32 動揺
ジェラールの警告から数日経った。魔術師らしき影は見当たらず、表面上は普通の生活が続いていた。王国側が申告してきた滞在期間が本当なら、魔術師たちはあと二日で帰るはずだ。
テオドールは結局、クレアに魔術師のことを話せなかった。王宮で殺されかけて深い傷を負わされたのだ。また狙われていると知ったら、恐怖を思い出してしまうのではないかと心配になった。
知らないまま、守られているほうが幸せだろうと思う。すでに王国に見つかれば面倒なことになると知っているのだ。魔術師が迫っているぞと教えて、さらに不安がらせることはない。
クレアは裏で洗濯物を干している最中だ。工房の作業台から姿は見えないが、不審者が庭に入ればテオドールにも察知できるから問題ない。
敷地内に張ってある結界は、侵入者を知らせるだけの簡単なものだ。一見すると微弱な魔力が漂っているようにしか見えない。自然界の濃度とそう変わらないので、王国式の結界に慣れ親しんだ魔術師には感知しにくい構造になっている。
作業台の端では、フェルが魔術関連の本を開いていた。新しく攻撃用の魔術を教えてみたところ、防御とは違う構成に戸惑っているようだ。
「両者の違いは、実際に使ってみればよく分かる」
「攻撃魔術を試してみてもいいの?」
「いま引き受けてる仕事が片付いたらな。荒野で思いっきり練習させてやるから、まだ我慢しててくれ」
テオドールは水晶玉に似た道具を作業台に出した。
「これは?」
「お前の父親の書斎から拝借してきた。魔力操作の練習に使う道具だよ」
正しくは書斎の隅に転がっていたものを、勝手に持ち出してきた。だが使うのは彼の息子だから問題ないだろう。フェルに魔術を教えることは任されたが、必要な教材までテオドールが負担しろとは言われていない。
魔術の教育は文献や素材が希少なことから、とにかくお金がかかる。高価な道具を一族で所有することなんて珍しくないのだ。この場合も資産の共同管理に該当するだろうと解釈している。
「フェル。お前は平均よりも魔力量が多い。だから魔術の構築に多少の粗があっても魔力でゴリ押しできてしまう。それじゃ駄目だ。魔術は無駄な記述を排除しろ。魔力は必要最小限だけ使え。無駄に放出してしまう魔力を限りなく少なくできれば、威力を一段階上げることができる」
テオドールはもう一つ、道具を出す。フェルに渡したものに比べると一回り小さく、色も乳白色だ。こちらはテオドールが解析して作ってみた模造品だった。
品質はかなり劣るが、手本を見せる目的なら役に立つ。
「少量の魔力を流してやると、中で光が変化する。これも、お前が持っているやつも、単純に言えば映像が見られるだけの道具だよ」
試しに魔力を流してやると、テオドールの手の中にあったガラス玉が淡く光った。中心部では黒猫が走っているのが見える。しばらくすると猫は座って毛繕いを始めた。
「わあ。面白そう」
次々と現れる映像に、フェルがやる気になっている。
「必要な魔力は時間の経過で変化していく。適量を見極めてから流すまでの時間が短くなれば、映像が途切れずに続く。これで細かい魔力操作を覚えろ。お前に渡したのは、高いから壊すなよ」
「どれくらい?」
「この建物が丸ごと買えるぐらい」
「父さんは、そんなものを書斎に置きっぱなしにしているの?」
「ああ。見る人が見れば、卒倒するだろうな」
書斎どころか、家のあちらこちらに高価な道具が放置されている状態なのだ。不用心だがテオドールにとっては都合が良かった。
「テオが持ってるのは? 手作り?」
「ああ」
「それも高い?」
「材料費はそれなりに。外側のガラス加工が面倒だった」
作ってみないと分からないこともある。一定量の魔力が流れる回路を構築するのは、既存の技術を使えば簡単だった。だが必要量が変化する仕組みを作るのが難しい。原型は変化する時間も法則性がなく、どうやって切り替えているのか不明なままだ。
フェルが隣で苦戦している間に、劣化品の道具を手に思案していた。
時計とは違う不規則な動きを、どう再現するか。道具を分解しただけでは見えてこない。
分からないことを楽しんでいると、慌ただしくリコが工房へ駆け込んできた。左の頬が腫れている。どうしたと聞く前に、リコは叫ぶように言った。
「テオドールさん! クレアちゃんが誘拐された!」
手の中にあったガラス玉が割れた。操作している最中に平常心を保てなくなり、道具へ過剰に流れた魔力が内側からガラスを破壊してしまったようだ。
「……テオ?」
フェルが割れたガラスとテオドールを交互に見て戸惑っている。道具の扱いに気をつけろと注意した矢先に、教師役が壊したのだから無理もない。
それとも自分の握力だろうかと、わずかに残った冷静な部分が分析している。
「何でそんなことになった? 庭にいたはずだが」
工房と繋がっている住居部分をのぞくと、庭の一部が見える。開けっぱなしになった温室の扉が風にゆれていた。庭にクレアがいるなら、出入りする彼女の銀髪が見えるはずだった。
侵入者の気配はなかった。
――クレアが自分から庭の外へ出た?
ありえない。
今まで、無断外出なんてしなかったのに。
「リコ。お前が知っていることを吐け」
時間が惜しい。リコに詰め寄ると、なぜかテオドールから目をそらして後ずさった。
「テオドールさん、その前に殺気を向けないで。話すから、頼む」
そんな物騒なものを向けた覚えはない。早くしろと急かすと、リコは早口で説明し始めた。
「い、いや俺もきっかけはよく分からないんだけどよ。ソーニャのところのガキが……ほら、二歳か三歳ぐらいの小さいのがいただろ? 親の目を盗んで外へ出てたらしくて、近所を歩いてたっぽいんだ」
リコが目撃したのは、クレアが子供を連れて母親に引き渡しているところだったらしい。
「たぶん庭の近くでガキが転んだんじゃないか? 膝を擦りむいてたし、泣いてたから。で、見かねたクレアちゃんが送っていったんだと思う」
「……ソーニャの子供か。クレアとは顔見知りだったな」
収穫祭で小さな子供は誘拐されやすいと話したばかりだ。近所の幼児がすぐ近くで泣いているのを見て、放置できなかったのだろう。
「俺が通り過ぎてすぐに悲鳴が聞こえたんだ。ソーニャが誘拐だって叫んでて、覆面をした男たちがクレアさんをでかい袋に入れて運ぼうとしてた」
「雑だな」
だが今回は有効だった。触れるだけなら護身道具に秘めた結界は発動しない。目撃証言が残るような、力任せの誘拐は想定していなかった。
暗殺ばかり警戒していた。敷地の内部にいるなら安全だと、油断していたのは否定できない。自分のすぐ近くにいるなら、絶対に守れると思っていた。
「すまない、テオドールさん。表通りまでは追いかけたんだが、俺一人じゃ勝てなかった」
「見失った場所はどこだ?」
「案内するよ」
テオドールはフェルに工房の戸締りを頼んで外へ出る。フェルは不安そうに、短くわかったとだけ返事した。





