第8話
アリカの造形は、桁違いに美しいものだった。
長い黒髪が風に流れ、優しげな瞳を湛えている。
揺れる黒いワンピースから、白い手足が伸びていた。
暴風に立ち向かうように左足を前に出し、右手を掲げている様子は、見ている者の感情を否応なく揺り動かした。
心の奥底を鈍器で殴られるような感動を覚えてしまう。
真理栖ですら、心に何の影響もなかったと言えば嘘になるだろう。
彼女が目を細めて言う。
「あー、これは……もう魂が入っちゃってますね。手間が省けましたー」
「魂って?」
素也が聞くと、彼女は視線をフィギュアに固定したままで答える。
「私たち悪魔が人形を人間に変質させるときは、魂を入れたりするんですよー。その魂は大抵、自分の魂を劣化コピーしたものだったりするんですけどね。そこら辺に漂ってる魂を圧縮して使うのは二流のやることですー」
「お前の劣化コピー?」
「ああ、心配しなくても、アリカさんには既に魂入ってますから大丈夫ですよー。悪いものではないのでこのまま行っちゃいますねー」
「いやいや、それ怖くないか?」
「ま、話してみればわかりますよー」
困惑顔をする素也に言いながら、真理栖は空中で印をなぞった。
彼女は右手の親指を糸切り歯で噛み、印の中心に赤い血を押し付ける。
すると、空気が一変した。
重く、水中にいるような息苦しさの中、太陽を見つめたような眩しさを網膜で感じる素也だった。
「――――うわっ!」
目を閉じているのに、眩しさで何も見えない。
何が起こったのかわからないまま、光は視界の中心に向かって収束した。
周囲の背景に色が戻ってくる。
ようやく元通りの視界が戻ってきた。
さっきと違うのは、黒髪の、黒いワンピースを着た人間の女性が、床の上に座っていることだ。
人形のときとは違う、生きた肌をしていた。
彼女が、素也を見て、微笑んだ。
「初めまして……というのも変ですね。話せて嬉しいです、素也」
「あ、あ、あ、あ、あ?」
壊れたスピーカーのように同じ単語を繰り返し、首を曲げて真理栖を見た。
彼女が首を傾げている。
「何ですかー?」
「ちょっと来い」
素也は彼女の襟首を後ろから掴み、引き摺るようにして部屋の外に出た。
そこで何かを思い出したように、扉から部屋の中に顔を出し、座っているアリカに笑顔で言う。
「えっと、すまん。心の準備が欲しいんで、待っててくれ」
「はい」
アリカが笑顔で応対した。
彼は照れながら、部屋のドアを閉めた。
廊下に立つ真理栖の両肩を持ち、前後に揺さぶった。
「おい、これは幻覚か? 俺は騙されてるのか?」
「うおぉぉぅおう、お、落ち、ついて、くださいー」
「……あ、悪い」
素也は揺さぶるのを止めた。深刻な顔で言う。
「俺、どうしたらいいんだ?」
「好きにすればいいじゃないですかー。そこまで私は知りませんよー」
「いや、話が出来たらいいな、と思ってただけで、何を話すかはさっぱり考えてなかったんだよ。あ、今の俺の顔、怖くないか?」
「気にしなくても、普段通りに凶悪顔ですよー」
ふふふ、と笑った真理栖が、悪戯をするように言った。
「よっぽど大切なんですねー。こうなると、アリカさんを一目で気に入った理由が、是非とも知りたいですー」
「……え? 俺、お前にそんなこと話したか?」
素也は記憶を探ったが、アリカとの出会いを口にしたことは無かった。
彼が難しい顔をしていると、真理栖がスカートのポケットからプラスチックの細長い箱を取り出した。
それは放課後に、彼女が隠そうとしていたものだった。
「魔法の棒ですー。音声が録音できるのですー」
「何だそれ。ただのICレコーダーだろ。……何がしたいんだ?」
「聞けばわかりますー」
そう言って、真理栖は再生ボタンを押した。
ホワイトノイズの後に、会話らしき音声が流れ始めた。
「えー、それでは、匿名の情報提供者に話を聞かせて貰おうと思います。あなたは門浪素也さんの秘密を知っているそうですねー」
「そうだけど、素也には秘密だからな。声も直しといてくれよ?」
「はいー、わかりました。……多分ー」
「何か言った?」
「いえ何もー。それじゃ、義経さん答えてくださいー」
「うわおっ! 今、名前言った? それ匿名じゃないよね!」
「すいません間違えましたー。特殊な技術で隠しますので安心してくださいー」
「頼むよ、ホントに」
「では気を取り直してー、義経○んこ耐えてくださいー」
「隠れてない、大事なところが隠れてないぞ! ある意味では隠れてるけどな! 特殊な技術の所為で、話してる言葉は変わってないのに内容が凄く変わってる気がする!」
「耐えてくださいー」
「確信犯か! 確信犯だな!」
「もー、うるさいですね。謝礼は必要ないのですか?」
「えっと、それはその……」
「素直に言っちゃえば悩まなくて済みますよー」
「そうかな。うん……そうだな」
「あなたが馬鹿で、私はとてもやりやすいですー」
「へ? 何?」
「何でもないですよー。ではどうぞ」
「……あぁ、うん。あれは、僕が素也と親しくなった頃だったかな。嫌がる素也を誘って、ショップに行ったんだ。顔の所為で外に出たがらない素也を連れ出すのは苦労したよ」
「ショップ、とは何ですかー」
「ああ、職人が趣味で作った一品物とか置いてある、玩具のコレクターズショップだよ。僕はホビーの素晴らしさを教えてやろうと思って、とっておきの店を紹介したんだ」
「それは本当にありがた迷惑だったでしょうねー」
「……迷惑? まあいいや。とにかく、その店に飾られてある一品物のフィギュアがかなりの造形品でさ。愛好家も唸る精巧な出来栄えなんだ。当然のように非売品だったんだ」
「それが、アリカさんだったんですかー」
「そうだよ。釘貫アリカっていうフィギュアだったんだけど、版権物じゃないオリジナルだったね」
「版権? オリジナル?」
「アニメや小説のキャラクターを使ってないフィギュアってこと。オリジナルはあんまり日本じゃ流行らないんだけど、やっぱりアリカは別格だったよ。素也が目の色を変えて見つめてたもんな」
「目の色を変えて? ふむん」
「ま、その後、素也が店長と交渉して、大切にするって約束する代わりに譲って貰ったんだよ。非売品だからって理由で無料だったんだぜ? 僕には信じられなかったね」
「ほおー、そういうこともあるもんですねー。……ちょっと聞きたいのですが、素也さんがアリカさんにのめり込み始めたことに疑問を感じるのですけどー」
「何で? 素也がフィギュア愛の何たるかを理解したんじゃないの? 好きって感情に理由を求めたら、そこに愛は無いよ。それは恋だ。恋は下心、愛は真心って言うだろ? 僕は純粋に、ホビー好きが増えて嬉しかったよ。これで素也がモデルガンも好きになってくれれば、願ったり叶ったりなんだけどさ」
「あー、もういいですー、あなたの趣味に興味はありませんのでー。ありがとうございましたー」
「え、ちょっと、謝礼の脱ぎ――――」
そこで、ICレコーダーの音声が途切れた。
冷静になった素也が睨むような目つきをして、照れ笑いする真理栖を見る。
「とりあえず俺を売りやがった義経には相応の罰を与えるとして、謝礼の脱ぎ、って何だ?」
「脱ぎたての靴下ですけどー」
「超が付くくらいの俗物だな、あいつ。付き合い方を考えたくなってきた」
「それを否定する材料は何処にも見当たりませんねー」
腕を組んで頷く彼女は、素也の肩に身を寄せてきた。
内緒話でもするような小声で語りかけてくる。
「ところで疑問なのですがー、どうして素也さんはアリカさんを手に入れようとしたんですか?」
「…………なんとなく、声が。いや」
彼は言いよどみ、頭を振った。
「こういうことを言うのもどうかと思うな……」
「細かいこと気にしちゃ駄目ですよー、そんなことしてたら私たちは生きていけませんからねー」
「まあ、いいか」
喉の調子を整えて、素也は小声で言った。
「――――アリカから、声が聞こえたんだ」
「声ですかー?」
「ああ、それでよくアリカのことを観察したら、寂しそうに見えたんだよ。そんときは、俺も寂しかったから、そう思えただけかもしれないけどな。この顔が原因で、ちょっと人間嫌いになってた時期だったんだ。もちろん、義経とは友達になれて良かったけど、すべての人間が義経みたいに仲良くしてくれるわけでもなかったしな」
「何かこのひと、凄く騙し易そうな気がしてきましたー」
「うるせぇよ。ま、そういうことだ。……って、ちょっと聞きたいんだが、人形も寂しがったりするのか?」
「そうですねー」
真理栖が腕を組んで、眉根を寄せた。
「場合によりますー。もちろん、人形が単体で意思を持つことはありませんね。殆どは人間の思い込みです。ヒトの形をしてるから、そう思いたいだけであって、感傷にすぎませんよー」
ですが、と言葉を残し、彼女は言った。
「魂が入った人形は別ですねー。呪術的な素養のある彫刻家が、自分の魂を作品に分け与えた例もありますし。他にも、大勢の人間が願うことによって、意識の集合体が魂の形になって人形に入ったりします。そんな人形は、見る者に影響を与えることはあるでしょう。まあ、アリカさんもその類だと思いますけどねー」
「そうなのかも、な。……出会ったときのこと思い出したら、何か落ち着いてきた」
素也は深呼吸をして、自分の部屋に入ろうとする。
ドアを開いてから、廊下に立つ真理栖に言った。
「事情を全部、アリカに話してもいいか?」
「その必要は無いと思いますよー。だって、ずっとこの部屋にいましたから、話はすべて聞いてるはずですー」
「へえ、そんなもんか」
「当然、素也さんが誰もいないと思って自室でやってたこともー、知られてるってことですよー」
「…………やましいことは、してないと思う」
「そうだといいですねー」
彼女は笑みを湛えて、彼の背後について部屋に入った。
素也は強化ガラス製の座卓について胡坐をかき、真理栖も空いている所に座った。
最初から座っていたアリカは、座卓に身を寄せた。
素也は咳払いをしてから言う。
「あ、おほん。……挨拶が遅れたな。自己紹介とか、そんなのは必要か?」
「いいえ、必要ありませんよ。だって私は、ずっと素也といましたから。ある程度の事情は把握しております」
「え、そ、そうなのか? それじゃ、ソロモン戦争のことも?」
「ええ、存じています。この身でどれだけのことができるかわかりませんが、力の限り尽くさせていただきたく思います」
アリカが座卓から離れ、三つ指をついて頭を下げた。
慌てた素也はそれを止めさせようと、腰を浮かせた。
「いや、そんなことしなくてもいいから。俺がアリカと話をしたかっただけで、勝手なことしたのは俺の方なんだ」
「ほー、私のときと態度が段違いですなー」
真理栖が腕を組んで、横目で彼を見ていた。
「すまん、少しの間だけ黙っててくれ」
「はーい」
彼女は不服そうに了承すると、座卓から離れてテレビに近づいた。
床においてあるゲーム機を触り始めたので、素也は放っておくことにした。
そして彼がアリカに向き直ると、彼女は頭を上げて、少し悲しげに微笑んでいた。
「私では、力になれませんか?」
「あ……いや、そういうことじゃない。何ていうか、俺がアリカに傷ついて欲しくない、っていうか……」
「ですが、私はソロモンの指輪を収集するための道具で――――」
言葉の途中で、素也が叫ぶように言った。
「違う! 俺にとってアリカは……その、大切なんだ。それで、自分勝手な話だけど、礼を言いたい」
「お礼……ですか」
アリカが首を傾げる。
彼は頷いた。
「俺が初めてアリカを見たとき、声が聞こえた気がしたんだ。最初は空耳かと思ったけど、そうじゃなかった。天からのお告げでもなかった。だって、その言葉は――――」
今度はアリカが素也の声を遮るようにして言った。
どこか懐かしむような表情だった。
『――――私を愛してください』
「……そうだ。神様は自分を愛してくれ何て言わないだろ? だから、目の前の人形から聞こえてきたと思ったんだ。不思議と怖くは無かったけど、寂しくなったよ」
苦笑いを浮かべた素也が、少し俯いて、再びアリカを見た。
「俺は誰かに好きになって貰いたかったのに、人形にすら同じような言葉を返されたんだからな。でも、わかったんだ。俺だけじゃなくて、誰もが自分を愛して欲しいって思ってることに気付いたんだよ」
口を真一文字に結んだ彼は、思い切ったように言った。
「だから俺は、これまで苦しくても耐えられた。みんな誰かに愛してもらいたくて頑張ってるのに、俺だけ弱音を吐くのは格好悪いからな。……頑張れたのはアリカのお陰だ。ありがとう、恩に着る」
素也は胡坐を掻いている両膝に手を置き、頭突きで瓦を叩き割る勢いで頭を下げた。
それを見て、アリカが柔らかく笑った。
「では、私もお礼を申し上げなければいけませんね。私を手元に置いてくださって、ありがとうございます」
彼女が深々と頭を下げた。
同時に二人が頭を上げると、視線を合わせて互いに照れ笑いを浮かべた。
片方は陰謀を企む悪の大首領がごとき嘲笑で、もう片方は、慈愛が溢れ出るような華やかさだった。
「なあ、オブザーバー」
素也が視線を動かし、ゲームをしている真理栖に声を掛ける。
彼女は天使のようなキャラクターを操り、悪魔を倒していた。
ちょうどキリの良いところで一時停止させてから、こちらを向く。
「意見はできますけど決定権のない私に何か御用ですかー」
「夢の力なんか使わなくても、指輪を持ってる奴を殴り倒して気絶させれば、指輪は奪えるんだよな」
「……ええ、まあ、ルール上の問題はありませんけどー。本気ですか?」
「当たり前だろ。俺はアリカと会話するっていう夢を叶えてもらっただけで、戦いに参加させるためじゃない。アリカは道具じゃないんだ」
「はあー。もう何を言っても無駄みたいですから、私は口を出しませんよー」
「なら問題は無いだろ」
半ばヤケクソのように言う素也だった。
そこで鈴の音が鳴るような、アリカの言葉が響いた。
「あの、素也? 一般の学生を殴り倒して気絶させるのは、社会的に問題があるような気がするのですが……」
「……そうだった。相手はそこら辺の不良じゃないんだったな」
悪人面をさらに凶悪にして悩む彼は、今更のように呟くのだった。
そんなとき、素也の携帯電話が鳴った。
無味乾燥にも思える初期設定の電子音が、三人の会話を中止させた。
「あ、悪い」
彼は、家族を含む数名しか電話帳に登録されていない携帯電話をポケットから取り出した。
どうせ義経だろう、と着信名を確認せずに、通話ボタンを押して部屋から出る。
「もしもし」
「……どうも。こんばんわ、で、いいのかしらね」
知らない女性の声だった。
声色から察するに、成人女性の深みがあった。
貫禄のような威圧感が見え隠れしている。
素也は眉間に皺を寄せて言った。
「間違い電話じゃないか?」
「あなたが門浪素也でなかったら、そうなるわね」
得体の知れない人間に自分の素性を知られている気味悪さを感じながら、彼は携帯のディスプレイを確かめた。
非通知ではなく、しっかりと番号が記されている。
しかし、知っている番号でも無かった。
再び質問を返す。
「俺に何の用だ」
「見てもらいたいことがあるのよ。明日の放課後、氷間高校の屋上に来て欲しいわ。……ふふ、ちゃんと人払いは済ませておいてね」
「は、いや、ちょっと。お前誰だよ」
「誰でもいいじゃない。……言い忘れていたけど、一人で屋上に来てね。間違っても、安藤真理栖と釘貫アリカは連れてこないように」
そこまで言われて、素也は電話の相手に見当がついた。
「……お前、悪魔だな」
「そうだとしても、あなたの置かれた立場は変わらないわ。私に逆らえば、学校の生徒を殺すわよ。この事を周囲に漏らしても、同じことをするわ。じゃあね」
途端、通話が切られた。
耳に携帯電話を当てたまま、しばらく呆然と立っていた。
自室のドアが開いて、不思議そうな顔をした真理栖が出てきた。
「どうしたんですかー」
「……いや、別に」
彼は何も言わず、とにかく自分の心を落ち着けようとしたのだった。