52 許可2
「さて……クレアさん。私はあなたがいいなら、反対しないわ」
「アリアンヌ様……」
「あなたの普段の態度や、手紙で知らせてくれたことから、こうなると思っていたの。でもね、他人に用意された道ではなく、自分の意思で将来を選んでくれて嬉しいわ。現状に慣れてしまって、自力で歩けない人は多いのよ。あなたは大丈夫。私たちを味方につけたことも含めて、どう動けば問題が解決されるのかを知っている。行動力もあるわ。夫に不満があるときは、またここへいらっしゃい」
「不満なところは言ってほしい。改善するから」
切実さを滲ませてテオドールが訴えると、アリアンヌが愉快そうに笑った。
「あら。まるで経験済みのようなことを言うのね」
「不満とは違いますが、公爵夫人のところで勉強し直してくると言って、家出されそうになりましたので」
クレアは己の未熟さが招いた事態を思い出して、居心地が悪くなってきた。
「それは一大事ねえ。この子は意外なところで行動力を発揮するから、きちんと見張っておかないと駄目よ?」
「ええ、ごもっともです。救われることもありますけどね」
テオドールは魔力を半ば強引に分け与えたことを暗に指摘しているようだ。
会話の主導権をジェラールから奪ったアリアンヌは、クレアの名を呼んだ。
「一つだけお願いがあるの。ドレスは私に用意させてもらえないかしら?」
「ドレスを?」
「ええ。ぜひ結婚式であなたに着てほしいものがあるの。ねえ、ジェラール様」
「まさか……しかし、あれは」
「クレアさんをさんざん政治利用しておきながら、贈り物すらしないの? 王国との交渉がうまくいったのは、誘拐されても見て見ぬふりをしたからでしょう?」
やっぱりな――テオドールが小声で納得した。
「収穫祭で私がどのワインを飲んだのかまで掌握しておられたブロイ卿が、クレアの誘拐について何の言及もしないなど、奇妙だと思っておりました。警備の不手際を責められると身構えていたのですが。まさか近所に潜伏している部下から報告が届いていない、なんてことはありませんよね?」
「……リヒター、君は理解した上でからかっているのか」
「ええ。毎日、ほぼ決まった時間に連絡用の魔術が使われているのを探知しております。連絡手段に魔術を使うのであれば、もっと複雑に暗号化なさるのがよろしいかと進言いたします」
「情報提供、感謝する」
ジェラールはいい笑顔を浮かべたが、目が笑っていなかった。
「ああ、そうだな。全て私が悪い。そうでもしなければ、王国は引き下がらなかっただろう? 安全面には気を遣っていたさ」
「ジェラール様が仰る安全面とは、まさか生きてさえいればいいという意味ではありませんこと? 戦場にいる騎士と姪を同列に扱わないでくださいませ」
「同列には扱っていないが」
「では可愛い姪への謝罪をこめた贈り物に、方々と交渉してくださるのよね? あなたしか出来ないことですもの。ねえ、クレアさん?」
「えっ……よ、よろしくお願いします……?」
アリアンヌの笑顔に強制される形で、ジェラールにドレスをねだることになった。ジェラールはクレアと目が合うと、ふと表情を和らげて、君の願いなら仕方ないと穏やかに言った。
臨時で打ち合わせをすることができたと言うジェラールは、テオドールを連れて部屋を出て行った。残されたクレアはアリアンヌに手紙では伝えられなかった経緯を詳しく質問されたり、途中から参加したフラヴィにからかわれつつ過ごした。
残念だったのは、教師に会えなかったことだ。屋敷に住んでいないので仕方ない。アリアンヌに根回しをするときに、有益な情報をたくさん教えてくれた。できることなら直に会って礼を言いたかった。
馬車に乗せられて帰る途中で、テオドールはクレアに手紙のことを尋ねてきた。
「ブロイ公爵に情報が伝われば十分だと思ってたんだが、よく公爵夫人を味方にできたな」
政治一筋の公爵よりも求めているものが分かりにくく、説得が難しいらしい。クレアはまず教師とフラヴィの二人に連絡を取り、アリアンヌの人となりについて教えてもらったことを明かした。
「最初にこちらの要求を伝えても駄目だと聞いたんです。それにアリアンヌ様は、実は隠れて恋愛小説を楽しんでおられるとか。劇場も悲恋で終わる話のときは、あまり足を運ばないそうです」
アリアンヌへの手紙は、今まで読んだ本の知識を総動員して、物語風に近況を知らせていた。締めくくりに、ジェラールが認めてくれるのか不安だ、スールズで暮らすことができたら幸せなのにと書いておいた。
「なるほど。公爵夫人の感情を揺さぶって、手を差し伸べてやりたいと思わせたのか。俺から説得するよりも、効果が高いな」
「今の生活を変えたいなら、いつでも言ってほしいと仰っていました。ですから、話を聞いてもらえると思ったんです」
二人の将来に関することなのに、テオドールだけに任せるのは違う気がした。クレアも自分にできる範囲で働きかけないと、この先もずっと甘えてしまうだろう。もう流されるだけの自分でいたくない。
誰かが助けてくれるのを待っているよりも、自ら働きかけて環境を変えるほうが、きっと充実している。
「これで障害はなくなったわけだが、感想は?」
「ちゃんと自分の意思で生きている気分です」
「それはよかった」
テオドールはクレアの肩を抱き寄せて、額に軽く口付けた。それっきり窓のほうを向いている。手はクレアの肩に乗せたままだ。
決して広くない馬車の中で緊張しているのは自分だけだと思っていたのに、テオドールの頬がほんのり紅潮しているのを見て、胸の奥が熱くなってくる。照れているのを無表情な顔で誤魔化すところが、つい可愛いと思ってしまった。
ジェラールの屋敷ではあんなに雄弁だったのに、いまは何も語ってくれない。それなのにクレアのことをどう思っているのか、行動と態度が伝えてくれる。
――やっぱり、ずるいわ。
クレアはささやかな反抗として、甘えるようにテオドールの肩に寄りかかった。
***
家から最も近い教会は、小さいながらも歴史が古い。職人街に住んでいれば、冠婚葬祭で一度は足を運ぶことになるほど身近な場所だった。
テオドールは司教の執務室に案内されると、壁の近くに用意してあった脚立を立てた。続いて木箱へ大切に入れていた時計を取り出し、壁にかけてやる。手持ちの懐中時計を使って時刻を合わせ、振り子を動かす。正常に動き始めたのを確認してから、脚立を降りた。
「終わりました。ご確認ください」
自ら案内をしてくれた司祭は、機嫌よく動いている時計を見て満足そうにうなずく。
「ああ、いいね。気のせいかな、外観も少し綺麗になったようだ」
「分解整備中に気がついた汚れは、全て除去しております。表面の木目も同様に、付着した埃を落としただけです。部屋の環境が適しているのでしょう。長年、動いているわりに問題点が少ない」
「いいことだ。頻繁に時計を買い替える財力はないからね。同い年として仲良く奉仕しようではないか」
老人の域に差し掛かっている司教は、時計にそう語りかけた。
「いつも助かるよ。今回の謝礼だ」
「こちらこそ、貴重な時計を任せてくださって感謝しております」
先代から工房を継いだとき、テオドールの若さを理由に、顧客の何人かは離れていった。だが司教は年齢で判断せず、引き続き仕事を任せてくれている。影響力を持っている人物が態度を変えなかったことで、大半の顧客が継続して工房を利用していた。今では自分の腕で新規の客が増やせるようになったが、司教がいなければ厳しい道のりだっただろう。
恩人から整備の費用を受け取ったテオドールは、上着の内ポケットに大切に入れた。
「そうだ、結婚するらしいね」
「はい。良き縁に恵まれまして」
「しかもこの教会で式を挙げたいと。とても喜ばしいことだ。おめでとう」
「ありがとうございます。そのことで、ご相談したいことが……」
「ほう?」
テオドールは申し訳なさそうに、少しだけ声をひそめた。
「式を挙げるにあたって、寄進をしたいと思っております。半人前だった俺を助けてくださったお礼もありますが、気になることもありますので」
「気になることとは?」
「雨漏り、してますよね」
今度は司教が申し訳なさそうな顔になった。
「……入り口の扉とトイレを修理した後に発覚してな。まだ予算の目処がついていないのだよ。こう建物が古いと、あちこち手入れをしないといけないところが増えるばかりでね……」
「ええ、そうかもしれないと思っておりました。ですから、聖堂の修繕を任せていただけませんか? 建材を扱っているところに伝手がありまして」
「我々としてはありがたい申し出だが、しかし何故に?」
「もし挙式する日が雨だったなら――花嫁が濡れてしまいますから」
「おお……」
司祭は感極まったのか、目頭のあたりを抑えて静かになった。
「君が工房を継いだころは、少しばかり荒れていたようだが……そうか、心から尊重できる人と出会えたようだな。見守っていた甲斐があったというものだ」
「昔のことはもう忘れてください。まあ、俺も若かったということで」
むしろ今すぐ消去してほしい。テオドールは嫌がらせをしてきた同業者や、所有している物件を狙って手出ししてきた業者を、片っ端から陥れてきた過去を思い出してしまった。クレアの耳に入らないよう、改めて口封じをしておくべきだろうか。
「君の師も神の国で喜んでいることだろう。聖堂へ自由に出入りできるよう、私から皆へ話しておこう」
敬虔な司教は人のいい笑顔でテオドールを見送ってくれた。断られることはないだろうと思っていたが、あまりにも上手く話が進んでしまうと、逆に居心地が悪い。きっと自分が捻くれているだけだと結論を出し、次の目的地へ向かった。
港に近い通りへ近づくと、木材を削る音がしてきた。開口部がひときわ広い工房からだ。数人の職人がカンナがけの作業をしている。一番若い職人がテオドールに気がつくと、奥へ向かって叫んだ。
「親方ぁ! テオさんが来たっすよ!」
「お? ついにウチで働く気になったか?」
「ならねえよ。買いたい木材があるんだけど」
「おう。何が必要だ?」
求めている木材の種類を告げると、明らかに困惑された。
「そりゃあ置いてるが……どこに使う気だ? 家の修繕にしては立派だが」
「教会の屋根を直すことになった」
「相変わらず幅広くやってんなぁ。まあいい、あんたのことだから自分で選ぶんだろ? こっちだ」
必要量の木材を買い付けたテオドールは、工房から出て時間を確認した。もうすぐ正午に差し掛かろうとしている。
「昼からは素材屋巡りだな……試作品用と、それから……」
時間が足りるだろうか――不安で焦りそうになってきた。テオドールは落ち着けと自分に言い聞かせてから、近道を使って自宅へ急いだ。





