30 自覚未満、無意識以上
目が覚めても、まだ幸せの余韻が残っていた。クレアはベッドの上に座ったまま、ぼんやりと窓がある方向を見た。
いつの間にか朝になっている。帰ってきたときの記憶がない。昨日の服のままということは、帰ってすぐに寝たのだろう。髪だって結んだままだ。
――夢。うん、あんなに都合がいいのは夢よね。
テオドールと一緒に祭りを楽しんでいた夢だ。仲良く手を繋いで、まるで恋人同士のようで幸せだった。
夢だと自覚したとたんに、覚えていた感触が薄れていく。惜しいとは思わなかった。嘘の記憶で虚しくなるぐらいなら、いっそ消えてしまったほうがいい。
クレアは気持ちを切り替えてベッドから出た。身支度を整えて、机の上にあった髪飾りを取る。いつも寝る前に置いている場所とは違う。
「……そうだ。リヒターさんは」
一人で行動できるのは家の中と庭までだ。祭りの会場から帰ってくるまでは、テオドールがそばにいてくれたはずだった。
自分が何をしたのか聞くのは怖い。だが知らないままでいるのはもっと怖い。
諦めに似た気持ちで一階へ降りると、脚が高いイスに座って新聞を読んでいたテオドールと目が合った。
「お……おはようございます」
「……おはよう」
ふとテオドールの視線がそれた。コンロにかけられた鍋が吹きこぼれそうになって、慌てて火を消す。蓋を開けて中を確認したテオドールは、いつもの調子で言った。
「安易に酒を勧めて悪かった。体調は大丈夫か?」
「大丈夫、です。寝過ぎて少し疲れたぐらいで……」
先に話しかけてくれたおかげか、クレアは昨日のことを尋ねる勇気が出た。
「リヒターさん。昨日は、私、どうやって帰ってきたのか覚えてなくて……」
なぜかテオドールが安心したように見えた。
「ちゃんと歩いて帰ってきたよ。酔っ払って、楽しそうに笑ってた。クレアが心配するような行動はしていない」
「本当ですか? でも酔ってたなら、ご迷惑をおかけしたのでは?」
「まさか。呼べば素直についてきたし、大人しくて暴言も吐かないから扱いやすかった。家に帰ってきてからも――すぐに寝てたからな」
一瞬だけ言い淀んだような気がした。もしフェルのような気安い関係だったなら、遠慮なく尋ねていただろう。
「スープの味つけを任せてもいいか? フェルを起こしてくる」
「あっ朝食……すいません。交代します」
テオドールとすれ違ったクレアは、近くに立ったときの身長差が、夢と同じだと気がついた。握った手の感触を思い出しそうになる。鍋の蓋を開けて料理に集中していないと、塩の加減を間違えてしまうかもしれない。
少しだけ気まずい朝食が終わると、テオドールは工房へ移動していった。フェルは学校がある日だったので、カバンを肩にかけて近所の友人たちと家を出ていく。いつも通りの光景だ。
何事もなく昼が過ぎ、裏口からエレンが訪問してきた。テオドールに注文していた道具を受け取りにきたらしい。
「それから、お前が肩代わりした治療費を返す。ブロイ公爵から治療費と口止め料を渡されてしまってな。遅くなってすまない」
「別に返さなくても良かったのに」
「私の信条に反する。黙って受け取れ」
「仕方ない。今回は折れてやるよ」
テオドールが工房へ向かうとすぐ、エレンは体調について尋ねてきた。クレアをダイニングのイスに座らせ、自身は正面の席につく。
「だいぶ安定しているように見えるな」
「はい。立っていられる時間も増えました」
縫合跡も徐々に薄れてきたと伝えると、新しい薬の瓶を渡された。残りが少なくなってきていたので、エレンの訪問はよい機会だった。
「……君はブロイ公爵夫人のところにいると思っていたが、あの男に嫁いだのか」
「え?」
「違うのか?」
エレンは怪訝そうに工房がある方向を見た。
「あれが他人と同棲する理由が思いつかないのだが」
「その、ブロイ公爵から提案されたことで……」
エレンはクレアの事情を完全には知らない。だが尋常ではない傷跡から、厄介そうな敵に狙われていることは察している。クレアは具体的な名前は出さずに、簡単に経緯を説明した。
「さすがにあの男も、公爵の命令には逆らえないか」
聞き終えたエレンが苦笑している。気安い物言いに、二人はどういう関係なのか不思議に思っていると、エレンのほうから打ち明けてくれた。
「テオと私は子供のころ、ある人の下で学んでいたことがある。私が学んだのは医学、テオは魔術。特別な関係ではないよ。いわゆる幼馴染みというやつだ」
もう一人、エレンの弟も含まれているそうだ。どちらかといえばテオドールと弟のほうが仲が良かったらしい。
「そうだったんですか。じゃあリヒターさんのことはよくご存知なんですね」
「あいつの面白い昔話を所望か? また今度、聞かせてやろう」
本音は今すぐ聞きたいが、もうすぐ戻ってくるテオドールに邪魔をされそうだ。次にエレンと会ったときの楽しみにとっておくことにした。
エレンは秘密の話をするように、声をひそめた。
「あいつは……性格はこだわりが強くて面倒な男だ。仕事も気が向くままに延々と続けて、寝食を忘れることも幾度か。だが、稼ぎはそこそこある。一緒になっても金で苦労することはないだろう」
「何の話をしているんだお前は」
戻ってきたテオドールが胡散臭いものを見る目でエレンを止めた。持っていた小箱をエレンに渡し、クレアの隣に座る。
クレアは膝の上でスカートを掴んで、上がる心拍数に耐えた。テオドールが近くにいると緊張してしまうのは、絶対に夢のせいだ。
平常心を保とうとしているクレアをよそに、二人の応酬が続く。
「何、だと? テオが師から出された条件を片付ける手伝いをしてやろうかと」
「余計なことをするんじゃねえ。あと、俺はあいつを師なんて認めてないからな。俺が師と仰ぐのは時計のことを教えてくれた人だけだ」
「しかし今のままでは達成できないではないか。君、本気で相手を見つけようとしていないだろう?」
「期限は切られていない」
「さっさと見つけてしまえば楽だと思うがね。破門されても知らないぞ」
「そもそも弟子入りした覚えがねえよ」
「破門……?」
二人の邪魔にならないよう黙っていたクレアだったが、不穏な言葉を聞いて口を挟んでしまった。
エレンは無礼をとがめず、ごく自然に会話を続ける。
「テオと私はフェルの父親に学問を教わったと、先ほど言ったが――」
「俺は教わってない」
こいつのことは気にするな――エレンはテオドールを無視した。
「知識を分け与える前に、師はいくつか条件を出してきた。事情があって一緒に暮らせない父親の代わりに、フェルを教育することも、その一つだ」
テオドールの不在時に、フェルがエレンのところで世話になっていたのは、知り合いだからという理由だけではなかった。気になっていたけれど、聞けなかった疑問が一度に解消されていく。
だがエレンはテオドールが無表情で座っているのを見て、愉快そうに微笑んだ。
「他の条件は言わない方が良さそうだ」
「当たり前だ。ここで言うことじゃない」
二人だけに通じる話があることに、嫉妬しなかったと言えば嘘になる。知りたくても踏みこめない領域ばかりだ。
――仕方ないわ。だって、他人なんだもの。
契約で一緒にいるだけだ。クレアはテオドールの人生とは関係がない。雇われている立場だという自覚が足りない。
エレンは渡された小箱を開け、中の道具を取り出した。仕上がりを満足そうに点検している。表面に文字と数字が現れたが、クレアにはどういう意味があるのかわからなかった。
「相変わらず、いい腕をしている」
テーブルに代金を置いたエレンは、元通りに箱へ入れて立ち上がった。
「また何かあれば依頼する」
「俺に作れるものなら引き受ける」
裏口から出ていく直前、エレンが振り返ってクレアを見た。
「たとえ人に流されて決まった人生でも、変えられる機会は来る。勇気を持って飛び込んでしまえば、案外そこは安住の地かもしれない。躊躇わないことだ」
視線はクレアを向いている。だがエレンはテオドールに言っているように聞こえた。





