13 過去から届いた凶刃
厨房で下ごしらえを終え、クレアは調理の邪魔だと追い立てられるように出てきた。料理を運ぶために待機していろと命令されたが、トイレへ行くと言って使用人の集団から抜け出す。
嘘をついて仕事を放棄するなんて初めてだ。後ろめたい気持ちで落ち着かない。
厨房から保管庫へ向かう途中、王宮の空気が張り詰めているような気がした。
戴冠式と夜会の警備で衛兵が増員されているのもあるが、警戒している衛兵の表情が険しい。使用人の中にも、緊張した様子で廊下を行き交う者もいる。これから夜会が行われるというのに、新たな王を祝う雰囲気ではない。
クレアは衛兵に目をつけられないよう、他の使用人に隠れるように廊下を進んだ。彼らはメイドを下に見ている。卑猥な言葉を投げかけられることもあり、話しかけられるのが苦手だった。
日はほどんど沈み、廊下が薄暗い。まだ肉眼で見えるので照明は必要ないが、クレアはポケットの中に厨房でくすねてきた蝋燭を入れていた。これから保管庫にある形見を取り戻す。間違えないように目で確認するためには、光源が欠かせない。
保管庫まであと少しのところまで来たとき、カンテラを持った使用人と遭遇した。夕方なら照明を持っていなくても不審に思われない。だが許可なく保管庫に侵入しようとしている今は、少しの物音でも過剰に反応しそうになる。
どうか通り過ぎてくれますようにと願うクレアに、聞き覚えのある声がかけられた。
「クレア。無事だったんだね」
「……コリン?」
心から安堵したのか、コリンは優しく笑みを浮かべている。
「無事って、どういうこと?」
「メイドの死体が見つかったんだ」
コリンの笑顔が消えた。痛ましそうに目を伏せ、犠牲者を悼んでいるようだ。
「どうして? 誰が亡くなったの?」
「ごめん。名前は知らないんだ。殺した犯人はまだ見つかっていない。いま衛兵が捜索してる」
王宮内の空気が緊張するわけだ。物々しい衛兵は要人の警護だけでなく、潜んでいる犯人の襲撃に備えていたのだから。
「送っていくよ。一人じゃ危ない」
「大丈夫。あなたも仕事があるんでしょ? 一人で行けるわ」
保管庫から形見を持ち出そうとしているなど、正直に言えるわけがない。コリンが離れてくれないと、保管庫に入れないままだ。
適当な理由を思いつかなかったクレアは、コリンの横をすり抜けた。しつこくついてくるなら、走って逃げよう。見つからないように魔術で扉を潜れば、きっと諦めて帰っていくはず。
今日を逃せば、いつ機会が回ってくるか分からない。
コリンが持つランタンの光が動いた。視界の端で鋭く反射して、左腕に痛みが走る。
クレアはコリンを振り返り、その手にナイフが握られているのを見て、何をされたのか理解した。
彼に抱いていた恐怖心は正しかった。クレアへの熱がこもった行動は、獲物を群から引き離すため。恋愛感情に似せて、狩る者の殺意を抑えていただけだ。
クレアは急いで廊下を走り、近くの部屋に魔術で避難した。
――逃げないと。
幸いにも、ここは一階だ。窓を開け、枠をまたいで身を乗り出す。飛び降りたときにバランスを崩してしまったが、長い丈の芝生が衝撃を吸収してくれたのか、怪我をせずに済んだ。
クレアが立ち上がると同時に、部屋の扉が乱暴に開いた。振り返っている余裕はない。月の光が照らす庭を走って、少しでもコリンから離れようとした。
――どこへ行けばいいの。
人が多い厨房までは距離がある。クレアの足では追いつかれてしまう。自分の部屋も遠く、他のメイドが巻き込まれてしまうだろう。
衛兵に話して、信じてもらえるだろうか。あのナイフは服の下に隠せる大きさだった。コリンの人あたりがいい笑顔に騙されて、痴話喧嘩だと勘違いするかもしれない。
逃げたい一心で走っていたクレアは、いつの間にか思い出の場所へ向かっている自分に気がついた。
母親と一緒に会いに行った、もう一人の母親のような人。たまに背が高い男性もいて、親子のように過ごすのが不思議だった。彼らの前にいる母親は貴族つきのメイドのように振る舞っていたので、妖精の魔法にかけられたのかと尋ねたこともある。
彼らに会っている時は楽しかった。たくさんのことを教えてくれて、なぜか突然、会えなくなった。
「見つけた」
足に何かが巻き付いて、地面に引きずり倒された。左の太腿から、ふくらはぎにかけて尖ったものが食い込み、クレアは悲鳴をあげた。
「走るのが早いな。ようやく追いついたよ、クレア」
嬉しいのか、コリンの声が弾んでいる。朗らかな声なのに、ぞっとするほど冷たい。
コリンが腕を振ると、脚に巻き付いたものは、クレアの傷を広げながら回収されていった。裂かれたスカートの上から傷を押さえるが、血は止まらずに溢れてくる。
辺りを見回したが、衛兵の姿はどこにもなかった。
「助けを期待しても無駄だよ。捜索は打ち切られた。命令を出した王は、不審者を探しても見つからないと知っている」
「メイドを殺したのは、あなたなの?」
無事だった右足を使い、後ろ向きに這いながら尋ねた。コリンはクレアの逃亡を許すわけがなく、スカートにナイフを突き立て、動けないように縫い留める。クレアが被っていた帽子を払い落とし、三つ編みにした髪を掬い取った。
「鬱陶しかったから始末した。君を男に襲わせようとしたんだ。酷いよね。俺の獲物だったのに、勝手に汚そうとするなんて」
コリンは髪に視線を落とした。
「これが君の本当の色? 嬉しいな。銀髪には血の赤が映える。君に初めて会ったとき、理想の相手が現れたと思ったんだ。ずっと、君の綺麗な肌を傷つけたかった。どんな傷が似合うのか妄想する時間も楽しかったよ」
愛おしげにコリンがクレアの頬をなでる。
「だから、君を殺せと命じられた時は、本当に嬉しかった。王の命令はいつも退屈だったけど、今回だけは感謝してる」
「どうして、私が殺されるの……?」
「知らない? 君は十七年前に死んだと思われている王女だからだよ。国王陛下は心配性でね。君が生きていたら都合が悪いと思っていたようだ」
「そんなの知らない……私、王女なんかじゃない」
「王女様だよ。血縁を調べる魔術で、俺が調べたから間違いない。肌に触れないと効果がないから、本当に苦労した。君は逃げるのが上手いから」
コリンはスカートに刺さったナイフを引き抜いた。
「父親が生きていれば、華やかな生活もできただろうに。王女様がランドリーメイドだなんて、かわいそう」
笑いが消えた。
「クレア。終わりにしてあげる。今まで辛かったよね。大丈夫、少しだけ俺の好奇心を満たしてくれたら、助けるよ。君の内側が見たいんだ。きっと綺麗だから。ほら、よく見えるようにカンテラも持ってきた。一つ一つを堪能したあとは、いつ死んだのか分からないように、優しく終わらせるからね」
足に力が入らない。
逃げなくてはいけないのに、ナイフを振り上げる男を見ていた。
何もできない無気力が、怖いと感じる心を塗りつぶしている。
刃先が腹部に刺さる直前、目の前で光が弾けた。弾かれたナイフが弧を描いて遠くに落ちる。コリンは手首をおさえて立ち上がり、横から来た黒いものに弾かれて地面に転がった。
「無事か!? 生きてるよな?」
呆けたように座りこんでいたクレアを、誰かが頬を叩いて現実に戻した。
灰色の瞳に見覚えがある。また助けてもらった。お礼を言わないといけない。怖い。止まっていた思考が一度に流れてきて、軽くふらついた。
呼吸が浅く、速くなって苦しい。
「大丈夫。ゆっくり息を吸って。絶対に助けるから」
足の痛みが和らいだ。守るように抱きしめられて伝わってくる体温が、生きている実感を教えてくれる。背中をさすってもらうと、クレアの呼吸が落ち着いてきた。
この人はクレアを気遣ってくれている。
まだ恐怖が完全に消えたわけではない。だが彼がいれば大丈夫だと安心したクレアは、次第に意識が遠のいていった。