終章「狂った世界の終幕」-前編-
※「終章」は、一巻としての終章です。
大分遅れました、スイマセン。
アルマルは別名、氷水の国ともいわれる。その由来がウィノア達がヨシュアを救出した地であるリンテシアだ。アルマルは国土全体がこのリンテシアと、そこの山々から流れる川である『アイシクルリバー』の影響で、サラマンドの月であっても他の国に比べ随分と涼しい。
だが、逆を言えばその根源であるリンテシアの地は動植物の一切が生息しない死の大地でもあった。草木一本ないこの雪原では、吹雪が止むか、雪の降らない個所まで来ると場所によっては地平線を見渡す事が出来る。つまり、広大な土地をもつ無生物地帯なのだ。
丁度、ウィノア達はリンテシアとリースティアを結ぶ中間点まで来ていた。とはいっても、リースティアはまだまだ先である。
「やっとこの雪原を抜けるか」
地上を見下ろしながら、感慨深そうにヨシュアが言った。
「後もうしばらくでリースティアに到着しますね。間に合えばいいのですが」
遥か遠く。まだ見えぬリースティアの方角を見据えてヴェナスが言った。
「しかし、驚いたな。生きているうちに光を扱う者に出会うとは思わなかった。そなた、光の国の者か?」
ヨシュアがそう問うと、ウィノアは少し困ったように俯いた。
「え……と」
ウィノアにしてみると、自分が亡国の王女のようなもの、なんていうことはそうそう口にできるものではない。その上、光の国の住民と言うだけで、理の国の者からすれば一種の神を見るようなもので、それと同時に畏怖の対象でもあるからだ。
口にすればそれがどんな災いの元となるかもわからない以上、口にするわけにはいかなかない。
ウィノアが戸惑ったのを察すると、ヨシュアは
「いや、申し訳ない。不躾な問いであったな」
そう言って自分から遮った。
「しかし、やはり伝説と言われるだけはある。あのような魔術は見た事が無かった。昔、魔術師殿から少し光と影について教えてもらった事があるが、いやはや、ここまでとは」
ヨシュアのその言葉に、ヴェナスがいち早く反応した。
「え、光と、影ですか?」
「ああ。光と影の根源となるエネルギーについてな。知っての通り、理はマナの変換によって生まれたエネルギーを更に変換し組み直す事によって魔術として扱う。しかし、光と影はそれに加えて『人の心』のようなものをエネルギーとするらしい。光は自分を信じる心、影は相手を信じる心、などと言っていたな」
「そうなの? 知らなかったわ……」
ソフィアが目を見張って言った。元々光に使える彼女が知らないということは、それが事実であるらばとんでもないことである。
「……信憑性はないが、興味深いな」
シュルクも興味を持ったのか、ヨシュアに視線を向ける。
「マナ?」
恭介は一人首をかしげた。
「ん、君はマナも知らないのか?」
「いやあ、ヨシュア様。恭介は……なんというか、この世界の人間じゃないんですよ」
ウィノアは何とも説明し辛そうに、苦笑いを浮かべながら言った。何も知らない人間に別世界からきたのだ、などといっても信じてもらえるわけもないと思いつつもそういうと、
「……なんと。そんなことがあり得るのか」
ヨシュアはすんなりとその言葉を受け取った。
「マスター、マナも知らないようじゃあ、この世界で生きていけませんよ。マナは魔術の基礎ですからね」
恭介の背から、ひょっこりとエリーがのぞいた。
「……なんだい、その子は」
「……ああ」
ヨシュアがまたも目を点にするのを見てウィノアはもう何と説明すればいいかと頭を抱えた。
「簡単に言うと精霊ですね」
ヴェナスが要約してヨシュアに伝える。
「精霊? ということは、彼は精霊術師なのか? そのように人型をしている使役霊は初めてみるが」
「いえ、簡単にそう判断することは彼に限っては無理です。なにせ、扱っている精霊が、『風の始祖精霊』ですから」
ヴェナスのその言葉に、エリーはえっへん、とでもいうように無い胸を張った。
「始祖……。あの伝説の?」
ふむ、とヨシュアは興味深げにエリーを見た。
「……なるほど、それは風の紋章か。詳しくはないが、魔国ベルードの国章の元になった紋章だな」
「ベルードの?」
ウィノアが驚いたかのように言う。
「うむ。理の四国の紋章はそれぞれ元となる紋章がある。それが始祖精霊の紋章だ。同時に、四国の王族にはそれぞれ『言葉』が受け継がれる」
「言葉? 何か暗号のようなものですか?」
恭介が言うと、ヨシュアはそうだ、と答えた。
「はじまりの言葉とされるものがニルヴァースの王家に伝わっていたそうでな。ソレをもとに四つの暗号があるのだ。それがそれぞれ理の四国に存在し、王家に伝わっている。……これは最早伝説としか言えないが、光と影の国にも何らかの言葉が伝わっていると聞いた事があるな」
「それって、どういう言葉な――」
聞こうとした瞬間、ウィノアが恭介の口を手で塞いで、バカ、と小さく呟いた。王家に伝わり、自分たちが聞いたこともない話ともなればそれは機密である可能性が高いのだ。ただでさえ王族と口をきいているというのに、それ以上はさすがに憚られるのが普通である。
「いや、答えよう。あのような場所から助け出してくれたのだ。それ位の事はさせてくれ。私が知っているのはアルマルに伝わる言葉だけだ。おそらく、兄もそれだけしか知るまい。言葉はこうだ。『龍の住まう永久凍土の奥地に眠り、最初の鎖を解く』」
「……何を意味するのでしょう。永久凍土とあるからにはリンテシアでしょうが」
ヴェナスが目を細めて言った。
「最初の重要な言葉はニルヴァースに伝わっていたのだ。今となっては知る術もない。父上が言うに、その最初の言葉と、各国に伝わる言葉が揃わなければ謎は解けず、また、解こうとしても解けるものではない、だそうだ」
「まあ、たしかに永久凍土なんかに入ったら謎なんか解く前に凍るわね」
ソフィアがどうでもよさげに手をふりながら言った。
「まあ、そうなんだがな。さ、まだリースティアには程遠い。魔術について君に少し話してやろう」
ヨシュアは恭介を見ながら少し楽しげに言った。
「いやいや、そんな事……」
「まあ、そう言うな」
恭介は慌てて遠慮するが、ヨシュアも譲る気はないらしかった。恭介の肩をがっちりと掴むと、無理やりにでも理解させてやる、と言うかのようにニヤリとヨシュアは笑った。
「私は元より何かを教えると言うのが好きでな。まあ、付き合え。久々に会話できるのが少々嬉しくてな」
どか、と、遠慮する恭介を無理やり目前に座らせるとヨシュアは説明を始めた。
「いいか、この世界の魔術とは全てマナを魔力に変換する事によって行う。マナとは、世界儒の生み出す『魔力素』を、自然界に存在する精霊が住んでいる場所や、特殊な力をもつ『場』、または魔術師の体内に備わる『魔力回路』を通して変換した物を言う。常に空気中にはマナは存在しているが、ソレは極微量だ。だから魔術師には『魔力回路』の有無が絶対条件になってくる。そしてだな、『魔力回路』の性能は大別して三種類ある。そして、その三種が重要だ――」
「……楽しそうね」
ソフィアが面白いものを観察しているかのように微笑みながら静かに呟いた。
「そりゃあ、数年ぶりに話せるのだもの。無理もないわ」
ウィノアも微笑んでいた。自分達の力で誰かを助けた、というのが嬉しいのだろう。
「ついでに恭介も色々わかって一石二鳥だしね――あ、そうだ」
ぽん、と手を叩くとウィノアはエリーに話しかけた。
「ね、さっきのヨシュア様の言った『最初の鎖』ってなんのことかわかる?」
「さあ……私自身、大部分の『記憶』が損失しているので。ただ……私的には『眠る』って言うのが気になりますね」
「……それもそうね。文脈的には眠っているのはエリーみたいな始祖精霊だと思うし……けどエリーはここにいるもんね」
そうなんですよ、とでも言うかのように小難しい顔をしてエリーは頷いた。
「まあ、私は風なんですが」
「それもそうね」
「……水の始祖精霊もあなたみたいなのかしら」
ソフィアが興味深げにエリーを見た。
「さあ……。少なくとも私とは違うでしょうね。私は風の精霊ですから、実体はありませんから。自由に変化できますので」
「でも水も流動的だしね」
ウィノアが言う。ソレを聞いてエリーは閃いた、とでも言うように笑顔で口を開いた。
「スライムっぽいんでしょうかね」
「……なんかそれは嫌だなー」
ウィノアが苦い顔をすると、横からシュルクが、待て、と手を突き出した。
「水の始祖精霊なら氷ベースの姿をしているに決まっている」
「何故です?」
エリーがそう尋ねると、シュルクは真顔で言った。
「カッコいいからな、氷」
「……まともに口きいてきたと思ったらソレなの?」
ソフィアが呆れたように言った。
リースティアの街には最早外に人影が無かった。先ほどまで大量にうろついていた騎士の姿も完全に消え、商人の姿すらもない。民家の扉は閉じられ、まさにゴーストタウンと化していた。その街を、少女がまるで鳥のように尖塔から見下ろしている。
その手に握るは刀ではなく弓。刀を変化させたこの弓は彼女の『天使』としての武器である。その名も『無明』。何もせずとも、その弓は血のような液体を垂れ流し、紅く鮮血色に染まっている。矢は彼女自身の魔力によって生成される。即ち、この弓から放たれる一撃はそれそのものが魔術なのである。
「相変わらずの無表情ね」
「……アシェディア」
いつのまにか、自らの後方に浮いていた天使に、ナオは目を向けた。
「ルクスリア、予定が変わったわ」
ナオがルクスリア、という言葉に目を細めたが、アシェディアは構わず続ける。
「貴女の任務は終了よ。もうアレを守る必要はない。丁度鍵もこっちに向かっている事だし、解放させないさい」
「……何故?」
キッ、とした目をナオはアシェディアに向ける。それを見て、アシェディアは目をそむけながら茶色のセミロングを片手で掻きあげた。
「別に私の判断じゃないわよ。……わかってるんでしょ」
「――」
「何? あなた、肩入れしてるの? 人形のくせに、そんなつまらない感情は持っているのね」
「……わかった」
くる、とナオはアシェディアにそれだけ言うと、背を向けた。
「それでいいのよ。いい? 解放させたら戻ってきなさい」
「うん」
言いつつ、ナオは手に持つ弓を天に向ける。その動作を見てアシェディアは、何か恐ろしいものを見るかのような表情をした。
「あなた、何考えてるの!?」
「余り離れないで。殺しちゃったら怒られるから」
ナオは無感情な目をアシェディアに向ける。アシェディアには恭介達と対峙した時の余裕は存在していなかった。ただ、ナオが何をするのか怖がっているように見える。
すう、とナオは軽く息を吸い込む。と、同時に彼女の指先に一本の紅い矢が出来上がった。それを自らの弓にかける。
「……『雷奔』」
空に向けて一本の紅い光が放たれる。それは余りにも不自然な光景を周囲にもたらした。光の大きさは普通の矢と何ら変わりない。その光が空に浮かぶ白い雲に穴を穿ち、空気を振動させる。まるで水の波紋のように衝撃波がリースティアの街に広がった。
「……これは」
アシェディアが空を見上げる。そこにあるのは空などではない。まるで夜が来たかと見間違えるほどに黒い、異質な雷雲。先ほどまでの白い雲は、最早目に見える場所には存在していない。
すっと、ナオが右手を天に掲げる。それに応えるかのように雷雲が激しく放電を始めた。
「『――疾駆』」
呪文を唱え、右手を振りおろした。特有の稲光があたり一帯を包みこみ、目まぐるしい間隔で轟音が鳴り響く。信じられない早さで連続した雷があたり一面に落ちているのだ。
これぞ、『神災級魔術師』たる所以。魔術一つ一つが天災を越える、神が災いをもたらしたとしか思えない規模の損壊をもたらす。
眼にもとまらぬ速度で地面を穿ち、木を引き裂き、燃やし、街の外を雷が疾走する。
「……なにを」
アシェディアが顔を腕で庇いながらナオに言った。
「あまり近付かれると困るから」
平然とした――、否、無表情そのままでナオは言った。
アシェディアが、ようやく静まった周りを見渡すと、街を取り囲むように落雷の跡が見えた。
「牽制ってこと……? 末恐ろしい子ね。私は戻るわよ、アンタにできるだけ関わりたくなんか無いんだから」
そう言って顔をゆがめると、そのまま姿を消した。
そんなことも気にも留めていないのか、やはり表情は変わらない。しかし、少し驚きを含んだ表情で先ほどアシェディアのいた方角を見た。
「……何?」
「天変地異というやつか。地下から出てきてそうそう、ここまで天気が悪くなっているとは思わなかった」
ふう、とため息をしながらエリオは言った。
「そうだな、これがテンペンチイってやつか、ほうほう」
「知らないんなら無理に言う必要ないわよ馬鹿。っていうか、天変地異にしてもさっきのはおかしくない? ほら、もう空晴れてきてるし」
「――何を言ってるリリーナ。おかしいから天変地異なんだろう」
「……あ、いや……そうなんだけどさ。考えても見てよ、街の周りにあんなに密集して落雷するのって異常じゃない? それに、地下に入るまで普通の雲だったわよ? それが出てきていきなりなんて……」
「だから何を言っているリリーナ。異常だから、天変地異なんだろう」
「いや、ああ、そうなんだけど……私が言いたいのは」
「なあ、アレって魔術じ――ガッ」
瞬間、勢いよくリリーナがアナベルの足先を踏みつけたのだ。
「さっきのって魔術じゃないの?」
「お……ま」
リリーナがジト~、とした目でアナベルを見た。
横でそんな些細な虐待が起こっている事も気に留めず、エリオはふむ、と言うように考え込んだ。
ここにウィノアかヴェナスがいれば、ソレが魔術かどうかを判断するのは容易であるが、この三人にはソレを判断する事が出来ない。
魔術により発生するマナを広域で感じ取れるのはある程度の実力と資質ある魔術師だけなのである。少なくともこの三人には『魔術師』としてはそこまでの資質が無いのだ。
「と、するとさっきのは、ヤツか」
「ええ、この街で雷を操るのは一人くらいしかない。つまり、さっきのは――」
「……まさか」
足先を抱えて丸まっていたアナベルが目の色を変えて飛び起きた。
「街の外に急ぎましょう!」
リリーナが走り出す。それに二人も続いた。
「レジスタンスのやつら、黒焦げになっていないといんだが」
エリオが走りつつ釈然と言った。
「でも奇妙だな、アレだけ落ちたのにこの辺りには落ちた様子が無い」
「……もしかして、人のいる場所を避けたのかしら」
「だとすると、さっきの魔術の意味がわからねーぞ」
それもそうね、とリリーナが言ったところで三人は門を抜けた。ある程度見慣れた光景ではあるが、今やその目の前の風景が全く同一のモノと認識する事が出来ない。
「なんだこりゃあ」
思わずアナベルが声を漏らした。まるで月面のようにボコボコとあちこちに大小様々のくぼみが出来ており、所々で木が燃え盛っていた。
「悪い冗談だな、これは。とても魔術によるものとは思えない」
「ええ――これはもう、落雷っていう自然災害の域を越えてるわね」
「――いや、でもおかしいぞ」
アナベルはそういうと、周りを見渡す。
「この落雷、やっぱり人のいない場所を狙ったんだ」
「なんでよ? アンタさっき反論したばっかりじゃない」
「あれ、見てみな」
アナベルが少し遠くの森を指差した。リリーナもそこを見てみる。
「あ……」
「な?」
そうアナベルが自慢げな顔で言った――瞬間。アナベルは足先をまたも抱えて丸くなっていた。
「私とあなたを一緒にしないで。私に何百メートル先のモノがはっきり見とれるような視力はないのよ! 点よ点! 見えるかッ!」
「だからって……」
足先を抱え込むアナベルを除く二人は森に目をやる。
「で、何なの、アレ」
「僅かに見えはするが……人なのか?」
エリオが言う。すると、アナベルは涙目になりながら頷いた。
「……ああ、多分レジスタンスだ。で、あいつ等の手前、両際、後方、四方向ギリギリに落雷で大穴があいてる」
「……それって」
「ああ、ここだけかもしれんが、わざと外したとしか思えない。牽制だ」
ふむ、とエリオが顎をなでた。
「とすると、ナオには戦闘の意志が無いのか」
「でも、出しゃばりすぎたら感電死……ってとこだな」
アナベルが言いつつ、自嘲気味に笑った。
「入ってみるしかない、かな」
リリーナが言う。それにエリオも頷いた。
「入ってみるって……下手したら感電死だぞ」
「あら、珍しく慎重意見なのね」
「馬鹿言え、お前も来るって言うんだろ。危ないぞ」
「え……、な、何て?」
「……だから、何かあったら危ないだろ」
顔を逸らしながらもアナベルはそう言った。普段から喧嘩がデフォルトであるこの二人にとって、心配する言葉などは慣れないものだったのである。
「心配するな、アナベル」
エリオがさらりと言う。
「そう言ってもよ。リリーナだって女……」
「彼女はお前よりは強い」
「な、な……」
「あー……ちょっとエリオ、それ地雷……」
「うむ、わかってはいたが」
そう言いつつも、エリオは少し楽しそうに笑った。
「確信犯ね」
「現実は往々にして厳しいものだ。男のほうが女より強いとは限らんさ」
「ほら、行くよアナベル。守ってあげるから!」
「……」
リリーナは凍結したアナベルの襟首を掴むと、ずるずると引きずって王城に向かった。
街の外で異常な落雷があったにもかかわらず、落ち着いている者がナオを除いてこの街にたった一人だけいた。カルカロフである。
「ナオか」
街の外に立ち上る黒煙を大きな窓から見て、そう呟いた。カルカロフには外で何があったのか、一目見るだけで読みとることができた。そして、少し感慨深そうに眼を細める。
その時、彼の背後の空間が、僅かにぶれた。
「どうですか、ルクスリアは。役に立っていますか」
人とは到底思えぬ、異質な存在感――。
「貴様――!」
カルカロフはいつの間にか自分の背後にいた、その人間ともつかないソレを見据えた。
「どうも、カルカロフ様。お久しぶりでございます」
「よく言う、私をこうしたのはあなただと言うのに、魔術師殿……」
「何を仰いますか。あなたは言ったでしょう、力が欲しいと。それがあなたの願いだったはず。あなたの理想をかなえるには途轍もない力が必要だ。なにしろ、全てを助けなければならないのですからね」
黒衣に包まれ、顔すらろくに見えぬソレはそう言った。
「ぬ……」
「それなのに、あなたはその力を飲む事が出来なかった。どうですか、私はあなたにはどう映っているのです? 理性で、私の声を何とか判別しているのでしょう? あなたの眼に映る私は、私の声は、あなたにはどう錯覚されているのですか?」
朗々と響く声。それは、静かながら、どんどんと人の精神を追い詰める魔性に満ちた声だった。
「ぐぅぅ……あああぁあぁッ」
「ははは、そうですね、その力に飲み込まれるのも一興です。さあ、あなたの弟様……ヨシュア様がもうそろそろここに来ますよ。ヨシュア様にはルクスリアも手を出せません……。あなた自身が、どうにかしなさい」
「ヨシュア……が」
「そうです。あなたを殺しに来るのです。仕方がないでしょうね、何年あの寒く、何もない土地に幽閉したと思っているのですか」
「……仕方、無かった。あのままでは、私は!」
カルカロフは頭を抱えて叫ぶが、黒衣に包まれたソレはさらに言葉を続ける。
「そのような事ヨシュア様がお知りになるはずがございません。なにより、幽閉したのは事実ですし、元は言えばその力を使いこなせぬ貴方様に問題があるのです」
「ああああぁぁあああ……」
「はははは、どうですか、この狂った世界は。地獄でしょうね、でもご安心ください。それがあなたの力になる。あなたが、他人を、自分を、信じられなければられないほど、その力はあなたの力となりましょう」
言いつつ、黒衣のソレは太い、醜悪な右腕をカルカロフに伸ばす。その手が頭を抱え、小刻みに震える彼に届こうとした瞬間、閃光のような速さで斬撃が孤の軌跡を描いた。
「おや、ルクスリアではないですか。どういうつもりですか」
黒衣のソレはその場を飛びのきながら言う。
「守護の任務は、今日一日は残っている」
ナオはそう短く、吐き捨てるように言った。
「……成程、それも道理。確かに、撤回出来るのは明日からですね。わかりました。ここは私が退散しましょう……。何、それはもう、手遅れです」
闇に溶ける様に、そのまま消え去る。その様子は、不気味さすら感じる嫌なものだった。
ソレを見届けると、ナオは慌てたようにカルカロフに駆け寄った。ガタガタと震える肩にナオは手をかける。
「カルカロフ様……」
「な、ナオか……私は……」
未だ、目の焦点が定まらないカルカロフを前に、ナオはただ、その姿を見つめる。
「ああ、よかった。私の眼にも、お前だけはお前のまま映る。この、狂った、狂気に満ちた世界の中でも、お前は常に、お前のままだ……。姿も、声も……」
「……」
「ああ、何か言ってくれ、ナオ。お前がいなければ私はとうに狂っていた。だが、それもここまでのようだ……。私の中にあるこの力は、最早私だけでは抑えきれぬ。ヨシュアを目にすれば最後、私自身の本来の自我は完璧に消え去るだろう。そうなれば、お前にも……ナオにも、何をするかわからぬ。いいか、ナ――」
ふわ、と、暗闇に白い髪の毛が舞った。
「――ごめんなさい」
ぎゅっと、ナオはカルカロフを優しく抱きしめる。
「……何を、謝るのだ。私は、お前がいたから、ここまで生きられたというのに」
「救えないなら、せめて守りたかった。でも、私にはそれすらも叶わない……。私は、あなたに、あなた達に、大切なものをたくさん、たくさん学んだというのに」
ツー、と、ナオの陶磁器のような肌を涙がなぞる。ソレをカルカロフは指で拭った。
「……ナオ。それが、感情なんだ」
「あ……」
ナオが自分の頬に手をやる。驚いたように、目を見開いた。
「お前の本来の姿を取り戻せ……。お前は、作られた天使なんかじゃあ、無い」
「……カルカロフ様」
「うぅ……」
どくん、と、脈打つようにカルカロフの体が痙攣する。
「あ……ッくう……」
ナオはただ、だんだんと人ならざるモノに変質していくカルカロフの体を、優しく抱きしめた。
「私を、殺すんだ、ナオ」
段々と薄れていく意識の中、カルカロフはそう言った。
「……私に、あなたは殺せません」
すると、カルカロフは目を細め、ナオの頬をなでる。
「……なら、ナオ。もう行くんだ。そして、私に、引導を渡す者を連れてこい。ヨシュアを、弟を脱出させたものなら、あるいは――」
「……でも」
躊躇うナオを、カルカロフは肩を押す。
「いいか、ナオ」
もう、ほとんど動かなくなったはずの手を動かし、カルカロフはナオの頭を優しくなでる。
「私は、ここで終わりだ。だが、お前の人生はまだ続く。自分を取り戻せ。お前の本当の姿、本当の居場所は、ここでは――ぐぁぁぁああああ!!!!!!」
ドン、と、瞬間的にナオを撥ね退ける。
「はやく、行け!」
「……ッ」
カルカロフが怒鳴ると、ナオはその場から、躊躇いながらも消え去った。それと同時に、カルカロフの背中に闇の様な翼が現れる。そこだけ、まるで光を吸収しているかのように真っ黒で、まるで穴があいているかのよう。
「ああぁぁぁッッ!!!」
その姿は、どんどんと人の形を失っていく。機械のような、異質な姿。巷でロアと称された巨大な天使のような姿に――。
この章には現時点で「不明」なものが多く存在するので多少読みづらいです。しかし、それがどんなものなのか予想しながら読んでくだされば嬉しいです。