第五章「喪失したモノ」-後編-
八年前、ニルヴァース王国。今は死の荒野と呼ばれるその場所は、当時は生に満ち溢れる楽園であった。四つの元素の影響を均等に受けたその土地は年中気候は安定し、飢饉や災害が起こる事もなかった。
国王の人柄もよく、国は平和であったという。
この場所で光と影は会談を行った。しかし、その結果、状況を知る者は誰もいないと言われている。なにせ、あの状況から脱出できた関係者などいないし、いないことになっているからだ。
アナベルはそんな滅びゆく運命にある国にいた。命令を遂行するためである。
頭によぎるものは何一つとしてない。殺す事は物を壊す事と大差はない。彼にとってはその程度の事なのだ。
おおよその場所は聞いていたし、名前と特徴も聞いていたので間違いなどはおこさなかった。ニルヴァースの首都に入ってから数時間で目的の邸宅に到着した。
大きく、飾りのついた豪奢な鉄格子の扉の向こうに、自分と同じくらいの少女が遊んでいるのが見えた。澄んだ海のような蒼色の長い髪をもった少女だ。特徴と一致する。近くに人はいないし、この距離なら三秒あればいい。そんな事を彼は考えていた。
ふと、少女がこちらを見た。アナベルは腰の短剣を抜こうとして――
「あなたは?」
――やめた。キッとこちらを見据える目は髪よりも少し緑の入った青色。眼光は鋭く、彼女自身の気の強さが表れている。ただ、その姿が余りにも凛々しかった。その眼に釘つけになるように腕は動かなかった。
「――?」
リリーナは聞こえていなかったのか、と首をかしげる。アナベルは自分の心に宿った迷いがよくわからず混乱していた。だから彼女の動きに気づかなかったのだ。
「人の話を聞けーっ!」
いつの間にか少女は目の前まで来ていて、気づいたら彼女の足は空にあって、気づいたら扉ごとアナベルを吹き飛ばしていた。
ソレはとんでもない威力だった。とても十歳の少女のものとは思えない。大の大人どころか、訓練され、洗練された無駄のない足技だ。
久々に目眩がするほどの一撃をくらってアナベルは地面にのびた。
「だらしないわね、男でしょ、あなた」
そういって髪の毛を掻きあげながら自分を見下ろす少女は、その背後に広がる青空のように綺麗だった。何も感じなかった心に何かが響いた気がした。
「何をしてるんだね、リリーナ」
あれだけとんでもない蹴りを扉に食らわせたのだ。さぞ大きい音が出ていたのだろう、家主がでてきたようだ。この時点で任務は半分以上失敗と言える。
「おや、友達か?」
リリーナの父親と思われるその男はアナベルをしばらく見た後そう言った。
「いいえ、お父様。扉の前に立っていただけですわ」
「おやおや、では立っていただけの人を蹴ってしまったのかい?」
そう言われたリリーナはそっぽをむいた。
男がアナベルに近寄る。
「これはすまなかった。扉の前にいたというのならば君は客人だろう。さあ、中にはいりたまえ」
「――!?」
アナベルの眼には信じられない、というような色が映ったのだろう。ここに至るまでそれほどの感情を表に出さなかった少年が初めて表情を表に出した瞬間であった。
「何をそんなに驚いている。来る者は拒まないさ。うむ、娘が蹴り飛ばしてしまったようだしな」
そう言って男はアナベルの背中を押すと家に連れていく。その後ろからあきれ顔でリリーナが続いた。
「お人よしね」
「リリーナはもう少し優しい方が可愛いぞ」
男の言葉にまたリリーナはそっぽを向いた。
「反抗期だな」
「そんなに子供じゃないもの」
二人の会話は親子の様で、友達の様だった。言える事は、それがとても温かいということだろうか。
生まれた時から人の冷たさしか知らぬ少年にとってはそれがどういったものかを理解する事は出来なかっただろう。
「どうしたんですか、あなた。その子は?」
「いやあ、リリーナが蹴り飛ばしてしまってな」
「まぁ。誰に似たんでしょうかね」
リリーナの母はそう言って笑った。
「あはは、悪いね、少々足癖の悪い娘でな」
男もそう言って笑う。その横でリリーナは恥ずかしそうに、やはりそっぽを向いていた。
「――はは」
短く、少年は笑っていた。その表情に笑顔が生まれたのは、この時が間違いなく初めてである。生まれて十年、彼はこの場で始めて笑ったのだ。
その様子を見て男は静かに笑っていた。
夫妻はアナベルの事を何も聞かず、夕食まで彼に与えた。そのうち、平和な時間は終わりを告げる。
轟音。家そのものが揺れた。いや、大地が揺れたのだ。
「むっ」
「お城の方角ですね」
夫婦そろって反応する。リリーナは窓に駆け寄って燃え盛りつつある空を見ていた。夜の闇が赤に浸食されつつある。
「君」
男がアナベルに顔を向ける。
「リリーナを連れて逃げてくれないか。北に走れ、そうすればいずれ助かる」
リリーナの父は彼がどういった人間なのか見抜いたのか、そう言った。
「……」
少年は相変わらず無言。だが、その表情に何かを見たのか、夫妻は家を飛び出し、城へと向かった。
後にわかる。この男はベリュード・フレインヴェール。ニルヴァースの諜報部のトップであり、この日何が起きるか、予見していた男であった。
少年は少女を連れて駈けていた。勿論、馬になど乗っていない。しかし、その足は馬よりも早かった。
少年は組織を裏切り、自分の殺すべき相手をその腕に抱き、燃え盛る王国から脱出する。
「何するのよ、馬鹿!」
抱えられた少女は自分の身に何が起きたのかをよく理解している。頭はよかった。だが、やはりまだ子供なのだ。両親が死ぬとわかって、自分だけ生きようともがいて、その結果離れるのが怖いのだ。
両親もまた、親であり、優れた将であった。このために脱出ルートを考え、北に迎えをよこしていた。そのうえで王を助けるべく知略を凝らしていたのである。誤算と言えば、アナベルのように、襲った連中の単独の戦闘力が極めて高かった事であろうか。
その結果がどうだったのかは、今はわからない。国は跡形もなく滅び、生存者がいるのかいないのかさえも不明である。
アナベルは少女を連れてかけ続けたひたすらに北に走った。追っ手はいない。それほどに男の用意した脱出ルート完璧だった。
腕の中で少女は泣いた。それが一生の別れとなるであろうことは薄々わかるのだろう。
少年はこの少女の事が好きだったわけではない。そんな感情は彼にはまだ分からなかったし、知らなかった。ただ、死なせたくなかったのである。その思いが彼を突き動かしていた。
一口に北、と言っても道は長い。北にあるのはアルマルのみ。故に向かう先はアルマルだ。アルマルの国領に入るまで、馬で二日はかかる。これが人の足となるとどれだけかかるのか。
しかし、アナベルは走った。その距離を一日と半分でアルマルの国領付近までたどり着き、そこでニルヴァースへ向かっていたミストの父親に助けられたのである。その後、三か月はアナベルは歩くことすらできなかったという。
「……俺は、その時逃げた組織からずっと命を狙われ続けている。きっとな。んで、この世界で情報が集まる場所は一か所、酒場だ。もし俺の特徴を知る誰かがいて、そこから情報が発信されれば俺の居場所はいずれわかってしまう。それを恐れてリリーナは俺に酒場を止めているんだ」
そう話し終わったアナベルの前に、いつのまにかミストが立っていた。
「ミスト……」
「もういいから――」
ミストはそう優しく言った。そして、何故か足を……
「さっさと追いかけなさいこの愚図!」
いつもおしとやかにしていたミストの口からとんでもない暴言が出るとともに、華麗な弧を描いた蹴りがアナベルに炸裂する。
「がはっ……」
その様を例えるならばサッカーのようである。ミストの足は蹴ると同時に完全に足を振りぬいていた。結果、アナベルは窓を綺麗に通過した。
その様子を見届けて、ぱんぱん、と手をはたくとミストは清々しい顔をした。
「結構格好いい所もあるじゃない」
もうこの場所にはいないアナベルに向けてそう言った。一同が重い空気に包まれる中、
「えっと……」
ヴェナスが口を開いた。
「アマジーグの件はどーなったのでしょう……」
おそらくその場にいたミスト以外の全員の口調が合っていた事だろう。揃いにそろって、
「あ」
なんて間抜けな声を出していた。
結構騒がしかったのか、寝ているはずの恭介は頭から布団をかぶっていた。
日は沈みかけていた。長く伸びた城塞の影が、小高い丘を覆いつつある。ここはリースティアの街の外。周り全てが見渡せる場所で、この近くに恭介が最初に倒れていた場所がある。
アナベルは直感的にこの場所へと向かっていた。ここにいるような気がしたのだった。坂を登りきったとき、その丘の上にリリーナはいた。見ている方角は『死の荒野』……、ニルヴァースの方角。使われなくなり、荒れている道がもはや誰もその地を訪れていない事を語っている。
「ねえ」
リリーナが口を開いた。振り向いてはいないが、彼が来た事を悟ったのだろう。
「ここからじゃ向こうは見えないほど遠いのに、アナベルは私を抱えたままこの国まで連れてきてくれたんだよね」
静かな声。そこにはいつものお転婆なリリーナの姿はない。今、この場所のリリーナは、リリーナ・クレスメントではなく、リリーナ・フレインヴェールとしての影を背負っていた。
「ああ。最も、ミストの親父さんが探しに来てくれてなければたどり着けはしなかっただろうが」
「どうして、私を助けてくれたの? アナベルの目的は――私を殺すことだったんでしょう? なのに、自分の命がずっと狙われるかもしれないってわかっていて、どうして?」
暗殺者が組織を裏切るとはそういうことだ。その一生に平穏はない。いつまでも、どこまでも、何者かが自分を狙う不安に苛まれることになる。それを覚悟する、というのはどんな状況にあっても難しく、厳しい。リリーナにはそれが理解できていた。だから、いままで聞きたくとも聞けなかったのだ。
「――あの時の俺には何もなかった。守るものもなく、憧れるものもなく、ただ殺すだけの『兵器』だったんだ。楽しいと思った事はないし、辛いと思ったこともない。言葉は作戦の内容を知り、終了を知らせるだけの道具だった。表情、感情なんてものは知らなかった。
あの時、リリーナの家で過ごした短い時間は、俺にとって、初めての『人』としての時間だった。あの瞬間、俺は思ったんだ。お前を死なせたくない、ってな。それだけなんだ」
その言葉にリリーナは振り向く。眼光は鋭い。その瞳には涙が溜まり、頬には涙の流れた跡がある。蒼い髪は夕日に染められ、赤く輝いていた。
「私のせいであなたは、一生命を狙われるリスクを背負ったのよ!? 私さえ殺していればあなたは、こんな運命背負わずによかったのに!」
リリーナは吐き捨てるように言った。勿論、助けてくれた事には感謝している。でも、そのためにアナベルが過酷な運命にさらされることに彼女は責任を感じていたのだ。
「俺がお前を守りたいんだ。死なせたくない。だから、そんな事を言わないでくれ」
「嫌! 私だって……私だってアナベルに死んでもらいたくなんか無い」
リリーナは頑なに頭を振った。その様子を見て、アナベルはリリーナを抱きしめる。
「こんな事を言う資格はないのかもしれない。けれど、言わせてくれ。俺は、リリーナ、お前と一緒にいたいんだ」
その言葉にリリーナはむすっとした表情を見せた。昔、こんな顔でそっぽをむいていたのを思い出してアナベルは思わず、僅かに笑ってしまう。
「何よ」
「お前こそ」
二人してクスリ、と笑った。そして、あきれ顔でリリーナが言う。
「一緒にいたい、だけなの?」
「む」
その言葉にアナベルのほうがそっぽを向いた。確かに言うべき言葉はわかっているが、自分自身そんな言葉には慣れていない。
「ふん、別にいいけどね」
そういうとアナベルの横を通り過ぎて、くるり、と振り向いた。蒼いスカートの裾がひらりと舞う。
「私はアナベルの事、大好きだよ」
満面の笑顔。綺麗に輝く夕日なんて背景どころか眼にも入らない。彼女の本当の笑顔は、この世の何にも代え難い宝物だった。
「ほら、帰るよ、ハリガネムシ」
いつかの、意味不明な暴言で恥ずかしさを紛らわすようにしてからリリーナは丘に背を向けた。後ろ姿は何の変哲もない、いつも通りのリリーナである。勿論、前から見たっていたって普通の可憐な少女。だが、ソレは単に夕日が手伝って、というだけのことではあるのだが。
もしこれが白昼であったのならば、彼女の顔は夕日に照らされたかのように赤かったに違いない。
一方、アナベルはと言うと。
「――俺、ハリガネムシでもいいや」
茫然としてそんな事をつぶやいていた。
やっと五章が完結です。
次はいよいよ六章ですが、次がいつになるかは未定です。
もっとも、出来れば今週中には、と考えてはいますが。
これからも楽しめるように書いていこうと思います。
応援よろしくお願いします。
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