20 就職前夜
応接室を出たクレアは、廊下を歩きながら深呼吸をした。
大切な客が来るとしか聞かされておらず、玄関でテオドールを見かけた時は本当に驚いた。あの夜に深く記憶に刻まれた、そのままの姿でクレアの前に現れたのだ。
やや冷たさを感じる整った顔。髪の砂色と瞳の灰色。メガネをかけているので少し印象が違っていたが、クレアを気遣ってくれるところは同じだった。
まだ緊張が続いている。お茶を出すときに手が震えなくてよかった。
――言葉、ちゃんと通じてた。
短い会話だったが、勉強してきたことが報われた気がする。だが満足には程遠く、もっと会える時間が欲しいと思ってしまう。
「クレア」
空になったポットを厨房へ運んでいると、メイドのフラヴィに呼び止められた。クレアに仕事を教えてくれる先輩の一人だ。
フラヴィは好奇心を抑えきれない様子で、クレアに尋ねた。
「ちゃんとお茶出しできた?」
「はい。教えていただいた通りに」
「顔が赤いけど……大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
クレアは考えていることを見透かされたようで恥ずかしくなった。
「今日のお客様は、以前に助けてくれた方だったんです。ようやくお礼が言えたんですが、まだ緊張してて……」
「ああ、あの職人さん?」
何度か屋敷へ来ていると、フラヴィは言った。
「広間に大時計があるでしょ? 分解して整備しているところを見たわ。他にも小さな時計のことで、呼び出されたりしてるみたいよ。意外と近くにいて良かったじゃないの。名前しか知らない人を探すなんて大変なんだから」
一緒に厨房へ向かっていると、フラヴィが笑顔で話を続けてきた。
「それで、どんなことを話したの? お礼を言って終わりだなんて、寂しいこと言わないでよ」
フラヴィはクレアが帝国の言葉を覚えたい理由を知っている。よく練習に付き合ってくれる面倒見がいい先輩だが、礼を言いたい相手が男性と分かると、なぜか恋愛に絡めてくるようになった。
テオドールのことを全く意識していないと言えば、嘘になる。言葉を覚えて、感謝の言葉を伝えて終わるのは寂しい。顔と名前だけでは物足りない。もっと相手のことが知りたかった。
どこに住んでいて、何に興味があるのか。共通の話題が欲しい。
「怪我の心配をしてくれました」
テオドールがかけてくれた言葉を思い出すと、心が落ち着かなくなる。ふわふわと頼りなく浮かんでいて、なぜか心地よい。
「恋人がいるかどうか聞いた?」
「それは……話の流れで、旦那様が聞いてて……」
焦るクレアを、フラヴィはニヤリと笑って追い詰める。
「それで?」
「いない、そうです」
「へー。まあ近寄りにくい雰囲気の人だったし、意外でもないわね。あなたにとっては良かったんじゃない?」
「そんなこと、ないです」
たぶん――クレアは心の中で付け足した。
王国で暮らしていた日々よりも充実しているのは、生活が改善されたこともあるが、彼の存在を知ったからだと思っている。
目標もなく学び続けるのは難しい。教師が言っていた通りだ。
もし誘拐されて帝国へ連れてこられたなら、学ぶどころか生きる気力も持てなかったかもしれない。テオドールに助けられ、自分の言葉で感謝を伝えたいと思っていたから、クレアは挫折せずにいられた。
目の前にいなくても、目標になってくれている。
――旦那様の提案が現実になったら。
テオドールのところで働ける。
どんなに帝国語を学んでも、言葉だけでは伝えられなかった。短い時間で全てを伝えるなど無理だ。だからジェラールが言う『生活の支え』は、魅力的な提案だった。
自分の行動が彼の助けになる。
想像が現実になって、嬉しいのか戸惑っているのか、自分でもわからなくなってきた。ただ一緒にいられる時間ができたことは、クレアにとって新たな目標ができたことでもあった。
***
数日後、アリアンヌから正式に話が回ってきた。
彼女はクレアの保護者から、身元の保証人へと変わる。派遣先で新たな雇用主との間に問題が起きたとき、間に入ってくれるそうだ。
「派遣先が合わないと思ったら、遠慮なく帰ってきなさい。我慢をして続けたところで、あなたも、派遣先も不幸になるだけよ」
アリアンヌはそこで優しく笑った。
「ここでの生活と違って、仕事の種類は増えるけれど、作業量は減るわ。空いた時間は自分のために使いなさい。人に尽くしすぎるのは駄目よ」
派遣期間はクレアかテオドールが解消を申し出たときまで。給金は一般的なメイドと同額と決まった。
また月に一度は屋敷でアリアンヌと面会をしたり、教師のところへ呼ばれるという。アリアンヌは職場環境の聞き取り調査のためで、クレア以外にも行っているそうだ。教師は本を読んで自分なりに感想文を書いておくようにと、歴史を題材にした物語を出してきた。新品の筆記用具やレターセットも一緒に渡し、感想以外でも受け付けていますと言っていた。
「先生と文通ができるんですね。楽しみです」
そう正直にクレアが言うと、教師は口角を上げてうなずいた。機嫌がいい時の顔だ。
「あら。じゃあ私もクレアさんに手紙を出そうかしら」
アリアンヌが面白がっていると、教師は好きにしなさいと言葉にして帰っていった。
「相変わらずわかりにくい先生ね。クレアさんがいなくなって寂しいって、思っていても絶対に言わないんだから」
アリアンヌはクレアに契約書を見せた。
「不当な契約ではないことの証拠よ」
書面には、すでにテオドールのサインがあった。待遇は先ほどアリアンヌに伝えられた通り。契約違反があれば、違約金を払うことなどが書かれている。
クレアは教えてもらった位置に自分の名前を書いた。姓はない。自分を表す文字が少ないと書くのが楽だ。そんなおかしなことを考えてしまう。
他の使用人からは、就職先が決まったことをお祝いしてもらった。みなアリアンヌに拾われるまでは、クレアと似たような環境で働いていたそうだ。初対面のときから優しくしてもらったので、ここへ来てから嫌な目にあったことがない。
特に仲が良かったフラヴィは、私も手紙を書くわと涙目で言われた。一度に三人も文通する人が増えた。歩いて会いに行ける距離なのに、まるで外国へ行くような気分だ。
出発する日が楽しみでもあり、不安もある。でも大丈夫だと思えるのは、自分には戻れる場所ができたからだった。
ずっとテオドールの近くにいられるなんて、贅沢なことは想像していない。自分はただのメイドだ。文面では無期限になっているが、クレアとテオドールのどちらかの意思で、簡単に契約が終わる。
終了のきっかけは、テオドールの人間関係が原因になるだろう。彼に特別な人が現れたら、きっと契約は続けられない。ジェラールが恋人の有無を聞いたのは、メイドが雇用主の幸せを壊さないためだ。
クレアは自分の気持ちに蓋をすることにした。
教師はツンデレ





