31 自覚未満、無意識以上2
屋敷のホールにある大時計を理由にして、ジェラールはテオドールを呼び出してきた。大時計はまだオーバーホールが必要な時期ではない。最初から別件だろうと身構えていたテオドールを、屋敷の使用人は応接室へと通した。
ソファに座る前にジェラールが入室してきたので、大時計は本当に呼び出しの理由だったようだ。
「君に手入れをしてもらった時計は、好調に働いてくれている」
「喜ばしい限りです」
ブロイ卿との接点が時計だけなら楽なんだが――テオドールは営業用の笑顔で本音を隠した。修理をした時計の礼を言うためだけに、こんな席を設けるなどあり得ない。
道具は嘘をつかない。故障も障害も、何かしらの原因がある。
その気になれば、故障も障害も作りだせる人間は面倒だ。
「隣人は少々、諦めが悪くてね」
「左様でございますか」
「魔術の素材を調達するという名目で、魔術師が帝国入りした。我々は条約に基づき、魔術師を受け入れなければいけない」
「拒否をすれば、帝国の魔術師が行動を制限されますからね」
両国は、魔術の研究と発展に関する条約を結んでいた。規定量以内であれば、互いの国にしかない素材を採取することが認められている。正式に出された申請なら理由もなく却下できない。
ジェラールがわざわざ知らせてきたということは、正規の方法で入国した魔術師がクレアを探している確信があるのだろう。
「活動範囲はスールズ近郊。亡くなった王太子の子供を見つけるために、あらゆる手段を用いてくるだろう。我々が彼女を見つけたように」
まだ帝国が有利だとジェラールは言った。
「こちらが王国へ手足を送りこんでいるのと同様、帝国内に彼らの手足がいる。さすがに中枢へは辿りついていないようだがね。中途半端に情報を掴んだせいで、浮き足だっているようだ」
「素直ですね。うらやましい」
テオドールは正直に感想を述べた。見えるところに置かれた情報など、たいていは踊らせるための偽りでしかない。ジェラールという男をよく観察していれば、狡猾に糸を引く姿が見えるはずだ。
「君は職人にしておくには惜しいな」
「職人ですよ。それ以外は望みません」
ジェラールは何も言わず、口の端で笑った。
「王国は今まで通り、目立つ動きはない。問題が起きても、末端が勝手なことをしたと切り捨てるためにね。だからどのような手段を使ってくるのか分からない。たとえ姪が自力で動けなくなっても、生きていればいいのだから」
守りの強化を――ジェラールが追加の命令をした。
「かしこまりました」
あまり使いたい手段ではないが、国外へ逃すことも選択肢に入れておく。
外国にはテオドールとフェルしか知らない避難所がある。だがそこへクレアを連れていくと、今度はテオドールの事情に巻き込んでしまう可能性が高い。ある意味では王国よりも面倒だ。他に手段がないほど追い詰められたときに、仕方なく選ぶことになるだろう。
酔ったクレアの言葉を思い出して、テオドールは迷っていた。
いまテオドールから遠ざけたら、恋人ができたから厄介払いされたと思われるだろうか。いっそ彼女にはジェラールの思惑を全て話して、身に迫っている危険を知らせようかと悩む。
政治の道具にされようとしているクレアにとって、ジェラールは命綱に等しい。ただこの命綱は政治の世界に首まで浸かっている。クレアが帝国の未来を曇らせるなら、容赦なく見捨てるだろう。
貴族の血を引いているだけで、彼女は今後も狙われる。どこかで連鎖を断ち切らないといけない。クレアにその力はなく、ただ流れに身を任せるしかない。
自分ではどうしようもない存在に振り回されている状況を知らせたところで、精神に負担をかけるだけだ。同情とも憐憫ともつかない思いが湧く。
「ブロイ卿。一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「発言を許す」
「彼女を囮にして、敵を排除するつもりですか」
「もしそうだと言ったら、君はどう動く?」
「私がブロイ卿より受けた命令は、彼女を守れということのみ。今まで通り、護衛につくだけです」
「よろしい。ならば引き続き君に任せよう」
面会は終わった。いつも世話になっているからと、ジェラールはワインを土産に持たせた。この前、君が飲んだ銘柄だと教えられ、やはり監視されていたのかと察した。
帰りの馬車の中では、ジェラールの言葉が脳内を渦巻いていた。
テオドールとクレアは他人だ。あの時、もし余計なことを言っていたら、ジェラールは適性なしと判断していただろう。護衛の仕事は別の誰かに回され、二度と会えなくなる。その程度の関係しかない。
工房の前で馬車が停まった。
いつも通りの送迎。
工房の扉を開けて、閉店の札をひっくり返す。
古い扉につけた、来客を知らせる鈴の音も変わらない。
雑多なもので溢れた工房。
いつも通りの風景だ。
「リヒターさん。お帰りなさい」
音を聞いて、クレアが奥から顔をのぞかせた。
変わってしまったことが一つだけある。家に帰ればクレアが待っていてくれる。そんな生活に馴染んでしまった。この先も、ずっと続くのだと錯覚してしまう。
彼女のことなんて、ほとんど知らないのに。
――錯覚だ、これは。
自分だけではなく、クレアにも当てはまるだろう。
クレアは自分を助けたテオドールのことを信用している。狭い王宮暮らしで世間を知らず、異国へ来た不安で顔見知りに縋っているだけだ。
保護者への依存を敬愛と錯覚しただけ。
時間が経てば、きっとクレアは気持ちを秘めたままでよかったと思うだろう。
「……ただいま」
あと何回、このやりとりができるだろうか。
クレアが遠くへ行きたいと言った理由がわかった。
居心地の良さを忘れられるようになるまで、きっと過ごした時間以上に月日が必要だ。





