第2話
「……喉が渇いた」
門浪素也は、そう呟いてゲームのコントローラーを無造作に放った。
彼の眼前にあるテレビ画面では、背中に羽の生えた天使と思しきキャラクターが、化物と戦っている途中で一時停止されていた。
素也は座椅子から立ち上がり、近くにあるテーブルの上へ置いてあった財布をズボンの後ろポケットに入れた。
部屋にかけられた時計をみると、午後八時を過ぎている。
「自販だな」
コーヒーを飲みたい気分だったが、生憎とインスタントコーヒーの在庫を切らしていた。
コンビニに行くまでもない用事だったので、近所の自動販売機で済ませることにする。
歩いて自室のドアまで行ったとき、彼は部屋を振り返った。
「ちょっと出てくるよ、アリカ」
素也はそう言って、部屋を出た。
返事は無かった。
アリカと呼ばれた彼女は、部屋の壁際に立っていた。微笑んだ顔のまま、ずっと素也の去った方向を見つめていた。
素也は家を出ると、玄関に鍵を閉めた。
一軒家で生活をしている状態は、もう既に一年が過ぎていた。
両親は仕事の関係で地方へ単身赴任。
姉が一人、海外に住んでいる。
家に家族は一人もいない。
それでも寂しくは無かった。
なぜなら、素也にはアリカがいたからだ。
「さて」
見上げると、星が綺麗な夜空だった。
アリカにも見せてやりたいもんだな、などと呟きつつ、アスファルトを踏みしめて歩く。
道の両脇には、明かりの洩れる住宅が点在していた。
普段から見慣れた風景に視線を這わせながら、目的の自動販売機へ向かう。
すると、道路の真ん中を猫が歩いていた。
素也に気がついたのか、黄色い目を輝かせてこちらを向いた。
「おす」
星空を見て気分が良くなっていた素也は、笑った。
「ギ、ギニャーっ!」
猫は全身の毛を逆立てると、一目散に逃げ出した。
「…………」
素也の笑顔は流れ落ちるように沈んだ表情へと変わり、両肩を落とした。
彼の顔は、誰が見ても悪人面だった。
何気なく素也が街路を歩いても、通行人は両端に寄る。
散歩中の飼い犬は吠える。
野生動物は先ほどの猫のように、一目散に逃げ去る。
彼は自分の顔を指で摘んだ。
「そんなに怖いか……」
いつもの事とはいえ、ちょっと落ち込んでいた。
先ほどまでの高揚感は消え去り、陰鬱な足取りで歩いた。
そして彼の前に、公園が見えた。
この公園を突っ切った先に、自動販売機がある。
「……ん?」
公園に入ろうとすると、人の声が聞こえてきた。
声から判断して、女同士の口論といったところだろうか。
彼は仲裁に入ろうかと思ったが、自分の顔のことを思って踏みとどまる。
夜中にいきなり悪人面の男が近づいてくれば、誰だって驚くだろう。
誤解されて警察を呼ばれても困る。
「どうしたものか……」
しばらく考えた末に出てきたアイデアが、相手に気付いてもらう、というものだった。
素也の悪人面を見て、それでも助けを求めるほどの緊急事態ならば、彼としても遠慮なく仲裁できるというものだ。
何も気付いていない表情を装い、口論している二人の傍をゆっくり通り過ぎようとした。
二人は罵詈雑言を交え、滑り台の近くで言い争っている。
会話の内容などは聞いても仕方ないので聞き捨てた。
我関せずの振りをしながら、歩き続ける。
そこで、女の一人が素也に気付いた。
こちらに向かって手を振る。
「た、たすけてー。お願いぷりーず」
素也が立ち止まって振り向いた。
「そこの人間とは思えない顔したおにーさーん」
「…………」
彼女の言った『人間とは思えない顔』が聞こえたあたりで、彼は相手にしないことを決めた。
流石にそこまで言われれば腹が立つので、そのまま歩き去ろうとする。
「お、おぉ? ちょっとー、聞こえてますよねー。顔面凶器のあなたですよー。たすけてー」
ガン無視した。
「……うぉー、無視されてるっぽいです。どーしましょう。これで良いのか日本の若者よ。えぇい、こうなれば実力行使しかないですね!」
靴が飛んできた。
「うおっ!」
素也は咄嗟に、飛んできた靴を避ける。
もう少し避けるのが遅れていれば、顔面にクリーンヒットしているくらい精度の高い遠投だった。
「何しやがる!」
怒りに任せて振り向くと、そこには二人の女がいた。
そのうちの靴を投げたであろう女が、手を振っている。
彼女はウェーブのかかった黒髪の少女で、薄暗い遠目で見ても整った顔立ちをしていた。
長袖のTシャツとジーンズ姿である。
「おーい、こっちですよ……ってぐあぁぁっ」
その女は、もう一人の別の女にローキックで蹴り倒された。
こちらは脱色したような長い金髪の女性で、上下とも揃いのジャージ姿だった。
煙草を咥えたまま煙を吹かしている。
「ふえ?」
黒髪の少女は、そのまま地面に寝転がされて両足を掴まれ、股間に足を当てられた。
俗に言う、電気アンマの体勢であった。
「うぐあぁぁぁぁっぁ、いぁっ、ふぬぅぅあぁぁぁ、も、だめ、洩れちゃう――――」
「…………」
素也は呆れた表情で黒髪の少女を見つめると、すぐに視線を逸らした。
それほど危険が差し迫っている状態ではないようだ。
ゆっくり歩いて公園を横切り、自動販売機で缶コーヒーを買い、プルタブを引いた。
甘いコーヒーの香りが漂う。
少しずつコーヒーを飲みながら、素也が再び公園を横切って家に帰ろうとした。
「こ、この、ひ、人でなしぃぃぃ、うあぁぁ、変顔ぉ、おぉう」
滑り台の方向から、怨嗟の声が聞こえてきた。電気アンマは未だに続いていた。
しかし無視した。
「うあぁぁ、ちっくしょぅ、おにーさんのこと呪ってやるからなぁ、おぉうふ、大切なもの奪ってやるからなぁ、うわっふぁ」
「なんだと」
そこでようやく、素也は振り向いた。
その顔は、まるで悪魔のように険しかった。
尖った目尻に、黒目の小さい三白眼が鋭さを増している。
薄い唇が、怒りと不釣合いなように歪んだ。
病的なほどに細長い体躯が、ゆらりと揺れる。
「てめぇ、汚ぇこと言いやがって、俺の何を奪うだと? あぁ?」
本人に暴言の意識は無く、意訳すると『そこの人、意地悪なようですが、止めて下さいね?』くらいのものだ。
門浪家基準(特異な感性を持つ母親主導)の英才教育が長年に渡って施された結果、彼は立派な言葉遣いと素晴らしい語彙を習得していた。
それを聞いた黒髪の少女は、目を丸くする。
「……あれー、おうふ、助けてくれるような、ぁああぅ、雰囲気じゃないですねー、おぅ」
素也は地面の砂を蹴飛ばすようにして歩み寄り、少女を見下ろす位置に立った。
「もう一回言ってみろよ。誰が、何をするって?」
少女は電気アンマの振動に合わせて、黒髪を揺らせていた。
彼女の目が、下から素也の瞳を覗き込んだ直後――――挑戦的に笑った。
「……ふぅん、そうですか。アリカ、って言うんですねぅおあぁぁぁぁ」
「何で知ってんだ!」
素也が屈んで少女の胸元に掴みかかろうとしたとき、ジャージの女が咥えていた煙草を吐き捨てる。
それはちょうど素也の行動を遮っていた。
彼の冷たい視線は、ジャージ女を射抜く。
「邪魔すんなよ」
「邪魔すんな……ねぇ。折角このあたしが忠告してやってるのにな。死にたくなかったら、こいつに手を出さない方がいいぜ。無視決め込んで帰れよ」
「あのなぁ」
素也は前髪を掻き上げて、ジャージ女を睨み付けた。
「俺の一番大事なやつを奪うって言われて、どうやったら引き下がれるってんだよ」
「てめぇの命は一個しかねぇだろ」
ジャージ女も睨み返してくる。
胆の入り方から推測するに、ただの不良ではないようだった。
普通の人間と比べてみても、存在感からして違う。
相当の修羅場を潜ってきた猛者なのだろう。
だが、門浪素也は引き下がれない。
他の何を捨てても、アリカのことだけは一歩も引けない。
彼女の何を失うことも出来ない。
「一個しかねぇから、一番大事なやつのために使うんだボケ」
彼は覚悟して言った。
すると、ジャージ女は視線を逸らさず、眉だけを動かした。
「――――へぇ」
口元を緩めると、電気アンマを止めた。
立ち上がって、ジャージについた土を払う。
「いいね、上等だ。気持ち良いくらいの覚悟だね。……ったく、あんたもこういうところを見習えって……ん?」
彼女が足元を見ると、そこに少女はいなかった。
公園の外から、妙な捨て台詞が飛んでくる。
「覚えてろですよこのやろーっ! この偏平足!」
少女は暗闇の中を走り去った。
夜の公園に、素也とジャージ女が取り残される。
「あー……まあいいか。こいつもあることだし」
女がジャージのポケットから、鈍く光る指輪を取り出した。
空中に放り投げては、落ちてきた指輪をキャッチする。
「俺はよくねぇ」
素也は今にも殴りかかりそうな雰囲気だったが、女の方はそうでもなかった。
さっきまでの迫力は霧散し、優しげな雰囲気さえ感じられる。
「わかってんよ、そう焦んなって。……ほら」
素也は投げ渡された指輪を無造作に受け取り、拳に握りこんで女を見返した。
「何だこれ」
「見てわからねぇのかよ。指輪だ。鉄と真鍮で編まれた、七十二分の一の欠片だ」
「はあ?」
「持ってろよ。そしたら、必ずあの女がお前の前に現れる。そっから先は自分で判断して決めることだ。じゃあな」
ジャージ女は背を向けて、片手を挙げた。
「おい、ちょっと待てよ――――」
彼女を追いかけるように足を踏み出した素也だったが、距離が縮まることは無かった。
どんなに足を動かしても走っても、少しも前に進めなかったのだ。
ジャージ女の姿が闇に消えて、ようやく素也の感覚が元に戻った。
地面を踏み鳴らして、感触を確かめる。
走ればその分、前に進むことが出来た。
「なんなんだ、一体」
困惑が頭から離れない素也は、手の中にある確かな手応えを感じた。
今までのことが現実であるという、確かな証拠だった。
「……そうだ、アリカ」
自宅に残してきた彼女のことが心配になった素也は、脇目も振らずに駆け出した。
――――これが、すべての始まりだった。




