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底辺ランドリーメイドが幸せになるまで  作者: 佐倉 百


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23 小さな変化2

 庭へ出ると、柔らかい秋の日差しに包まれた。クレアは洗った洗濯物を温室の中へ運ぶ。


 テオドールがこの家を購入したとき、温室は骨組みだけが残っていたそうだ。手入れをされないまま朽ちかけていたところを修繕して、物干場として再利用している。すりガラスが程よい目隠しになっているので、他人に見られたくない洗濯物が干せるところが便利だ。


 干し終えて家の中へ戻ってくると、工房のほうから話し声がした。作業台で時計の修理をするテオドールの傍で、フェルが勉強を教わっている。聞こえてくる言葉が難しいが、どうやら魔術に関することらしい。


 暖かい室内で、低く落ち着いたテオドールの声を聞いていると、次第に眠くなってくる。クレアは声が聞こえにくいキッチンへ移動した。


 ――厄介だわ。


 ここはとても居心地がいい。身を守るための、一時的な雇用だと理解しているのに、離れたくないと思ってしまう。


 テオドールは王宮で噂になっていた劣悪な雇用主とは全く違っていた。クレアのことを使用人という名前の道具ではなく、一人の人間として扱ってくれる。それが当然だと彼は言うけれど、その当然のことをしない主人のほうが多いのだ。


 今が幸せだから、終わるのが寂しい。


 クレアは丸いテーブルに小さな日記帳を広げた。クリーム色の革表紙で、スカートのポケットに入る大きさが気に入っている。


 字の練習がてら始めたことが、今では習慣になっていた。ここに短い文章で書いたことは、手紙を書くときに役立つ。アリアンヌに近況を知らせて、教師に質問をするきっかけになる。フラヴィはやたらとテオドールとの関係を聞きたがるが、特筆すべきことはなかった。


 いつか出ていく身で、進展も何もない。当たり障りのない、下町で見聞きした内容だけ書いている。


 王宮の下級メイド時代に、夢など持っていても意味がないと学んだ。将来に期待も希望もしていなければ、失望して泣かなくてもいい。最悪な環境から抜け出せただけで、十分すぎるほど幸せなのだから。


 日記を開いたものの、書きたいことがあふれてまとまらない。合う言葉に変換しても、もっと適切な表現があるはずだと心が言っている。


 夜にゆっくり考えようと、クレアは手帳を閉じた。


「クレア」


 いつの間にかテオドールがキッチンに来ていた。


「はい。何かありましたか?」

「一週間後に、しばらく家を空ける」


 ジェラールの依頼で、遠方へ出張するそうだ。


「工房は閉めておく。常連客は俺が不在にするのは慣れてるから、居ないことだけ伝えてくれ。時計の引き渡しはフェルが応対する。俺がいない間、修理の依頼は引き受けていない。質問は?」

「出発は早朝でしょうか?」

「朝食後。時間はいつも通りでいい」

「お帰りはいつ頃ですか?」

「目標を達成すれば帰れるんだが……長くて五日ぐらいだな。帰る前日に連絡する」


 聞きたいことは、もっとたくさんあった。ジェラールの依頼ということは、クレアを助けてくれた時のように、危険なことがあるのだろうか。それとも、単純に時計修理の出張依頼だろうか。ジェラールのような貴族なら、別邸の一つや二つ、持っていてもおかしくないのだから。


 危険なことはしてほしくない。けれど彼の身を案じる人は、自分ではないと考え直して沈黙を選んだ。ただのメイドなのだから、主人の事情に踏み込んではいけない。


 出張を告げた日から、テオドールは深夜まで仕事をするようになった。客から預かった時計を、前倒しで修理しているようだ。出張中に取りにくるかもしれない客のためだろう。


 裏口の戸締りを確認してリビングの明かりを消すと、工房から漏れる光が際立つ。壁に映った影に誘われるようにのぞくと、作業台の前に座るテオドールがいた。


 作業に集中していて、クレアには気がついていない。整った横顔に暖色系の光が当たって、普段よりも柔らかい表情に見える。立ち上がったテオドールが背後の棚から部品を探し始めた。女性とは違う広い背中と、まくった袖口からのぞいた腕に、胸の奥がざわつく。


 クレアは静かに工房の入り口から離れた。螺旋階段を上がるのが、いつもより息苦しい。動悸はベッドに入ってからもしばらく治らなかった。


 翌朝、紅茶用のポットとカップが、キッチンに伏せた状態で置いてあった。クレアが寝ている間に使ったのだろう。ちゃんと綺麗に洗っておくところに、性格がよく表れている。


 自分に何ができるだろうかと考えて、スコーンを焼いておいた。この国の人ならケークサレのほうが口に合うかもしれないが、焼き型に使えそうなものがキッチンにない。


 砕いたチョコとクルミを練りこんで、生地は四角に切る。作りかたは仲良くなった近所の人に教えてもらった。サン・スールズは外国人が多いので、地元以外のレシピでも簡単に手に入るのだ。


 事前にフェルからテオドールの好みを聞いている。お菓子は食べるが、味に頓着しないという、作り手を悩ませるものだった。作り甲斐はないかもしれない。だが文句を言われるよりはいい。


 テオドールにはどう声をかければいいのか思いつかず、皿に盛り付けてテーブルに置いた。清潔な布巾を被せ、夜食にどうぞと書いたメモをピンで留めておいた。


 淹れた紅茶は、保温用のポットに移しておく。金属製で無骨な見た目をしているが、温かさは数時間経っても保つと聞いた。


 クレア自身がやりたいことを探して、行動するのは久しぶりだった。母親が生きていたころ以来だ。喜んでもらえるだろうかという不安のほかに、小さな達成感のようなものがある。


 緊張していたのだろう。翌日はいつもより早く目が覚めた。静かに部屋を抜け出したクレアは、テーブルの上のスコーンがいくつか無くなっているのを見て、安堵のため息が出た。


 テオドールはなぜかソファで寝ていた。自室へ行くのが面倒だったのだろうか。


 起こさないよう静かに朝食の準備をしていると、毛布にくるまった体がもそりと動いた。ゆっくり起き上がったテオドールは、目を閉じたまま動かない。しばらく同じ姿勢で固まっていたかと思うと、不意にクレアの名前を呼んだ。


「昨日はありがとう。美味しかった」


 寝起きだからか、少し声がかすれている。気怠げに座っている姿と相まって、見る者を虜にする色香が漂っていた。光の加減なのか、灰色の瞳が赤みがかって見える。


 直視できなくなり、クレアは鍋の様子を見るふりをして視線をそらした。


「気に入っていただけたようで、よかったです」

「王国で食べたものは、いつもクリームとかジャムが添えてあるだけだったが、生地に練り込んであるのもいいな」

「今度は他の種類のものを作りますね」


 もうすぐリンゴの季節だ。チーズと一緒に焼いてみるのもいいかもしれない。


「ああ。楽しみにしている」


 テオドールは小さく笑って、洗面所へ入っていった。


 やがて出張へ行く日になると、テオドールは肩がけのカバンとサーベルを部屋から出してきた。

 まだ朝食の最中だったフェルが、武器を見てから冗談めかして言う。


「お土産、期待してるよ」

「旅行じゃないんだから、あるわけねぇだろ」

「魔獣の討伐じゃないの?」

「違う。素材の採取」

「似たようなものじゃないか」

「素材って、なんですか?」


 クレアが来てから、テオドールが数日にわたって不在にするのは初めてだ。出張の内容を知らない。


「工房の棚に、時計と関係なさそうな物が置いてあるでしょ? あれ全部、魔術で使うやつだよ。テオドールは道具を――」

「フェル。余計なことは言うな」


 苛立たしそうなテオドールの声で、フェルは苦笑して黙った。


「……仕事に必要な材料を取りに行く。それだけだ」


 あまり詮索してはいけない。そう言われた気がした。ジェラールの依頼だと以前に言っていたし、クレアが知るべきことではない。


 おそらくテオドールは強いのだろう。あまり覚えていないが、コリンから守ってくれた。クレアが心配したところで、意味はないのかもしれない。だが言わずにはいられなかった。


「リヒターさん。あの……お気をつけて」


 テオドールは驚いたのか、わずかに目を見開いた。


「……ん。行ってくる」


 ふわりと柔らかく微笑んで、裏口から出ていく。

 クレアは扉が閉まる音で我に返った。

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