第15話
一方、門浪家には珍しい来客があった。
応対するのは勿論、留守番をしているアリカだった。
素也に渡した黒髪が切れ、家にいた真理栖と加零と義経が転送陣で廃工場へ行ってしまっても、彼女はずっと門浪家にいたのだ。
それは真理栖が、争いの現場にアリカを連れて行くと素也が怒るだろう、という判断に基づいた結果であったが、アリカは最初から現場に行こうとは思っていなかった。
もしも真理栖が連れて行こうとしたならば、力ずくでも断っていたはずだった。
なぜなら彼女は、この来客のために、門浪家へ残っていたからである。
玄関に立っているのは、ジャージ姿の金髪女性だった。
咥え煙草を吹かし、敵意の込められた目で睨みつけながら言う。
「邪魔するぜ」
「もうそろそろ、訪ねてこられる頃だと思っていました」
アリカは一礼し、玄関前にスリッパを並べた。
三科恵瑠の無遠慮な態度など意に介さず、淡々と和室へ案内した。
三科がサンダルを玄関に脱ぎ散らかし、裸足で家に上がった。
スリッパなど蹴り飛ばして、和室の前まで行く。
「どうぞ」
膝を廊下について、アリカは和室に続く障子を開いた。
大股で歩きながら、三科が当然のように上座の席に座った。
長机の上にあった灰皿へ、咥えていた煙草を放り投げる。
そして、お盆の上に盛られていたお菓子をぽりぽりと食べ始めた。
その間に、アリカは台所で用意してきた日本茶を持ってきた。
彼女は下座についてから、自分の湯飲みを両手で抱え、お茶を飲む。
一息ついてから、抑揚の無い声で言った。
「何から話されるのですか?」
三科が口の中にあった菓子類を日本茶で流し込み、湯飲みを置いた。
「ぷはっ。そうだな。……まずは、二重誓約の件からいかせてもらおうか」
「ええ、よろしいですよ」
「とりあえず、一人の人間に、二人の悪魔が誓約することは認められねぇな。人間が二つも夢を叶えられる、ってのは反則だろ」
「あら、特にそんなことは言い含められていなかったように存じますよ」
「言う必要は無かったんだよ。あたしや悪魔たちにすら気付かせずに指輪を隠し通す芸当なんざ、あんたくらいにしか出来ねぇからな」
含みを持たせたような笑顔で、三科が目を細めた。
アリカはそれを平然と受けとめる。
「……さあ、どうでしょう」
「しらばっくれんじゃねぇよ。……でもまあ、気付かなかったのはあたしの落ち度さ。でもこっちとしては、ソロモン戦争に公平さを欠く事態を見過ごすわけにもいかなくてね」
「あなたの不手際を、私に押し付けるのですか」
あー、と三科が後頭部を掻いた。
「まあ、そういうこった。だから、あたしが直に出向いてやったんだよ」
「そうですか。なら、交渉の余地はあるということですね」
「よく言うぜ」
三科恵瑠が、吐き捨てるように言うのだった。
目を細めて睨みつける。
「最初から計画通りだろうが。七十二柱の中で最大の勢力を誇る、六十六の軍団の長にして序列一位の大いなる魔王バアルが、こんなことも予想してなかったとは思えねぇ」
「それは買いかぶりではないですか?」
アリカは少しも迷うことなく、微笑を湛えてみせた。
それが何よりも雄弁に、彼女の自信の深さを表していた。
嫌そうな顔をした三科が、お茶を一口飲んでから言った。
「まあ、そういうことにしてやるさ。それで、あんたはどうする。交渉するなら、あたしに利益になるようなものを差し出さないと話は纏まらねぇぜ? 生半可なものじゃ納得しねぇからな」
「では、これを」
最初から用意していたように、アリカは長机の下から紫の敷物に包まれたものを取り出した。
金属製なのか、長机の上に置くと鈍い音がする。
彼女は三科の目前で敷物を剥いだ。
そこに現れたのは、古代文字が描かれた神槌だった。
三科が絶句し、次に頬を引きつらせた。
「あんた、本当にこれを差し出すってのか? その価値が、あの男にあると本気で信じてるわけじゃあるまいな」
「ソロモン戦争中は、その神槌をあなたにお渡しします。二言は御座いません」
そう言われた三科が、視線を逸らした。
長机の上に置かれた神槌を見つめる。
これは神具とも言うべきもので、魔王バアルが持つ神槌といえばその存在のルーツともいえる重要なものだ。
簡単に手放していいものではない。
それは、神を負かした二対の神槌の一つ、反逆の意を持つ『アイムール』だった。
竜神を王座から引き摺り下ろした神具であり、彼女の切り札とも言うべき存在だ。
『アイムール』は反逆の象徴であり、神々を打倒する破壊力を持った神具であることは間違いない。
たかが人間一人との誓約を維持するために支払うものではなかった。
そして、反逆の意を持つ『アイムール』を差し出すということは、自分に反逆の意思は無いと訴えかけるのと同義だった。
「……あんた、気付いてんだろ」
限りなく低い声で、三科が言った。
アリカはわざとらしく首を傾げる。
「何のことでしょう。私は、私を見出してくれた素也に恩義を感じているのです。愛していると言ってさえ良いでしょう。彼のためならば、半身を捨てろと言われてもそうします」
言葉の最後に付け加えられたのは、暗い深淵の奥底を覗き込んだような笑顔だった。
アリカの言葉に嘘は無い。
そう三科が実感するほどの迫力だった。
どうしてそこまで門浪素也を高く買っているのかは彼女には理解できない。
だが、三科にも素也をおいそれと放っておくことが出来ない理由があった。
「こりゃ、腹の探り合いは時間の無駄か。……いいぜ、神槌の釣りに、いいことを教えてやるよ。何であたしがこんな面倒なソロモン戦争を始めたか、くらいは知ってるんだろ」
「はい。あなたがソロモン戦争を始めた理由。それは――――魔術王ソロモンの復活、そして、『神の知恵』の奪還ですね」
「まあな」
惚けたような声で答える三科だった。
――――魔術王ソロモン。
彼は古代イスラエルの統治者だった。
豪華な捧げ物を用意し、従順に神を崇めていた。
敬虔なる彼に対し、神は夢枕に立ち、すべての願いを叶えてやろう、と言った。
ソロモンはそこで私利私欲を求めず、知恵を求めた。
神は喜び、多くの知恵と力を与えた。
それが、『神の知恵』と『ソロモンの指輪』であった。
ソロモンはその二つを使い、大勢の悪魔を従えた。
神に感謝するように神殿を建設し、大いなる繁栄を迎えることとなる。
しかし、ソロモンは婚姻外交により、異教徒の妻や側室を千人ほど持ってから転機を迎えた。
異教の考え方すら吸収し、それを守ろうとしたのだった。
神はそれに怒り、古代イスラエルは国が割れた。
――――問題は、それからだった。
三科が冷えた日本茶を飲み干した。
苦い記憶を思い起こしているのか、口元が歪んでいる。
「ソロモンの野郎は、死ぬ間際に『神の知恵』を自分の魂と同化させて、勝手に魂を分裂させやがったからな。指輪の方は取り返したが、そっちはどうすることも出来なかったんだよ」
「ええ、存じております」
アリカは当然のように相槌を打った。
三科が強く拳を握り締めながら言う。
「神のものは神に返すべきだ。そんで『神の知恵』を取り返すためには、ソロモンの魂を復活させなきゃならんときたもんだ」
彼女が面倒ごとを抱え込んだように呟く。
「……ソロモンの魂は七十二個に分裂してな。肉体が無いもんだから、精気が無くなって干からびちまってよ。精気を注ぎ込んで魂を一つにするには、どうしても人間の肉体が必要だった。そこで思いついたのが、ソロモン戦争だ」
「そのために悪魔に根回ししたのですか。……余計に面倒なことになっていると思うのは私だけですか」
「仕方ねぇだろ。天使を大量に人間界へ送り込んでみろ、悪魔に戦争の準備だと文句付けられたら外交問題じゃねぇか」
「はい、それは理解しています。そうなっていれば、黙示録直前でしたね」
ふふ、とアリカが妖しく笑う。
笑い事じゃねぇよ、と三科が口を尖らせた。
「だからあたしは、指輪に面倒な機能を持たせたんだよ。……ソロモンの魂を分割させた指輪に定着させて、さらにその人間の精気を分けてもらうようにしたんだ」
だがな、と彼女は難しい顔をする。
「しかしこれじゃあ、ソロモン戦争が終わるまで――――指輪が完成するまで、ソロモンの魂は揃わねぇ。つまり、それまでは『神の知恵』が手に入らねぇってことだ」
憤慨を晴らすように、三科が長机を叩いた。
神槌が揺れる。
「『神の知恵』がねぇと、『天国の扉』と『地獄の門』の修理も出来ねぇからな。このままだと、近い内に人間界が天使と悪魔で溢れかえるぜ? あたしも急いでんだよ」
アリカは自分の湯飲みを抱え、静かに同意した。
「それこそ黙示録、ですね。こちらの皇帝ルシファーも同じ意見です。ですから、あなたの目論見を知りつつもソロモン戦争を放置しているのです。あなた一人に七十二柱をぶつけているようなものですから、得なのか損なのかはわかりませんが」
「そりゃあ、お互い様だ。……お前ら、考えてることはそれだけじゃねぇだろ。指輪が完成して、ソロモン王の魂が揃ったとき、横から掻っ攫うつもりが見え見えなんだよ」
「いけませんか? 我々は悪魔です。覇権を目指すのも役割のうちですから」
二人の視線が交錯した。
三科が獰猛に笑い、アリカはそれを微笑で返す。
それから最初に口を開いたのは、三科だった。
「いいぜ。なら、魔術王ソロモンの魂が揃うまで、利害は一致してるわけだ」
「…………?」
「ソロモン戦争を加速させるのは、天使にも悪魔にも都合が良いってことだよな」
アリカには、その言葉の意味が最初は理解できなかった。
そして次の瞬間、言葉の裏に隠された真意に気付く。
「魂が完成するまでは、互いに手を組むというわけですか」
「ちょっと違うな。あたしはあんたに便宜を図るつもりはねぇ。ルールを守ってもらわなくちゃソロモン戦争が成り立たねぇだろ? だが、互いの独り言を聞く分には問題ねぇよなあ」
要するに、表向きは敵同士で、裏では情報交換程度の連携をしていこう、という協力関係が築きたいのだった。
確かに三科恵瑠が悪魔と同盟を組むのは問題があるし、彼女の都合で振り回されるのは勘弁してもらいたい、というのがアリカの本音だ。
そんなアリカにしても、ルール上最強の存在が情報をリークしてくれるのは有難いことだった。
断る理由はない。
後は、条件次第というところだった。
「魂が完成したならば、それはどちらの手に渡るのですか?」
「あたしだ……と言いたいけどな、それじゃあんたが納得しねぇだろ? それならいっその事、魂に決めさせればいい」
「魔術王ソロモンの魂に、ですか?」
「いいや、最後まで勝ち抜いた奴の魂に、だよ。あんたは門浪素也を勝たせればいい。あたしはそれに対抗できそうな奴を連れてくる。これで恨みっこなしの勝負ができるだろ」
どこがですか、とアリカは思わず言い返しそうになった。
これは三科が有利なのは目に見えている。
次々に新しい刺客を送ってこられるのだから、傾向と対策が練られるということだ。
いつかは素也が倒されるかもしれない。
しかし、アリカが素也以外の人間と誓約を結び直すことは考えられなかった。
例えそれを三科が許しても、彼女は首を縦に振らないだろう。
その理由は、素也の魂が、あまりにも魔術王ソロモンの魂の形と似ているためだ。彼はソロモンの魂を集める器として最適で、しかも姿まで生き写しだった。
アリカの考える『反逆計画』に欠かせない、最重要人物なのである。
いまさら変更することは出来ない。
もしも素也がアリカの元を離れようとするなら、全力で篭絡にかかるほどの存在だ。
彼を手放すことなど、最初から選択肢に無かった。
「いいでしょう」
アリカは語気を強めた。
「それで結構です」
「そーかそーか、そりゃよかった。それじゃあんたの許可も得たことだし、派手にやらせてもらうぜ」
そこで初めて、三科恵瑠の瞳が怪しく輝いた。
まるでアリカの言葉を待っていたかのような態度だ。
何も企んでいないはずがない。
「あなた、まさか」
「なあに。お手並み拝見、と言ったところだぜ。あいつには、あたしも見込みがあると思ってんだよ」
三科が最高の笑顔になった。
糾弾するようにアリカは言う。
「悪魔を送り込んだのですね」
「まあそうだが、これは約束の後にやったことだ。問題はねぇだろ……おっと、来客みてぇだから、あたしは帰るぜ。じゃあな」
そう言った三科が、神槌を敷物で包んで手に提げた。
そのまま玄関には向かわず、和室から外に続くガラス戸を引く。
縁側に立ち、アリカに向かって意味ありげな表情を見せると、そのまま歩いて行った。
彼女が家のブロック塀を乗り越えると、姿は完全に見えなくなる。
「……どうして羽を使って飛ばないのでしょうか」
アリカには不思議だったが、いつまでもそんなことを考えている暇はなかった。
廊下から足音が聞こえてきたからだ。
インターホンも鳴らさず、挨拶さえ無しに家へ上がりこんでいる者がいだ。
足音は和室の前で止まり、勢いよく障子を開いた。
「あら。ここにいたのね、釘貫」
「今はアリカと呼ばれています」
「そう。いい名前ね」
心の底ではそんなことを思っていない様子で、畝海明日香が和室に入ってきた。
三科恵瑠が座っていた場所に陣取り、長机の上で頬杖をつく。
「ちょっと、どういうことよ」
「何がですか?」
「とぼけなくても良いわ。門浪素也を見たときから、魔術王ソロモンを復活させることくらい見当がつくわよ。それから彼を旗頭に、悪魔・魔神連合軍を組織して、神に対する『反逆計画』の続きをやることもね。……誰の差し金よ。私が知らないなら、ルシファーかベルゼビュート辺りの判断かしら」
「計画立案は私です。実行の許可は皇帝ルシフアーから頂きました」
「やっぱりね、あのナルシストが考えそうなことだわ。……それで、門浪素也を選んだ理由が聞きたいわね。あの子じゃなくても、もっといい素材がいるわよ? ちょっと彼は常識的過ぎるわ。天使寄りの考え方をしてるもの。裏切られても知らないわよ」
アリカは、ゆっくりと首を横に振った。
「それはありません。私は素也を愛しています。それ以上に必要な信頼がありますか?」
「……妻の前で、良くそんなことが言えるわね」
「悪魔に貞淑さを求めるのですか? それこそ問題発言ですね」
試すようにアリカは言うと、畝海が拗ねるように答えた。
「独占欲と言って欲しいわ」
「ええ、わかっています。誰だって独占欲はあります。世界のすべてを平等に愛せる存在は、神しかいませんから。天使も悪魔も聖者も盗人も、誰も彼も愛してしまう」
アリカの瞳に、暗いものが宿った。
「……だから私たちは、噛み付いてやるのです。私を愛してください、と。誰でもないこの私だけを愛してくれるように、一矢報いるのです。素也は私に気付き、私を愛してくれました。それに報いるのは、当然でしょう?」
畝海が頬杖をついたまま、溜息を吐いた。
「確かに、確かにそうよ。愛の独占は私たちの悲願だわ。でも、前の『反逆計画』が失敗したのも、三科恵瑠が強すぎたからよ? 対策はあるの?」
「もちろん。三科恵瑠を封じる役割は、素也にやってもらいます」
「それは無理だわ。夢を叶えて悪魔にはなったようだけど、中級悪魔レベルよ。しかも、ずっと悪魔でいられるわけがないわ。同族を生み出すなんて馬鹿力、アリカでも一時間が限度よ。あの子を認めないわけじゃないけど、それでも七十二柱にさえ届かないわ」
「何も、三科恵瑠と真っ向から戦わなくてもいいのですよ。前回はそれで敗北しましたから。……素也は人間であり、悪魔であり、魔術王ソロモンの魂を持つ者なのです。それがどういうことかわかりますか」
言葉の意味に気付いた畝海が、思わず顔を上げた。
頬杖をしていた手が、力なく長机の上に落ちる。
「そうか……ソロモンの指輪ね」
「はい。天使も悪魔も従えるその力で、三科恵瑠の動きを封じます。その後は、『神の知恵』で『地獄の門』を破壊し、全力で天界を攻め落とします」
それを聞いた畝海が、身体の力を抜いた。
「……良くも悪くも、一人の人間がすべての鍵を担うのね。耐えられるのかしら」
アリカは慈愛の表情で微笑む。
「ですから、私が支えるのですよ」
「ふぅん。……まあ、よくわかったわ。咲枝の指輪が奪われてなかったら、私も協力してあげる。言っておくけど、無料じゃないわよ。素也の血で手を打ってあげるわ」
「素也の血……って、あなたまさか、飲んだのですか?」
「ええ、とても美味しかったわよ。彼の血をすべて捧げてくれるなら、この私が跪いてもいいくらいには、だけれど」
「……私だって飲んだことがないんですよ? それをどうしてあなたが先に……」
アリカの顔は即座に曇り、恨みがましい顔になった。
拳を震わせ、今にも感情が爆発しそうだった。
軽い復讐を終えた畝海が、すっ、と音もなく立ち上がった。
「それじゃ、またね。必要なら私を呼ぶといいわ……っと」
言い終わると、座布団が飛んだ。
彼女がそれを見事に避けて、和室から逃げ出した。
すると、廊下に向かってアリカは叫んだ。
「今はあなたの顔など見たくありません! もう来ないでください!」
「ふふっ、そうするわ」
畝海が廊下を歩いて玄関から出ようとすると、背後に転送陣が現れたのがわかった。
そこから誰がやってくるのか知っている彼女が、少しだけ優しい視線を残して、真理栖たちに見つかる前に玄関から出て行くのだった。




