48 恨みの断絶
無防備に眠っているクレアを見て、感情の整理がつかないまま心が濁っていく。負担させて申し訳ないとか、自分だけの力で解決できなかった無力感、怨嗟の歴史に巻きこまれた憤りが大半を占めている。
テオドールはクレアを抱き上げて寝室へ運んだ。優しくベッドに寝かせて、起こさないようにそっと離れる。本当はずっとそばについていたいが、差し迫った事情があった。
クレアのおかげで、回復にかかる時間が大幅に短縮できた。敵はまだ完全に立ち直っていないはず。攻めるなら今しかない。
――俺もそろそろ腹を括るか。
振り返ってクレアの寝顔をもう一度見たあと、静かに扉を閉めた。
廊下へ出ると、気温がぐっと下がったような気がした。近くに低級霊がいる。朧げな、白いもやが通り過ぎていった。仕事を申しつけられたのか、真っ白なリネンを運んでいた。
城の外へ続く通路を歩いている最中に、動きまわっていたはずの低級霊が静かになった。近づいてくる気配を敏感に察し、壁際へ寄ってうずくまっている。まるで追い詰められた小動物が捕食されないように、息を押し殺しているかのようだ。
彼らの主人が近くにいる。テオドールは回復の余韻で散漫になりがちな気持ちを引き締めた。
「顔色が良くなったな。傷が癒えたか」
現れたアルブレヒトは、テオドールの右肩あたりを見て言った。
「なぜクレアに教えた」
「役に立っただろう? 我が弟子の回復量よりも敵が上回っている。今回の衝突で決着をつけるなら、彼女の協力は欠かせない。何をためらう?」
アルブレヒトは非常に合理的な思考の持ち主だ。理屈を説明すれば、他人も納得して同じ思考で動くと思っているところがある。世間と隔絶した生活をしているために、人の感情には疎い。
「ここへ連れてきたのは避難のためだ。魔力の供給源にするためじゃない。クレアが協力的だったから上手くいっただけで、嫌悪感を持たれるのが大半だぞ」
「本当に避難だけが目的か?」
「クレアの保護は、お前に届いた依頼だった。連絡がつかないから俺に回ってきただけだ。俺が死んだら、お前はクレアを城に滞在させる理由がない。絶対にブロイ公爵のところへ、無傷で送り届けるだろ?」
自分がいなくても、クレアの安全は保証される。アルブレヒトに頼ることになるのは癪だが、己のプライドを優先させている場合ではない。襲撃されたときは、そう判断してフェルと一緒に転移させた。
「そうだな。引き継ぐにしても、ブロイの小倅に無断で行うわけにはいかない。一度は足を運ぶことになろう」
アルブレヒトはのんびりと答えた。
「敵を倒すことだけが復讐ではないと言ったことを覚えているか?」
「生き残ったほうが勝ち。心残りを作っておけ。そのために家族を作れ」
「そう。選民思想が強い純血主義者は、人間の中から派生した力が、再び人間の中へ埋没していくことを恐れている。栄華を誇った時代が忘れられない。自らに未来はないと知っているからこそ、人間と共に歩む我々が許せない」
アルブレヒトは小さな袋を投げてよこした。手のひらに収まるほどの、硬いものが中に入っているようだ。握ると手に柔らかい熱が伝わってくる。
「俺の中では、敵を倒してから考えることだと結論が出ている」
「復讐で生まれた負の連鎖が、また弟子の周囲に害を及ぼすことを警戒しているのか」
「そうだな。危険の排除が先だ」
執拗にテオドールを狙う敵がいる限り、未来のことは考えないようにしていた。どれほど堅牢な結界を構築しても、どこかに穴がある。自分一人でできる限界を知っているからこそ、弱点になりうる人間関係を作らないようにしていた。
「弟子もまた、時間を進められないか」
「あいつが消えたら、この先に出るかもしれない被害者はいなくなる。二度とあいつの影から逃げなくてもいい。家族が殺されたことに区切りをつけて、過去の話にできる。でも生きていたら、どこへも進めないままだ」
「力の差は歴然だ」
「知ってる。だからこそ復讐になるんだろうが。弱いと馬鹿にしていた相手に殺されたら、屈辱だろ? 敵が圧倒的な力を持っているなら、こちらは搦め手でやるだけだ。相手に合わせて正面からぶつかるなんて、馬鹿なことはしない」
テオドールは城の外へ向かおうとしたが、言い忘れていたことを思い出した。
「俺に家族を作れと命令するお前は、フェルと家族らしい交流をしているんだよな? あいつがスールズでどんな生活をしているのか、ちゃんと聞いてやってくれ」
アルブレヒトの答えを聞くことなく、テオドールは中庭へ出ていった。他人が口をはさめるのはここまでだ。
中庭から目印をつけた場所まで、転移の道を開く。
体が軽い。クレアから受け取った魔力が、傷を癒す以上の働きをしている。
景色が歪んで薄暗くなった。カビ臭さが鼻につく地下室に出たようだ。テオドールの左側で赤いものが弾けて、床に落ちる。
「……転移で出てきたところを攻撃してくることは分かってたよ。残念だったな」
床でもがいていたのは、敵が待ち伏せをさせていた使い魔だった。動けないように凍らせ、先を急ぐ。
下へ続く階段を見つけて降りていくと、先ほどと同じ姿をした使い魔が群がってきた。自宅を襲撃してきた個体に比べて、格段に弱い。魔力を温存するためにサーベルで斬りつけ、数を減らしていく。
敵はまだ力を取り戻していない。離脱する前に与えた傷が効いているようだ。そうでなければ困る。自分の体を犠牲にして、深手を負わせたのだ。敵は回復にかかりきりで、まだ弱い使い魔を徘徊させることしかできていない。
階段の先は広い空間になっていた。申し訳程度の明かりが、壁に張りついている。中央には淡く発光する魔法陣が描かれていた。
「また来たのね」
魔法陣にうずくまる塊が喋った。人の形をしているが、テオドールはそれを人間と呼べるのかと疑う。
「ああ。お前を殺さないと、何度でも襲ってくるだろう? だったら弱っているうちにとどめを刺しておかないとな」
「短い時間で、もう傷を癒したなんて……お前、わたくしたちに許されている特権を使ったのね」
「何が特権だよ。他人から魔力を奪う能力だろうが。言葉を置き換えても、本質は変わらない」
テオドールは魔法陣に近づいた。土地の魔力を吸収する図形のようだ。吸血鬼はまだ、魔法陣から出られるほど回復していない。アルブレヒトから受け取ったものを魔法陣へ投げつけると、白く輝く粉になって舞い散った。
「無駄よ。わたくしに太陽石なんてものは効かないの。真の貴族には太陽の光も銀も、意味をなさないのよ」
「教えてもらわなくても知ってる。魔法陣に流れる魔力を乱す効果があることもな。石の粉に魔力を吸われて、回復が遅れてきただろ?」
床に散った粉が青黒く変色していく。吸血鬼は慌てて両手で粉を払ったが、すぐに悲鳴をあげて離れた。
「な、何よこれ……お前、わたくしに何をしたの!?」
手のひらが赤く爛れている。粉が触れたところから、徐々に範囲が広がっていく。吸血鬼はドレスのスカートで手を擦ったが、効果はなかった。
「とある森に生息している、魔獣の胆石の粉末を混ぜた。太陽石と相性が良くてな。効果を何倍にも高めてくれるんだよ」
吸血鬼が古語でテオドールを罵ってきた。そうしている間にも侵食が止まらない。
「薄汚いネズミめ! わたくしから何もかも奪っていくのね!」
「先に俺から家族を奪っただろうが」
「裏切り者の家系なんて、死んで当然よ!」
「俺や俺の家族が、お前を裏切ったわけじゃない。血縁者って理由で襲ってきたんだろ」
「だから何!? わたくしを孤独にした報いよ。生まれる前から罪人なのよ、お前たちは。死んで。死んで償って」
「他人を踏み台にして生きてきたツケじゃないのか」
「わたくしは選ばれた者なのよ」
「お前たちは、そうやって特権を振りかざして、恨みを溜めてきた。その結果が、これだ」
魔法陣が消えた。魔力の供給源を絶たれた吸血鬼は、苦しげに呼吸を繰り返している。
「終わりにしようか。お互いに理解しあって、共存する気なんてないだろ?」
「わたくしを殺すのね。お前の身内が、わたくしの家族を殺したように」
「だから、大昔の話を持ち出されても、俺にはどうすることもできないんだよ。言いがかりで襲ってくる敵としか思えない」
「わたくしを否定するの!? わたくしの記憶が証拠よ! 何年経っても、忘れるわけがない。全ての子孫が絶えるまで、狩り尽くすって決めたんだから!」
「寿命が長すぎたのが、お前の不幸だな。世間が移り変わってくのに、一人だけ取り残されてる。俺たちを探し回って殺していたのは、流れに馴染めない八つ当たりも含まれてたのか?」
吸血鬼の瞳に動揺が見えた。
テオドールは踏みこむと同時に、サーベルを振り払った。細い首に刃が食いこむ。肉を斬る感触はなく、硬いものを砕いた振動が伝わってきた。
吸血鬼の頭が地面に落ちた。体は茶色い粉になって崩れていく。床の青黒い粉と混ざり、消滅していった。
「あぁああ……ごめんなさい、わたくし、失敗したわ……」
最後に残った生首が、虚ろな声で喋った。
しきりに見えない誰かへ謝罪している。
「約束……したのよ……ちゃんと奴隷を躾けて、王国を復活、させると……みんなに……なのに、お前が邪魔を……許さな……」
テオドールは残っていた太陽石の粉を、吸血鬼の頭に振りかけた。青い炎が上がり、瞬く間に燃やし尽くしていった。
床に残ったのは、黒い跡だけだった。
部屋の隅から鳥の鳴き声がする。吸血鬼に使い魔として使役されていた魔獣が、支配を解かれて混乱している。暗がりを壁や天井にぶつかりながら飛び回り、やがて階段から外へと逃げていった。
「帰るか……」
ようやく終わった。一方的な理由で家族を殺した敵が消えたというのに、何も感情が湧いてこない。虚しさだけが残る。
テオドールは城へ転移する道を開きながら、ただ家に帰りたいとだけ思った。





