35 悩みと救済
翌日、クレアは暇というものを初体験していた。
朝食作りはテオドールと珍しく早起きしたフェルに、キッチンから追放されてしまった。洗濯はソーニャが昨日の言葉通りに手伝い、干す場所を教えるぐらいしか関わらせてくれない。掃除もテオドールが手際よく片付けてしまうので、ソファの上で大人しくするしかなかった。
クレアはサイドテーブルに積まれた本の中から、一冊を取った。ソーニャが暇つぶしに持ってきてくれたものだ。女性の間で人気になっている小説らしく、続刊が何冊も出ている。
「フェル。留守番しててくれ」
「いいよ。買い物?」
キッチンのあたりで二人の話し声がする。クレアは文字を追いかけるのに夢中で、会話の内容までは入ってこなかった。
「仕事のついでに買ってくる。お前は今から護衛兼雑用係だ」
「がんばる」
「たまには手間がかかる種類の料理でも作るか……」
「じゃあ、あれ作って。チョコレートのケーキ」
「俺が帰ってくるまで、ちゃんとクレアを守れたらな」
「不審者が来たら、結界で守りながらテオに連絡でしょ?」
「そう。じゃあ任せた」
テオドールが出かけると、フェルはクレアの隣に座った。
「今日は僕が護衛するからね。ずっと家の中にいなきゃいけないけど、平気?」
「ええ。ソーニャさんが面白い本を持ってきてくれたの」
「よかった。テオは娯楽小説なんて買わないから、暇つぶしになるようなものが無いんだよね。これ、僕も読んでいい?」
クレアが借りた本は、フェルも途中まで読んだことがあったらしい。クレアが読んでいるよりも先の巻を選んで読み始めた。
集中できる環境が整うと、時間を忘れて没頭できるようになった。次々と主人公の前に困難が現れ、続きが気になって中断できない。テオドールたちがキリがいいところまで読書をする理由がわかった。
結局、クレアはテオドールが帰ってくるまで、仕事をせずに過ごしていた。もしソーニャがこの状況を予想していたなら、かなりの策士だ。
「リヒターさん、お帰りなさい」
「……ただいま」
すぐに目を逸らされてしまった。テオドールは抱えていた荷物をキッチンに置く。
「あれ、照れてるんだよ」
フェルが小声で教えてくれた。
「そうなの?」
「あまり感情が顔に出ないから、分かりにくいよね。でもクレアさんが誘拐されたって聞いたとき、すごく動揺してたんだよ」
珍しいものを見たとフェルは笑う。
「僕も誘拐って聞いて驚いたけど、それ以上にテオが魔力の制御に失敗したことのほうが驚いたな」
クレアを助けてくれたときは、いつも通りの冷静な姿だったから知らなかった。
――もし私が殺されていたら、リヒターさんの責任になるから。だから動揺したのよね?
ソファに座っていると、キッチンに立つテオドールの後ろ姿が見える。今は割ったチョコレートを湯煎で溶かしている最中だ。手際がいいので、おそらく作り慣れているのだろう。
不思議な人だ。クレアと会う前は、どんな人生を送ってきたのだろうか。なんでもできる人にしか見えなくて気後れする。そうかと思えば親しみやすい側面も見せてくれるので、もっと内面を知りたいと思ってしまう。
テオドールの様子が気になる。あんなに夢中になって読んでいた本が、一文字も追えなくなっていた。目の前にいると落ち着かない。
溶かしたチョコレートと一緒に混ぜたものは、オーブンの中へ入れられた。フェルがケーキを要求していたはずだ。焼き上がったものはケーキの土台になるのだろうか。
焼き上がりを待つ間、テオドールはクレアが知らない言葉の本で暇つぶしをしていた。座る場所を移動したフェルが質問を投げかけ、テオドールがそれに答えている。クレアが来る前は、この光景が日常だったのだろう。知らなかったことを知るたびに、離れることが寂しくなる。
何もしなくてもいい時間がゆっくりと過ぎた。甘い香りが家中に充満している。出来上がったチョコレートのケーキは、想像していたよりも黒い。仕上げに溶かしたチョコレートを上からかけているらしく、表面が滑らかで光沢がある。
「テオ。エレンのところに持っていってもいい? このまえ会ったときにね、約束のケーキはまだかって聞かれたから」
「あー……忘れてた、と言っておいてくれ」
切り分けたケーキを手頃な箱に入れ、フェルは裏口から出ていった。
テオドールと二人きりになると、何を話せばいいのか思いつかない。
今までは、そんなことを考えなくても良かったのに。自分の迂闊な行動のせいで手間をかけさせてしまった。いっそのこと叱責してくれたほうが楽になれた。何も言わないことをテオドールが選択したのは、怒りの感情を向ける価値すらないということだろうか。
本人に聞いてしまえば解決する――他人への忠告なら、そう簡単に言えるのに。自分が行動する番になると、途端に勢いを無くしてしまう。自分の殻に閉じこもって、もっと楽な道がないか探している。
そんなもの、最初からあるわけないのに。
「クレア。そろそろ休憩しないか?」
テオドールに声をかけられて、ようやくクレアは本から顔を上げた。紅茶が入ったポットを片手に、テオドールが誘ってくれている。テーブルには切り分けたケーキもあった。手伝いすらせず、ただ座っていたことが恥ずかしい。
「かなり集中してたみたいだな。その本は?」
「ソーニャさんが貸してくれたんです。女性の間で流行している小説らしいですよ」
「小説か」
「リヒターさんも読みますか?」
「ああ。後で借りる」
本を置いてテーブルへ移動したクレアは、さっそくケーキをもらうことにした。わざわざ用意してくれたのだから、食べないと失礼だろう。
ケーキのスポンジには甘酸っぱいジャムが挟んであった。甘いチョコレートと相性が良い。ただ甘いだけのケーキだったなら、食べている途中で飽きてしまっただろう。
思わず美味しいと感想を言うと、テオドールは気に入ってもらえて良かったと微笑んだ。
「お菓子も作れるんですね」
「気に入ったものは、どうやって作っているのか調べたくなるんだよ。製法を知ったら、今度は試してみたくなる」
「凄いんですね」
「いや、俺だけじゃない。近所には似たような奴らばかりだよ」
下町の職人はそんな性格の人が多いとテオドールは言う。作っているものが違っても交流があり、時には互いの技術を教えることもあるそうだ。
住んでいる世界が違う。賑やかで、羨ましくなる。
「リヒターさん」
「ん?」
「ありがとうございました。出会った時から、助けてもらってばかりですね」
「それが仕事だから。気にするな」
「でも、私の生まれのせいで、ずっと迷惑を掛けてます。もっと遠くの国へ行ったほうがいいのでしょうか」
王国も帝国も関係がないほど離れてしまえば、諦めてくれるだろうかと思った。
「クレア」
「私がスールズにいると確信しているから、外見が似ている女性を攫ったんですよね? 見ず知らずの人まで被害に遭っているのに、知らないふりをして、今まで通りに生活していいのでしょうか」
「……クレアが関係ない土地で一から生活したいと思うなら、そうするといい。自分の人生なんだから。でも――」
「でも?」
「ここを離れるのは、もう少し待ってくれ」
「なぜですか」
きっとクレアが期待する答えは返ってこない。それでも先を尋ねずにはいられなかった。
「ブロイ公爵は王国に手を引かせようと画策している最中だ。近いうちに王国の魔術師が接触してくると読んでいる。下手にこちらから動けば、相手の疑惑を肯定することになる」
「相手が疑うのを止めるまで? 諦めてくれるのでしょうか」
「そうなるようにする。魔術師の前で俺が何を言っても、相手を言いくるめて諦めさせるためだと思っていてくれ。クレアが俺を信じてくれたら、成功しやすい」
信じないなんて選択肢は最初から存在しない。クレアはずっとテオドールを信用している。





