47 昔話
「リヒターさん」
「休憩。一気に魔力が減ると、クレアに負担がかかる」
「まだ平気です」
「自覚がないだけだ」
テオドールは怠そうに頭を起こした。視線は斜め下、絨毯のあたりへ向いている。
瞳が赤から灰色に戻っているのを見て、クレアは安心した。表情も幾分か穏やかだ。
「……与えてもらっていたのは俺のほうだ」
小さな声だった。クレアにしか聞こえないほど小さい。室内には他に誰もいないのに、秘密の話をするかのように声を潜めている。
「いつまで続くか分からない護衛の仕事なんて、貧乏くじを引いたと思ってた。家事の代行も必要ない。俺の事情に巻きこむ前に、契約を終わらせる口実を見つけようとしたのに」
ためらいがちにテオドールの手がクレアの髪に触れた。そのまま頬へ下りてくる。
「ブロイ卿のところへ戻れば、俺のところよりも安全に、いい生活ができる。だからクレアが家にいても不快じゃない理由を考えないようにしてた」
「そんなこと、ないです。今の私がいるのは、全部リヒターさんのおかげなのに。今よりも幸せな自分なんて、想像できません」
「知らないだけだ」
「勝手に決めないでください。だって、私」
なぜか口を塞がれた。クレアが言いたいことを片手で邪魔をしたテオドールは、困ったように笑う。
「クレア。話の続きは、お互いが冷静になってからしないか? 俺は負傷、クレアは魔力不足で正常な判断ができないと思うんだが」
「嫌です」
クレアは顔を背けて、口の自由を取り戻した。
「見かけによらず強情だな」
「知らなかったんですか? たとえ好きな相手でも、退いてはいけない時があるんです。私、ものすごく勇気を出して告白しようとしたのに」
「やめとけ。後悔するぞ」
「後悔するほど酷い人に、大切な魔力をあげたりしません」
「なんでよりによって、俺みたいな奴を好きになったんだか。血筋を利用すれば、いくらでも良縁が狙えるのに」
「私が好きな人を貶めるようなことは言わないでください」
「はいはい、悪かった」
今度は抱きしめられた。適当に受け流されているのに、テオドールだと許せてしまうのが不思議だ。
「リヒターさんのこと、聞いてもいいですか?」
「何が聞きたい?」
「なんでも。家族のこととか、仕事の話とか」
「俺を襲った敵のこととか?」
「はい。教えてくださるなら」
「大して面白くない話になるけどな。それでもいいなら」
クレアはテオドールに体重を預けた。
考えをまとめるためか、テオドールは無言のまま正面を見つめて、クレアの髪を撫でている。伝わってくる人肌の温かさに緊張がほぐれたころ、ようやくテオドールが話し始めた。
「アルタニア帝国に隣接する国……この森を抜けたところにある、小さな町で生まれて、七歳ぐらいまで住んでいた。ごく普通の家だよ。数代前はフォン・オーベルシュタットなんて仰々しい姓を名乗ってたらしいが、仲間同士の争いに嫌気がさして貴族籍を捨てている。両親がいて、歳が近い弟がいた。もうすぐ弟か妹が増える予定だった」
過去形で話される内容に、悲しい予想をしてしまう。どうか当たらないでほしいと思うクレアをよそに、テオドールの話は続いた。
「家系のことは、全てが終わってからフェルの父親から聞いた。だから当時は自分が吸血鬼と関係があるなんて知らなかった。俺の両親は魔術なんて使えなかったし、魔眼も持ってなかった」
「リヒターさんだけだったんですか?」
「いや、弟も。たぶん俺よりも強かったはずだ。俺の目は魔力が見えて、操れるだけ。弟は俺の能力に加えて氷の魔術が使えた」
当時のテオドールたちは魔眼を使うことの危険性を知らなかったそうだ。両親は魔術に疎く、教えて導いてくれる先生もいない。ただし家系に由来する異能については語り継がれていたという。
「魔術は使うなと父親に言われてた。使ったことを知られたら化け物が来る。どこまでも追いかけてきて、頭から喰われるぞって……俺と弟は、人前で使わなければ大丈夫だと考えてた。まさか自分と同系統の人間が、使い魔をばら撒いて探し回ってるなんて、子供には思いつかないだろ?」
クレアはどう答えればいいのか分からなかった。何を言っても慰めにはならない。
テオドールの問いかけは、返答を期待して投げかけられたものではなかった。すぐに過去へと戻る。
「秘密の力ってのは、子供にとって魅力的なんだ。絵本にも出てくるだろ? 人には言えない秘密を抱えた主人公が、こっそり事件を解決するような話。あの主人公になったつもりで、よく弟と遊んでた。だからだろうな。せっかく隠れ住んでいたのに、見つかって襲われたのは」
「リヒターさん……」
「あの日は生まれてくる子供の祝いにするために、森でリースの材料を探してた。父親と、弟と三人で。健康に育つように、飾りをつけて窓に引っ掛けておくんだよ。そうしておけばリースを見つけた精霊が贈り物を持って祝福に来る、って風習だ」
森へ入って探していると、弟がいないことに気がついたとテオドールが言った。
「材料集めを中断して、弟を探し回った。森の奥へ行ったんじゃないかと思って、父親と向かったところに、あいつがいた。弟は、すでに殺されてた。驚いたような顔して死んでたから、たぶん痛みとか怖さは感じなかったんだろうな」
テオドールが淡々と話すので、より想像力を掻き立てられた。家族と共にあった幸せが、唐突に壊される恐ろしさで胸が苦しくなってくる。
「あいつは父親を見て、裏切り者は死ねと叫んでいた……と思う。このあたりは少し、記憶が曖昧なんだ。逃げろと俺に言った父親が目の前で殺されて、次は俺の番だった。ただ必死に抵抗したのは覚えてる。気がついたら、あいつは虫の息で、俺は座りこんで動けなかった」
「裏切り者って……リヒターさんたちは何もしてないのに?」
「裏切り者の子孫が生きていることが許せないらしい。吸血鬼の異能は家系ごとに違う。あいつの家系は、不老長寿。俺たちよりも遥かに長く生きてる。俺の先祖が吸血鬼を増やす異能を持つ家を絶やしたとか主張してるが、本当のことは分からん」
さらにテオドールの先祖が普通の人間と共に暮らしていることも、恨みを買うには十分だという。
「混血は異能を消滅させるってのが、あいつらの言い分だ。俺や弟みたいに先祖がえりするのもいるけどな。大抵は弱くなって消えていく。栄華を誇った時代が忘れられなくて、歴史に埋もれていくのが耐えられない。自分たちが衰退していく様を見守らなきゃいけない境遇は同情するが、八つ当たりのように殺意を向けられてもな」
憂鬱そうなテオドールの目には、様々な感情が現れて消えた。家族を奪われた怒りや悲しみというよりは、自分にはどうすることもできないことに振り回された虚しさに近い。
「自力で動けなかった俺を拾ったのは、アルブレヒトだ。俺たちがいた森は、オーベルシュタット家の持ち物。俺の先祖と同じ時期に、中立を選んで隠遁したことで争いを避けた」
アルブレヒトは自分が管理をする森で異変が起きたことを察し、様子を見にきたそうだ。
「敵は早急に回復して、俺にとどめを刺すつもりで森に留まっていた。だがアルブレヒトが、連絡もなく森へ侵入してきたことを盾にして撤退させた。敵が退かなければ、アルブレヒトがあいつを殺していただろうな。どの勢力にも加担しない、干渉しない代わりに、侵入者には容赦しない。中立を保てる戦力を持っているからこそ、選択できる道だ」
アルブレヒトの行動は契約に基づいた結果だという。
「昔、俺の先祖とオーベルシュタットとの間に、子孫が助けを求めてきたら保護するよう密約が交わされていたらしい。派閥が違うとはいえ、元は同じ家だ。無関係だと主張していても、家族の情までは切り捨てられなかったんだろうな。そんな経緯で、生き残った俺はアルブレヒトに保護されて城に住むことになった」
「あの、お母様は?」
「家で殺されていたらしい。遺体はアルブレヒトと近所の人しか見ていない。子供だった俺が対面させてくれなかったということは、まあ、そういうことなんだろう」
思わずテオドールの上着を掴んだ。
クレアは育ての親と最期の別れをする時間があった。同僚だったメイドたちが協力してくれたおかげで、貧しくても葬儀ができたし、墓もある。ところがテオドールはいきなり奪われたのだ。
テオドールはクレアの頭を撫でた。聞いているこちらが慰められているのは、不思議な感覚だ。
「アルブレヒトは常識が……少し? いや、かなり、欠けてるところがあってな。子供には隠しておくであろう事情なんかも、質問すれば明かしてくれた。あいつを呼び寄せる原因を作ったのは俺だと、嫌でも分かったよ。その上で復讐したいなら好きにするといい、魔術なら教える、なんて悪魔みたいなことを言う」
「リヒターさんが魔術を覚えたのは、復讐のため?」
「それだけじゃない。何かをしていないと、腐っていきそうだった。自分が持っている力のことも、正しく知りたい。学んでいくうちに、自分の実力が敵よりも数段劣っていると知らされた。感情だけで勝てる相手じゃない。それから、復讐ってのは相手を殺すことだけじゃないとアルブレヒトに言われたこともある」
「どんなことですか?」
「俺の先祖と同じ。血を拡散させていくこと、だとさ。もう吸血鬼は増えない。いつまでも過去にすがっている奴らに、異能がなくても子孫が成功しているところを見せつけてやれと。物騒な生き物に狙われていて襲われることもありますなんて、他人に言えるわけないのにな」
魔術を教える交換条件にされた――テオドールは面白くなさそうに言った。
「一つはフェルに外の世界を体験させること。母親はあんな状態だし、父親も治療にかかりきり。使用人は幽霊しかいない。まともに育つ環境じゃないのは、アルブレヒトも自覚していたらしい」
テオドールとフェルが遠い親戚という間柄で、一緒に暮らすことになった経緯がようやく明らかになった。
「もう一つが普通の人間らしく伴侶を見つけて暮らせ、だった。魔術を教えるといっても、魔獣の前に放り出されたことしかない。職業だって、たまたま知り合った時計職人がいなければ、どうなっていたのか……」
「独学、ということですか」
「この城の書斎に住み着いている偏屈な幽霊が、魔術以外の勉強は教えてくれたから、なんとか魔術書は読めた。生前は学者だったらしい。アルブレヒトは……匿ってくれたことは感謝してるけどな。俺を弟子と呼ぶわりには、魔術について語ったことがない」
クレアには言えない、積もり積もったものがあるらしい。テオドールは疲れたようにため息をつく。
「……俺にとって師匠は、時計のことを教えてくれた人だ。一人前と認めてくれたころに病気で亡くなって、そのまま工房を受け継いだ。身寄りがない人で、色々と手続きに混乱はあったけどな。このままだとフェルを呼べないから力を貸せってアルブレヒトを巻き込んだら、ブロイ公爵にまで話が伝わった。オーベルシュタット家は魔術師の世界では有名だったらしい。あいつは気まぐれにしか引き受けてないが、顧客の一人なんだと」
「だからリヒターさんが王国へ出張することになったんですね」
「ああ。だから俺に恩を感じることなんてないだろ?」
「いいえ。なんと言おうと恩人です」
「俺の家族みたいに殺されるかもしれないのに、それでも一緒にいたいのか」
「あなたを嫌う理由になりません」
「二度と貴族階級には戻れないぞ。ブロイ公爵と交渉をすれば、どこかの名家で養子になる道だってあるのに」
「興味ありません。メイドの仕事しか知りませんから」
「貴族女性の仕事は、使用人に命令して家の中を統べることだ。仕事内容を知ってるなら適任だろ」
「人にやってもらうより、自分でやるほうが楽なんです。好きな人に喜んでもらえるなら、特に」
「こんなに手強いとは思わなかったな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「迷惑だったら拒絶してください。諦めますから。嫌われる前に、ちゃんと出ていきます」
「迷惑でも嫌いでもないから困ってるんだよ」
今度は強く抱きしめられた。顔を合わせているよりも恥ずかしいと思うのは、なぜだろうか。クレアはテオドールの肩に頭を乗せた。
はっきり言わないのは、先ほど怪我のせいで冷静になれないと自己申告したからだろう。早く続きを聞きたい。彼が出す結論がなんであれ、中途半端に待たされているよりは将来を考えられる。
おそらく傷はまだ癒えていない。
「魔力、もっと要りますか?」
「そうだな……もう少しもらえると助かる」
「好きなだけ、どうぞ」
「曲解しそうになることを言わないでくれ」
よりいっそう、体の怠さが増した。内側を循環していた力が弱くなっていく。
瞼が重くなって眠気を自覚したとき、おやすみと言われたような気がした。





