第7話
素也は、日が暮れる前に家へ帰ることができた。
鍵を開けて玄関に入り、とりあえず真理栖を和室の客間に通しておいた。
その間に彼は自室へ戻り、アリカに、ただいま、と挨拶してから制服から私服に着替えた。
そしてアリカの声を聞くこともなく、台所に下りて日本茶と茶菓子の準備をしてから客間に行った。
襖を開けると、そこでは真理栖が綺麗な姿勢で正座をしているのが見えた。
背の低い長机の上に、彼女の分の日本茶と和菓子を置いた。素也は真理栖と対面するように、長机の反対側で胡坐を掻いた。
湯気の立つ日本茶を一口飲んでから喋り始める。
「で、使役って何だ?」
「まあー、相互協力関係と言ったところですかね。私が身体を使って奉仕する代わりに、私の衣食住を確保してもらうという、まさに丁稚奉公ですー」
「断る」
「……すごいんですよー?」
「真面目に話す気は無いのかおのれは。それで結局、お前は俺に何をさせたいんだ?」
「いきなりですねー」
「お前の無駄な話に付き合わされるのは、いい加減、面倒なんだよ」
「そうですかー。……ところで、この正座というものはいつまでやってればよいのですかー?」
明らかに足が痺れている様子の真理栖だった。それでも我慢して正座をしているところを見ると、礼儀を重んじているか、日本文化を勘違いしているかのどちらかだろう。
もちろん、素也としては後者としか捉えようがなかったが。
「いや、無理して正座しなくても怒らねぇよ。足を崩せばいいだろうが」
「う……かたじけないです」
彼女は正座を崩し、座布団の上に乙女座りをした。
白い靴下に包まれた自分の足を指で突き、ピリピリしますねー、と半分面白がっているようだった。
「話を戻していいか?」
「ええ、私が素也さんにさせたいことでしたねー。つまり、私の目的、というわけですがー」
素也が黙って頷く。彼女はゆっくりと喋り始めた。
「先に結論を言いますとー、ソロモンの指輪を破壊する、ってことですかねー」
「それは、指輪を完成させなきゃならない、ってことか」
「無いものは壊せないですからー」
「じゃあ、ソロモンの指輪を使って、悪魔を支配するつもりは無いのか」
「まあ、特に今の生活に不都合を感じていませんしー。私はただ、パシリにされるのが嫌なだけです。……上司には内緒ですよー?」
彼女が顔の前で人差し指を立てる。
素也は肩を竦めた。
「俺はお前の上司と面識ないから心配するな。って、上司とかいるのか?」
「いますよー。悪魔も割と縦社会ですからー」
「……そうなのか」
「そうですよー。他に聞きたいことはありますかー」
「うーん、それじゃ、この指輪争奪戦か?」
「ソロモン戦争と言われてますけどねー」
「ならそれでいいや。そのソロモン戦争ってどういう理屈で動いてるんだ?」
「はあー。とりあえず、悪魔が人間と誓約をして、人間同士が戦うことまでは説明しましたねー」
「ああ、悪魔同士は本気で戦わない、っていうこともな。……ところで、勝敗はどうやって決めるんだ?」
最低限、勝利条件くらいは聞いておきたい素也だった。
真理栖が上を見ながら言う。
「相手側の人間から指輪を奪えば勝ちですかねー。負けを認めた人間が指輪を差し出すか、気絶した人間から取るかすればいいのです。指輪同士を触れさせれば、勝者の方に吸い取られます。微妙な勝敗は、裁定者の三科恵瑠が決めるでしょうー。あの女は、ほぼインチキくさいほど万能なので、その場にいなくても結果は把握してるはずですよー」
「ほう。それじゃ、誰かと戦って負ければ、俺が死ななくても指輪は外れるわけだな?」
「……まー、そうですけど。そうならないために私がいるのです。仕方なく負けるなら諦めもつきますが、わざと負けたら相応の罰は受けてもらいます。それに、素也さんがアリカさんと会話できるのは、これが最初で最後の機会ですよー」
素也と真理栖の視線が衝突し、お互いに睨み合った。
しばらくの間、無言で視線の応酬を交わしていたが、結局は無駄な時間を過していることに気付いた二人だった。
頭を掻きながら、素也が言う。
「で、その戦いってのは、強い人間ほど良いってわけか」
「そこも微妙な話ではあるんですけどねー。人間がいくら強くても、人間の欲望、すなわち夢を具現化するのは悪魔自身の力ですから、正味な話、それだけで相当な実力差はありますー」
「へぇ」
「ですがー、人間の夢にも戦いに向く性質や、そうでないものもあるでしょう? 要するに、悪魔の実力と人間の夢の相性が良くないと、どちらかが強くても勝負には勝てない、ってことですね。……平等そうに見えて実はギャンブル要素満載なあの女好みのルールです。そこは悪魔が吟味して人間をスカウトすることで、不平を少しでも減らすことが出来るはずですけどー」
真理栖はチラリ、と横目で素也を見た。
「まあー、こういうこともありますねー」
「俺も後悔してるから、いまさら口に出さなくてもいいだろ」
「えー、私は後悔してませんよ。悪魔にもそれぞれの好みがありましてー」
「……え?」
素也は驚いた――――。
「まさか素也さんみたいな変人に出会えるとは思っていませんでしたからー」
――――少しでも好意などというものを想像してしまった自分に。
「あれー、どうかしました?」
「何でもねぇよ」
「そうですかー、あ、大福餅美味しそうですね、いただきますー」
長机の上に置かれていた餅に、はむり、とかぶりつき、口の周りを餅とり粉で白くさせた。
三口で大福餅を平らげると、年寄りのように日本茶を啜る。
「はあー、心が和みますー」
「和んでどうすんだよ。……ところで、ソロモン戦争に負けた悪魔と人間はどうなるんだ」
「これといった罰則はありませんよー。やることなくなった悪魔は三科恵瑠に地獄へ送還させられますしね。人間の方は、まあ、ソロモン戦争の記憶をごっそり持っていくので、少し馬鹿になってもらいます。一時的とはいえ夢を叶えられるので、リスクと思えば納得してもらえるかとー」
「そうだな。それくらいのリスクはあっても不思議じゃない。…………ふぅん」
眉を顰めた素也は、焼き物の湯飲みを見つめていた。聞いた情報を整理して考えてみるに、どうにも腑に落ちない。何かが足りない気がして仕方が無かった。
「まだ悩んでいるのですかー」
真理栖が微笑む。
素也の顔とまだ手をつけていない大福餅を交互に見比べていた。
彼は自分の大福餅を彼女の方に押しやって、真理栖がそれを喜んで食べている間も考えていた。
「んー、そのお茶くださいー」
二個目の大福餅を食べ終えた真理栖が、素也の飲みかけの湯飲みを掻っ攫って口を付ける。
風呂上りのコーヒー牛乳のように一気飲みして、ぷはぁ、と息を吐く。
「ったく、言えば作ってきてやるのに……」
「お構いなくー」
「俺が構うんだよ。……まあいいや、まだ質問いいか?」
「どうぞどうぞー」
「まず、悪魔と誓約した人間の上下関係だな。それがはっきりしないと、指輪が完成したときの所有権がどちらに行くかで争うことになるんじゃないのか?」
「あー、嫌なところ突いてきますねー。それは応相談ってところです。基本的に、人間と誓約した悪魔は指輪の力によって人間に使役されることになります。指輪によって悪魔は人間界で力を使うことを許可されるってことですねー」
ああ、と素也は先ほど話していたことを思い出した。
「使役って、相互協力関係ってやつか」
「はいー。ですから指輪が完成すれば、パートナーである悪魔が人間を使って、間接的に他の悪魔へ命令を下すようになりますねー」
「ちょっと待て。それだと、完成した指輪を手に出来るのは人間だけってことになるぞ」
そう言うと、真理栖が眉を上げた。
「驚きましたー、そこまで悪魔のことを考えてもらえるんですかー」
「違う。そんな条件を悪魔が飲むはずないと思っただけだ」
「そうですねー。完成した指輪には誰も逆らえませんが、こっちにも手はあります。指輪を持ったパートナーの悪魔に限り、強制的に人間の記憶を消せますから」
「それは、ソロモン戦争で負けた奴と同じか」
「ええ、似たようなものですねー。ですが、記憶を失った人間は指輪の所有権を失います。その状態の指輪には、悪魔も手を出せません。この場合、指輪の所有権は三科恵瑠が持つことになりますから、悪魔としては煮え湯を飲まされたようなものですー」
悪魔は煮え湯を飲んでも火傷しませんけどー、と真理栖が笑って言うので、あまり緊迫感が無かった。
彼女は何事もなかったかのように言葉を続ける。
「つまりー、悪魔は指輪を諦める代わりに、指輪の支配からも逃れられるというわけです。言わば、全部をチャラにする最終手段、ってところですかね。ちなみに、これは指輪が完成する前の誓約なので、指輪の力でも消せませんよー」
「……そうか。悪魔が人間の記憶を消せるのは、機密保持のためだけじゃないわけだ。誓約解除の切り札でもあるんだな?」
「そういうことになりますかねー。まあ、そこら辺で人間と駆け引きを楽しむのも悪魔らしいでしょう」
「そんなもんか。……じゃ、最後に一つ」
素也が、彼女の目を見ながら言った。
「お前は、本当に俺が協力すると思ってんのか?」
真理栖は手に付いた白い餅粉を、叩いて落としながらながら答えた。
「あれ? アリカさんと会話したくないのですかー」
「出来るものなら会話したいけどな。そのために、他人の争いに首を突っ込みたくねぇよ。そもそも、俺はお前が信用できない」
「ふっふっふー、言い切られちゃいましたねー。でも私は、嘘は言ってませんよ?」
「本当のことも言ってないだろ。典型的な嘘吐きの遣り口だ」
油断なく目前の少女を見つめる素也は、真理栖の出方を待った。
相手が相手なので、何をされるかわからない怖さはある。
しかし今までの話を聞く限り、指輪の所有者に手を出すことは難しいはずだ、と彼は予測していた。
そうでもなければ、記憶を消去する、などという回りくどい方法を使わなくても済むからだ。
指輪を完成させた瞬間、人間から奪い取ればいい。
それができないのは、指輪の所有者が悪魔を使役するというシステムの所為だろう。
指輪からの許可が無ければ、悪魔は力を自由に振るえないのだ。
何にせよ、悪魔は人間の協力を得ることができなければ、ソロモン戦争を戦い抜けない仕組みになっていた。
目の前の真理栖が、ふ、と息を抜いた。
「……わかりましたよー。こっちの手札も全部みせますから信用してくださいー」
「信用するかしないかは、話を聞いてからだな」
緊張していた素也も、息を吐いた。
いつの間にか強張っていた肩の力を抜く。
彼女が頬を膨らませて言った。
「まったくもー、パートナーがこんなに頭も顔もキレる人だなんて、嬉しいのか悲しいのかわかりませんよー」
「顔は余計だ」
「嫌味くらい言わせてくださいよー。……とりあえず、さっきのルールに補足しますね。えっと、指輪を奪う方法ですが、死んだ人間からも奪えます。これは、殺しても奪い取れるってことなんですよー」
「…………あ」
素也はようやく、心の中にあった違和感を取り除くことができた。
今日の朝、確かに真理栖が言っていたことだった。
『素也さんが指輪を嵌めた時点で、誓約は完全に履行されました。死ぬまで撤回は出来ませんし、あなたが死んでは私が困るのです』
つまり、死んでも誓約は撤回されるのだ。
これは指輪を奪い合うという性質上、かなりの危険要素であることは間違いない。
場合によっては、命の奪い合いが起こるかもしれないからだ。
そして、相手の悪魔まで送還できるのだから一石二鳥のシステムだと言えるだろう。
顔を青くした素也に追い討ちをかけるように、真理栖が言った。
「それと、罰則さえ覚悟すれば、ルールを破る悪魔も出てくるでしょうねー。利口で狡猾な悪魔なら、三科恵瑠の目を欺くことすらやってのけるかもしれませんー」
「な、に?」
「ああー、心配しなくても素也さんの思っている通り、悪魔が自分の指輪の誓約者に手を出すことは難しいのですよ。ですからこの場合は、悪魔が自棄を起こして他の誓約者に危害を加えるかもしれない、ってことですね。ま、これも余程のことがないと起こりえない話ですがー」
彼は頷いた。
ルールを守るのは罰則があるからで、罰則さえ許容すれば、それはルールの拘束力が無いのと同じことだからだ。
「下手すれば、悪魔の存在ごと消滅させられるかもしれないですからねー。あの女、そこら辺は容赦ないですからー」
緊張感のまるで感じられない真理栖の言葉に、素也は軽く頷いた。
罰則はソロモン戦争を戦うにおいて足枷となるものだ。
好んで足枷をはめようと思う悪魔は少ないだろう。
「でー、これを言うのは迷っているのですがー」
珍しく、彼女が下を向いて言い淀んだ。
眉を寄せた素也が、不審そうに訊ねる。
「何だよ」
「それがですねー、私を除外しても、もうこの街に三体の悪魔が入り込んでいるのですよ。しかも氷間高校に集まってますー」
「……は? どういうことだそれ?」
「私は学校で言いましたよねー、『居心地いいなー』って。それは他の悪魔にも同じ事なんですよ。そのくらいの年頃の人間が抱く感情は、良くも悪くも純粋でウマウマなんですー」
お肌テカテカー、と言って頬を撫でた彼女が、小首を傾げて笑う。
「つまりー、いつ攻められてくるか、わからない状態というわけですね。しかも最悪の場合、ルールを無視した武闘派が、学校であらん限りの乱暴狼藉を働くかもしれないですよー」
「な、あ?」
情報の整理が付かず混乱する素也を尻目に、真理栖が得意げな表情で告げる。
「そんな悪魔からこの街の生徒を守るのでしたら、素也さんが頑張って指輪を集めることが一番だと思いますー」
「…………っ」
なんだそれ、と素也は思った。
学校の人間を悪魔から救いたければ、ソロモン戦争に参加して悪魔を送還しなければならない、というわけだ。
はっきり言えば、生徒を人質に取られたのと同じこと。
確かに可能性の話ではあるが、まったく無いとも言い切れないのが現状だった。
「手札はこれで全部ですよー」
両手を広げて見せた真理栖は、長机に顎を乗せた。
素也の善意を計るようにして、彼を見つめている。
当の素也は歯噛みした後で、怒りを堪えながら言った。
「本当にやっかいな女だな、お前……」
「褒め言葉ですねー」
「ああ、くそ、何でこんなことに巻き込まれたんだよ」
彼は頭を抱えて長机に倒れ込んだ。
面倒にも程がある話だった。
学校の人間から嫌われている素也だったが、そんな彼らを見捨てられるほど嫌いでもない。
そして、自分が大切にしたい知人がいないわけでもないのだった。
「…………面倒くせぇ」
素也は、心に残っている声を思い出した。
それは恐らく、アリカの声だった。
そのとき真理栖から、最後の一押しをするような言葉が向けられる。
「私は逃げられない、って言いましたよねー。逃げられないなら、最大限の利益を引き出すほうがいいんじゃないですかー」
机から頭を上げた素也は、恨めしそうな顔をした。
上手く口車に乗せられたようで気が進まなかったが、それ以外の解決策が見当たらなかったのだ。
決心したから、というわけではなく、殆ど感情的に頷く。
「わかったよ。俺が戦争に参加するのは、学校の悪魔を確認するだけだからな……」
「だといいですねー。まあ、今のところ私は、それで構いませんけどー」
んふ、と真理栖が笑う。
彼女は立ち上がり、机越しに手を差し出した。
「それではー、具体的な話は、アリカさんと話が出来るようになってからにしましょうかー」
「……わかった」
素也はその手を取り、引っ張るようにして立ち上がった。
二人は和室から出て廊下を歩き、階段を上る。
二階に上がってすぐの廊下の左手に、素也の部屋があった。
素也はドアを開き、真理栖を招き入れる。
彼女は思ったことをそのまま口に出した。
「意外と整頓されてますねー、あ、こんにちはー」
真理栖が頭を下げた。
その先には、壁際に立つ、アリカの姿があったからだ。
『彼女』は相変わらずの微笑を崩さなかった。
素也は窓際のベッドに座り、立ったままアリカを見つめる真理栖に言った。
「そういやお前、何でアリカのことを知ってたんだ? 俺と初めて会ったときに言い当てたよな」
「それは私の特性みたいなものでしてねー。他人が隠したいと思う物を見つけるのは得意なんです。高校に悪魔が入り込んでるのを感知したのも、この特性のおかげなんですー」
「……迷惑なくらい便利だな」
「ほんとですよねー」
彼女は愛想笑いを浮かべた。
それを見た素也は、何故か次の言葉を口にすることが出来なかった。
「では、やってみますかー」
「…………」
セーラー服の長袖を腕まくりした彼女は、アリカに近づいていく。
素也はそれを見守った。
真理栖が、アリカの瞳を覗き込むようにして目を近づけた。
念話でもしているように無言の時間が過ぎる。
その中で、彼女が言った。
「……ちょっと良いですかー」
「何だよ」
「素也さんはー、アリカさんのことをどう思ってます?」
彼は少し口ごもった後で、言った。
「大切だ」
彼女はその言葉に、微笑を返す。そして、
――――壁際に置かれていたフィギュアを手に取った。