29 収穫祭とワイン4
やらかしたかもしれない――テオドールは後悔していた。
隣には酒を片手に、楽しげに座っているクレアがいる。いつもの柔らかい笑顔ではなく、開放的で何をしても笑っているような、泥酔に片足を突っ込んでいる顔だ。誰が見ても酔っ払っている。
成人しているなら大丈夫だろうと判断した結果が、これだ。
「リヒターさん。これおいしーです」
大切そうにカップを両手で持つクレアに、テオドールは生ぬるい笑みを返した。
――ほぼジュースなんだが。
そういう体質なのだろう。ショットグラス二杯分しかワインが含まれていない飲み物で酔うなんて、さすがに想像していなかった。
クレアの体はゆらゆらと揺れて、目が合うと幸せそうに笑う。見ている側まで楽しい気持ちになってくるから不思議だ。悪い酔い方ではないことだけは幸いだった。
「リヒターさん。おかわりがほしいです」
「今日はもうやめとけ」
「はーい」
クレアは素直に返事をした。酒で現れた人格は、まるで子供のように無邪気だ。
「……帰るか」
まだ日は高いが、酔ったクレアを連れ回すのは可哀想だ。帰ろうかと声をかけると、クレアはふらつきながら立ち上がった。
放っておくと誰かにぶつかりそうなので、誘導する目的で手を繋いだ。危なっかしくて目が離せない。つい手を貸してやりたいと思ってしまう。
混雑している広場から脱出しようとしていると、今は会いたくない類の知り合いが手を振っていた。リコだ。近所の住人と飲んでいるらしい。
「テオドールさん! こっち来て一緒に飲もう――えっなんで手ぇ繋いでんの? 誘拐現場?」
「見れば分かるだろ。酔い潰れそうだから誘導してるんだよ。保護だ保護」
警戒心なく笑っているクレアを見せると、リコも釣られてだらしなく笑った。
「ここで飲んでいけばいいのに。ねークレアちゃん」
「リヒターさん。あれなんですかー?」
全く空気を読んでいないクレアは、遠くに見える着ぐるみを指さした。完全に無視される形になったリコが、ガックリと肩を落とす。
「大道芸人が子供向けに寸劇してるんだよ。ついでに観にいくか?」
「みたいです!」
「クレアちゃん無視しないで。でも可愛いから許す」
「やっぱりお前には近づけたくねえわ。犯罪の予感しかしない」
「酷くね? テオドールさん冷たすぎ!」
「はいはい。飲み過ぎるなよ」
リコはなおもテオドールに愚痴を言っていたが、強制的に会話を終わらせた。クレアが見たがっているものを見せるほうが重要だ。まともに家賃を払わない店子の不満など、心からどうでも良かった。
クレアに合わせてゆっくり歩くと、周囲の人間は次々と追い越していく。まるで二人だけ時間の流れが違っているようだ。
見慣れた祭りが違って見える。
大道芸人が見せるものは、ありふれた手品や技ばかりだった。テオドールは見飽きたものでも、クレアには珍しかったらしい。一つ披露し終えるたびに、楽しそうに拍手している。
陽気に騒ぐ人々と軽快な音楽。
久しく忘れていた、浮かれた空気だ。
こんなにも世間は明るかっただろうか。
観劇が終わると、いつもの倍近い時間をかけて自宅に到着した。狭い庭の先に、青い裏口の扉が見える。
消費した時間とは逆に、もう終わりなのかと思ってしまう。
名残惜しい。
クレアを連れて、ただ歩いてきただけなのに。
鍵を開けて先に中へ入った。クレアも続いて入ろうとしたが、入り口の段差につまづいた。
「クレア!」
とっさに手が出た。掴んだクレアの腕を引き寄せ、抱きとめた。力が抜けたクレアと一緒に、床へ座りこむ。
裏口が音をたてて閉まった。
転倒は避けられた。誰かに見られると確実に誤解されてしまう。そう考えているのに、体が動かない。
「大丈夫か?」
「リヒターさん。好きです」
「……は?」
聞き間違いだと思った。
クレアはテオドールの上着を握り、同じ言葉を繰り返した。
「好きです。リヒターさんに恋人ができたら言ってください。ちゃんと諦めますから」
「いや、なんで急にそんな話になるんだよ」
潤んだ瞳で見上げられ、テオドールは焦っていた。
酔っ払いの戯言にしては熱がこもっている。クレアは冗談で人をからかう性格ではない。だが飲酒してからの発言を、真実と受け取るのは危険だ。
「私は使用人の立場だって分かってます。だからリヒターさんが結婚したら、町を出ていきますね。関わらないように、遠いところで仕事を見つけて……」
クレアはテオドールの胸に額をすり寄せた。猫が甘えるような仕草に、理性が危険だと告げている。
「クレア?」
「でも、その日が来るまでは、好きでいさせてください」
静かな寝息が聞こえる。
いまさらになって、酔いが回ってきたらしい。体が熱い。
テオドールはクレアの細い体を抱き上げた。風邪をひかないように、彼女の寝室へ運ぶ。ベッドに下ろしてクレアの靴を脱がせ、毛布を被せる。
自分が渡した髪飾りを外し、机に置いた。なぜ故郷で咲いていた花を描いたのだろうかと、関係ないことが頭に浮かぶ。
ただの介抱だ。やましい気持ちは一切ない。
寝顔を見ないようにカーテンを閉め、テオドールは振り返らずに一階へ降りていった。





