残念そうな顔をされたのでしょうか」
「具体的な言葉が全く出てこなかったからだろう。あれでいいんだよ。全て教えなくてもいい」
テオドールはどこか安心しているようだった。見せ物ではないと言っていたように、やはり他人には知られたくなかったのだろう。
「行くか」
「はい」
クレアはテオドールの腕に手をかけた。
控え室から聖堂へ向かうと、扉の前で神父が待っていた。両開きの扉が開き、中で待っていた人々の話し声が聞こえてくる。だが音楽が流れ始めた途端に小さくなり、消えていった。
庶民の結婚式は簡単だ。このまま司祭がいる祭壇の前まで歩いていき、誓約書に署名をする。司祭は誓約書が本物だと証明するために、見届け人の欄に名を記す。それをもらってスールズの役所へ提出するだけらしい。
古い時代のしきたりとして、式の最中に不満がある者は名乗り出ることも可能だそうだ。だが近所の人たちに聞いても、誰もそんな場面には遭遇したことがないという。
ペンを受け取ったクレアは、テオドールに続いて己の名を書いた。
これから署名する時は、クレアという名前だけでなくリヒター姓も書くようになる。帝国語とはまた違った綴りだ。練習のために初めて書いた時は、自分の名前と思えなかった。嬉しくて、恥ずかしいような気分になる。この気持ちも時間が経てば薄れていくのだろうか。
「これで二人は神の名のもとに家族となることを認められました」
署名を見守っていた司祭はそう言うと、テオドールへ視線を寄越した。テオドールは軽く頷いてから、集まっていた人々の方へと向く。
「本来ならここで終わりですが、もう少しだけお付き合いください」
よく通る声で言ったテオドールは、上着の内側から指輪を一つ取り出した。
「故郷では、式の最後に配偶者へ装飾品を贈る風習があります。祈りの言葉と共に、ある種の魔術を使いますが……まあ、魔術に馴染みがない方には暇なので、余興を用意いたしました」
ざわざわと話し声が広がる。伯父やジェラールたち貴族には事前に知らせてあったらしく、困惑した顔は見られなかった。
「一つ、お願いがあります。皆様が保有している魔力を、少しだけ分けていただきたい。特別なことは必要ありませんよ。ただ、座っているだけでいい。もちろん拒否していただいても構いません。強制ではありませんから」
反対の声は上がらなかった。皆が興味深くテオドールを注目している。
「同意していただけたようなので、始めさせていただきます」
仕事用の笑みを浮かべたテオドールの口元が動いた。工房で見たことがある文字が床に広がり、聖堂全体に淡い光が満ちていく。光で構成された花が降ってくると、人々の間から歓声があがった。
幻想的な光景に見惚れていたクレアは、テオドールに左手を引かれて我にかえった。
上機嫌でテオドールはクレアの手に指輪をはめ、仕上げのように口付けた。
「よし、計画通りだな」
「計画?」
「クレアを守る道具が作りたかったんだよ。この聖堂は魔力の増幅に役立つ形状をしてるから、儀式を行うには最適なんだが……指輪のように小さなものへ魔術式を刻むには、膨大な魔力が必要になる」
「それで皆さんに分けてほしいとお願いされたんですね?」
「ああ。ここに人が集まって、こっちの要望を聞いてくれる機会なんて、滅多にないだろ?」
さすが皇族は魔力の質がいい――テオドールは結果に満足したように、花の幻を小鳥に変えた。





