11 決断
大聖堂では戴冠式が始まったらしい。クレアは大聖堂へ行ったことがなかったので、それがどんなに名誉なことか分からなかった。王族の結婚式も大聖堂で行われるそうだ。きっと平民は入れない場所なのだろう。
新しい王の誕生は喜ばしいことだそうだが、それを感じる機会は永遠に来ないだろう。食事が豪華になるわけでもなく、人手不足の皺寄せで睡眠時間が減らされる。クレアが実感した嬉しいことといえば、洗濯物へのいたずらが無くなったことだけだ。
乾いた洗濯物をロープから外していると、にわかに騒がしくなった。同僚たちが遠巻きにクレアを見ている。
「クレア」
どうしたのと尋ねようとしたクレアは、名前を呼ばれて振り返った。
コリンが申し訳なさそうに立っている。洗濯場で会うのは初めてだ。優しい笑顔が怖い。クレアは後退りをしてコリンから離れた。
「突然、ごめん。どうしてもクレアに言いたいことがあって」
「……何でしょうか」
「今日の夜、厨房の手伝いが終わった後に話ができないかな」
作業をするふりをして聞き耳を立てていた同僚たちの間から、小さく歓声が上がった。プロポーズの前振りだと思ったのだろうか。
「私は話したいことなんて、何もありません」
「クレア!」
コリンがクレアの左手を掴んだ。触れた肌から、言いようのない恐怖が広がる。クレアは咄嗟に振り払った。
「やめて。私はあなたに興味はありません。思わせぶりな態度で、みんなの誤解を招くのも迷惑よ。お願い、もう仕事以外では関わらないで」
酷いことを言っている自覚はある。他人を傷つける言葉は使いたくなかったが、はっきり言わなければ伝わらないこともあるのだと、クレアはようやく学んだ。
残りの洗濯物を乱暴に籠へ突っ込むと、クレアは戸惑うコリンを残して逃げた。アイロン室に入って作業台に籠を置き、ようやく恐怖が薄らいできた。
「クレア。さっきの人と付き合ってたの?」
最初に話しかけてきたのはポーラだ。一部始終を見ていたらしい。
「違うの。挨拶ぐらいしか、したことない」
「でもあの誘いかたって……結婚でも申し込みにきたのかと思ったわ」
「そうだとしても受ける気はないわ」
唐突に、背中に籠が投げつけられた。入り口付近にいた同僚が、クレアを睨みつけている。
「ふざけないでよ! 何であなたばっかり気にかけてもらってるわけ?」
「ダフネ……?」
クレアは怒鳴られた理由が分からず、呆然と同僚を見ていた。
「他の使用人だって、あなたのことばかり聞いてくるし……男に興味なさそうに振る舞ってるくせに! 結婚でも何でもいいから、出ていけばいいのよ!」
「あんた、言い過ぎよ!」
他のメイドが止めに入った。泣き崩れたダフネは同僚に抱えられて、外へ出ていく。残されたクレアたちの間に、気まずい空気が流れた。
「……大丈夫?」
ポーラの気遣いがありがたかった。
「……うん」
「あの人、そろそろ結婚するか、仕事を選んで独身を貫くか選ぶ時期じゃない? だから焦ってるみたい」
「そう、だったの……」
「歳が近い使用人を誘って、断られたことがあってね。かなり引きずってたみたい。だからって八つ当たりしていいわけじゃないけどさ。ダフネだって、苦手な人から言い寄られて困ったことがあったくせに!」
クレアは落ちた洗濯物を籠に集め、隣の作業台に置いた。
ふと、代わり映えしないと思っていた日常が、ゆっくり変化していると気がついた。似たようなことを毎日繰り返している間に時間が流れて、ダフネのように将来を選ばないといけなくなる時がくる。
不満を持っていても命令に従えば生きられる生活は、とても簡単だ。何も考えなくてもいい。年老いて死ぬまで、王宮で働ける保証はないのに、この先も続くと錯覚してしまう。
それは駄目だ、変わりたいという漠然とした焦りはあるが、自分がどうしたいのか、どうすれば理想に近づけるのかわからない。そもそも理想の姿すら思い浮かばない。
流されて生きてきた。だから心の内側には何も残らず、何も詰まっていない。世間知らずな自分を見ないようにして、ただ待遇に愚痴をこぼすだけ。
未来は真っ暗なのに、自分だけは大丈夫だろうと、油断している。
クレアは自分が抱えている問題には気がついていた。けれど積極的に問題を解決しようとはしなかった。どうせ無駄だと諦めて、酷使されるだけの日常に甘んじている。
――待遇はこれ以上悪くならないはず。やらずに後悔し続けるほうが嫌。
王宮から逃げる準備をしよう――クレアは決めた。
私物は小さなカバンに全て入る。
戴冠式の後には盛大な夜会が控えており、魔術師たちは王を喜ばせるために大掛かりな魔術を計画しているらしい。保管庫に侵入者がいても、すぐには対処できないはずだ。
***
「協力してあげましょうか?」
仕事場へ戻る途中で、コリンはメイドに呼び止められた。
相手の顔に見覚えはあるが、興味がないので名前を知らない。仕事で関わる人間以外は、王宮にいるメイドの一人という、大雑把な分類で十分だった。
「協力って、何を……」
「あんた、クレアを狙ってるんでしょ? うまく呼び出してあげるからさ。思わせぶりな態度で、あんたを勘違いさせた責任を取らせるのよ」
「……それは、違う。彼女は距離をとろうとしてた。気がついていたけど、俺が無理に迫ったんだ」
「ちょっと拒否されて、そこで諦めるわけ? 駆け引きだったかもしれないわよ」
「でも」
コリンの煮えきらない態度に、メイドはいらついたのか口元を歪ませた。
「襲えばいいのよ。下級メイドが襲われても、きっと誰も真面目に調査なんてしないわ。戴冠式の日ですもの。みんなが喜んでいる時に、水を差すようなことを言うなって、鬱陶しがられるだけだわ」
「どうして、そんなことを言うんだ」
「私がクレアを嫌いなのよ。文句ある? 私が目をつけた男が、奴隷女の話をしてきたらムカつくじゃない。どんなにあいつの仕事を邪魔しても、済ました顔して片付けて、怒られたことなんて一度もないみたいだし」
メイドはコリンを放置して、なおも一方的に喋る。
「だから、もっと過激にしてやりたくなったの。あんたにも悪い話じゃないでしょ? クレアと二人きりで話ができるんだからさ。話し合った結果、体の関係になったとしても、誰にも迷惑がかからない。案外、相性が良くてうまくいくかもしれないし、そのまま駆け落ちでもしたら?」
下品だとコリンは思った。ただ、それだけだ。このメイドが聖人のような心を持っていたとしても、興味がないままだろう。
メイドは答えないコリンを睨んだ。
「じゃあ別にいいわよ。別の男にやらせるから」
「待って」
それは駄目だ。クレアはコリンが目をつけていた。
「どうせあいつ、近いうちに死ぬんだから。誰にやられても一緒よ」
「なんで、死ぬって」
「聞いたのよ」
優越感を刺激されたメイドが、コリンに憐れむような顔をする。
「私、最近は王族の近くで働いてるの。あそこは想像以上に刺激的な場所よ。死んだはずの王女が生きてるって噂が流れてたり、王様の敵を始末しろなんて命令も出てくるの。しかもその敵は長く勤めてる使用人で、クレアって名前。そんなの、一人しかいないじゃない」
「そんなことまで知ってるのか」
「あんたは知らないかもしれないけど、クレアは子供の頃から王宮にいるのよ。父親の顔なんて知らない。私生児。母親がランドリーメイドだなんて、産まれた時から奴隷になるのが決まってるようなものよ」
メイドの笑い声が不快だった。
「……詳しく聞かせてくれないか。君の計画について」
仕事場へ来てほしいと言うと、メイドは目論見通りといった態度で笑った。コリンが働いている鶏小屋付近は、あまり人が来ない。秘密の話をするにはうってつけだった。
鶏小屋の隣には、締めた鶏を解体する作業場と、休憩に使っている小部屋がある。鍵を開けてメイドに中へ入るように促す。疑うことなく扉をくぐったメイドは、床に落ちていた鶏の羽を見て、あからさまに嫌そうな顔をした。
自分だって肉を食べているくせに――コリンが言わなくても伝わったらしい。メイドは、悪かったわねと勝手に謝罪をしてきた。
「ここは作業場なの?」
壁にかかっているナイフを見て、メイドが聞いてきた。
「そう。それは仕事用のナイフ」
使い終わったら、すぐに洗って研いで、油を塗って保管をしている。
「たくさん種類があるのね」
「国王陛下が狩りをした獲物を解体するのも、俺の仕事だから」
毛皮を剥いで肉を切り分けるだけでなく、頭を切り落として剥製職人へ渡すこともある。必要な作業ごとに道具が要るのだ。
武器庫のように並ぶ刃物に、メイドは薄ら寒いものを感じたらしい。両手でひじのあたりをさすっている。
「奥の部屋へ。イスがあるから、そこで話そう」
このメイドと話すのは憂鬱だった。だが他の人間にクレアを渡したくない。コリンはメイドが余計なことをしないために、あえて不愉快な方法を選ぶことにした。





