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ソロモンズ・リング  作者: 比呂
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第14話


 素也と咲枝の目が合う。


「え、ええええ! な、何で、素也がこんなところにいるのよぉっ」


 彼女が驚いた後で、自分の姿を思い出したようだった。

 茹でられたタコのように顔を真っ赤にして、必死に顔を隠している。


「ちょ、嘘、何で? や、見ないで」

「……うるさいわよ、咲枝」


 畝海が殊更に冷たい瞳をしながら言った。

 冷や水を浴びせられたように身を縮めた咲枝は、ようやく周囲の状況に気付いた。


「え、何これ……?」


 壁際で、普通の少女にしか見えない加零が倒れていた。

 同級生の義経が横倒しになっていて、転校生の安藤真理栖が片腕を失って床に突っ伏していた。


「どういうこと、なの」


 咲枝が言葉を搾り出すように言うと、畝海が肩を落とした。


「どうもこうも無いわ。強いて言うなら、そうね。私の楽しい遊びが終わったのよ。……計画通りに進めば、あなたを復讐者に仕立て上げられたのに残念だわ。好きな男を殺された憎悪は、とても美味しいのよ。飴玉でも舐めるようにゆっくりと味わうつもりだったのだけど」


 飽きた玩具を投げ捨てる幼子の雰囲気で、畝海が言った。


「でも、もう駄目ね。今までの苦労もすべて水の泡だわ。……咲枝がいけないのよ? 私が呼ぶまで二階に来るなと言っておいたのに、約束を破るから」


 彼女が咲枝に向かって、右手を振り上げようとした。


「え、でも――――」


 咲枝が何かを言い切る前に、素也は飛び出した。


 不可視の切断攻撃を止めるために、畝海の手を掴む。

 彼は獰猛な顔をして、気焔を吐いた。


「ああ、もういい、上等だコラ。俺の友達(つれ)に手ぇ挙げた奴は、ぶん殴る。男だろうが女だろうが、天使だろうが悪魔だろうが、関係なく容赦しねぇ。真理栖の腕一本分くらいは返させて貰うぜ」

「離しなさいっ」


 畝海が掴まれていた腕を、大げさに振り払った。

 少し遅れて、何か見えないものが素也の前髪を掠める。


 それだけで彼は、畝海の獲物が何であるか予測することが出来た。

 過去に不良と戦ってきた経験上、畝海のような身体の動きで扱う武器は限られる。


「わかったぜ……てめぇの武器」


 これは、不良が使っていたチェーンに似たものであると判断した。

 飛び道具のように遠くまで素早く攻撃が可能で、腕に巻きつけて行動を封じることも出来る。


 巻きつけたまま勢いよく引けば、悪魔の力なら切断することも不可能ではない。

 そんな武器が相手なら、間合いを遠く取っては危険だった。


 相手に張り付くような接近戦こそが、最も有効な戦術である。

 素也はボクサーのように両腕を折りたたんで前面に構え、足踏みするような素早いステップで畝海に張り付いた。


「……鬱陶しいわね」


 心底嫌そうに後退する畝海からは、不可視の切断攻撃が飛んでこない。

 それはつまり、素也の予測を肯定していた。


「調子に乗るんじゃないわよ」


 彼女の苛立たしさが喫水を越え、怒りが溢れ出すように攻撃してきた。

 後退しながら繰り出すにしては緩慢な手の動きだが、油断は出来ない。


 彼女の突き出した手が、右腕を掠めた。


 その瞬間、鼻を投げ捨てたくなるような悪臭が漂う。

 もう少しで意識が飛んでしまうかと素也は思った。


「ちっ」


 それでも接近戦を止めることは出来ない。

 離れたら自分の負けが決まっているようなものだからだ。


 冗談ではなく、首が飛ぶのを覚悟しなければならない。


「『蛇』にはこういう使い方もあるのよ」


 畝海がそう言うと、自分の手に見えない何かを巻きつけ始めた。 

 後退から一転して、地面を蹴る。


 素也は危険を感じて、全力で横に飛んだ。

 見栄も何もない必死の回避行動だった。


 彼女がそのまま工場の壁面を殴り、轟音を響かせなら大穴を開けた。

 畝海が振り返る前に、素也は体勢を整え、一気に近づく。


「行くぜ」


 相手の攻撃力は脳裏に張り付いている。

 出来ることなら近づきたくない。


 だが、近づかなければ殴れない。

 前に出なければ、友達の借りが返せないのだ。


「な、この」

 

 強引に体勢を立て直そうとするが、遅かった。


 素也は既に間合いを詰めている。

 使えない右腕の代わりに、高く、強く左の拳を振り上げた。


 引き絞られた弓のように腕が軋み、力が蓄えられる。


「殴れるものなら殴ってみればいいわ。その手が折れて砕けても知らないわよ」


 余裕の表情で畝海が言う。

 

 受肉した悪魔であるとはいえ、それがただの人間と同等のはずが無い。

 真理栖でさえ電柱を圧し折る力を持っているのだ。


 序列二十九位の実力は、常人を遥かに凌駕する。

 彼女の言葉に嘘偽りは存在しない。


 ――――だが一つ、畝海は思い違いをしていた。


 素也が、ただの人間だと思い込んでいたのだ。


「喰らいやがれ」


 彼の呟きが、拳を放つ引き金となった。

 大気を削るような勢いの大振りで、硬い拳骨が打ち下ろされる。


 狙いは腹。


 素也の拳が、彼女の身体に触れた直後、重い衝撃波が走る。

 廃工場の屋根が震え、残っていた窓ガラスがすべて吹き飛んだ。


 拳を突き出した格好の素也は、怪訝な表情をしていた。


「……あれ?」


 自分にこれほどの力があるとは思っていなかったのだ。


 拳が壊れる覚悟で殴りつけたつもりだった。

 彼は意地を通そうとしただけで、特に結果を求めたわけではなかった。


 だが、畝海は数メートルほど後退させられ、腹部を押さえてこちらを睨んでいる。

 口端から一筋の血を流しながら、彼女が言った。


「あなた、これで名実共に仲間入りね……」

「仲間?」


 彼は思わず聞き返してしまった。

 自分に一番似合わない類の言葉なので、何かの間違いではないかと思ったのだ。


 畝海が八重歯を見せて獰猛に笑う。


「ようこそ、闇の世界へ。同じ眷属の誕生に、感謝と憎悪を捧げるわ」

「同じ眷属……だと?」

「そうよ。あなたは悪魔になったの。殴られた感触でわかったわ。そうでもないと、私にダメージを与えられるわけがないもの。……考えてみれば、刺し傷が治癒したのもそのお陰だったのね」

「いや、人間が悪魔になれるわけないだろ」


 素也は真顔で反論すると、彼女が皮肉たっぷりに答えた。


「そうでもないわ。夢を叶えることが出来るのなら簡単よ」

「でも、真理栖にはアリカと喋れるようにしてもらったぞ」

「安藤真理栖の分は、それでいいわ。けれど、あなたの指輪はすでに七十二分の二が揃ってるもの。『二重誓約』ね。別の悪魔が、あなたの夢を叶えたのよ」

「……ちょっと待て。俺は真理栖以外に、誰と誓約したってんだ?」

「そこまで教えてあげる義理は無いわね」


 畝海が後方へ飛んだ。

 妖艶に微笑みながら言う。


「もっと戦ってあげてもいいんだけど、身体の方が思ったより重傷だから帰らせてもらうわよ。あなたの相手は、別の悪魔にやってもらうことにするわ。……咲枝の指輪は好きなようにしてくれて構わないから。それではごきげんよう、素也」


 そのまま背後へ下がった畝海が、何もない空間に水面へ吸い込まれるように消えていった。

 素也は彼女を追いかける術も知らず、ただ呆然と見送ってしまう。


「何がどうなってんだか……」


 彼が怪訝そうな顔で後ろを向くと、これまた妙な顔をした咲枝が立っていた。


「私、置いていかれちゃったのかな……」

「置いていかれた方が良かったんじゃないのか? あいつ、悪魔だし、俺のことを殺そうとしたんだぜ?」

「でも、素也も悪魔になったんでしょ?」


 嫌な顔をした彼は、自分の顔を確かめた。

 少し八重歯が長くなっていることは確認できたが、それ以外は鏡でも無いとわからない。


「なあ、咲枝。俺は悪魔に見えるか」

「ええ、見えるわよ。別に普段と変わらないけど」

「………………」


 落ち込む素也だった。

 何の反論も見出せず、咲枝を見た。


 目を背けたくなるようなフリルピンクの衣装が目に入ってくる。

 彼は胸が痛くなった。


「そういう歯に衣着せぬ物言いも、聞けなくなると思うと寂しいもんだな。咲枝とも、もう会えなくなることだし」

「え? 何言ってんのよ」


 咲枝が、自分がどんな姿でいるのかも忘れた様子で聞き返してきた。

 真顔になった素也は言う。


「だって、あんなにたくさんの人間を殺しただろうが。警察に行くべきだろ」

「殺した? ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ」

「そんなこと言ったって、ほら、あんなにもたくさんの不良が地面に倒れてるじゃねぇか」


 彼が指差した先には、物言わぬ不良たちが様々な格好で転がっていた。

 未だに動き出す不良はおらず、第三者の目から見ても、虐殺現場にしか見えなかった。


「毒ガスで皆殺しにしたんだろ? 証拠不十分で起訴されないかもしれないけどな、出頭だけはしておけよ。無事で済むのはアニメだけだ……って、アニメも打ち切りになってるから無事じゃないのか」


 心配そうに言った素也だったが、当の本人である咲枝は気にしていない様子だった。


「あれ、素也も《たまるん》のこと覚えてるの?」

「ちょっとだけな。畝海の説明も聞いたから、何とかわかる程度だ」

「ふぅん、そっか。それじゃあ仕方ないかな」


 何でもないことのようにそう言った彼女は、どこから説明しようかな、などと呟いた。

 しばらく考えていたが、すぐに判断はついたようだった。


「えっと、《たまるん》がいじめっ子たちを皆殺しにして放送禁止になったのは、半分本当なのよ。でもね、それには理由があるの。いじめっ子たちは、実は校舎爆破を企むテロリストだったのよ。説得にも応じない彼らを、《たまるん》は教室に押し込めて警察の到着を待っていたわ。けど、テロリストたちは毒ガスで自殺を図ったの。結局、毒ガスを放ったのは《たまるん》だということにされて、指名手配されたのよ」


 だから打ち切られちゃったのよね、と咲枝は苦笑いをした。


「私も毒ガスなんか使ってないわ。造れなくはないけど、後始末が大変でしょ。だから、不良たちは合成した催眠ガスで眠らせてるだけよ。素也をボコボコにする、って言われたから、ちょっと強めのやつだけどね」

「え、そうなのか」


 素也は彼女が人を殺してないことに安堵し、息を漏らした。


「はぁ……無茶するなよ、泣き虫のくせに」

「だから、泣き虫って言わないでよ。《たまるん》との約束に二言はないわ。素也のことでもう泣かない、って誓ったんだから」

「どういう誓い方だ、それ」


 素也は眉を寄せて言う。


 妙な約束事に俺を巻き込むな、と続けて言いたいところだったが、今まで咲枝の苦しみに気付いてやれなかったことが心に残っているので、何も言わないことにした。


 咲枝が顔を赤くして慌てる。

 あれこれと言い訳を探し、ようやく思いついたように言った。


「――――って、そう言えば、何で素也がここにいるのよ。何で周りに人が倒れてるの?」

「お前の格好よりはまともな理由だよ」

「格好のことは言わないで!」


 素也は、面倒だな、と呟いてから、これまでの経緯を説明した。

 幸い、彼女もソロモン戦争の知識は畝海から教えられていたため、素也自身の身に起こったことを話すだけでよかった。


 咲枝が手で目を覆う。


「……うん、ごめん、ちょっとショックかも」

「まあ、そうだろうな」

「まさか素也が、友達を作れないあまりにフィギュアに話しかけてただなんて……」

「それはお互い様だ《たまるん》」

「ちょっと、《たまるん》を馬鹿にしないでよ。フィギュア萌えのくせに」

「うるせぇ。咲枝のくせに、アリカをただの人形扱いしてんじゃねぇ」


 二人の喧騒は、相手の趣味をいかに罵倒するかという、無意味で何の価値もない口喧嘩に終始した。


 声は次第にエスカレートして大きくなり、昏倒している加零と義経を目覚めさせるには充分だった。


 目覚めた義経が、目に飛び込んできた光景を見て歓喜した。


「うわっ、何で《たまるん》がこんなところに? ってか、新堂さんじゃん。コスプレ? その服どこの店に売ってたの?」

「え、臼井くん」


 手で身体を隠すようにした咲枝が、素也の背後に逃げ込んだ。

 自然と素也が義経の前に立つことになる。


「ああ、素也……って、腹は大丈夫なのか?」

「治った。理由は、俺が悪魔になったってことらしいが」

「そんなのいつも通りじゃないか。指輪のお陰とかじゃないの?」


 適当な義経の返答は、ある意味では的を得ていた。

 そこで彼の顔が、ようやく緩んだ。


「……とにかく、無事でよかったなぁ。僕、何されたのか全然わからなかったんだけど、素也の血を見たら心配でさ」

「おう、心配かけた」


 かなり照れくさい気分の素也だった。

 友達がいたらこんな感じなのかな、と思った。


「思ってんじゃねぇよ! 僕とは友達じゃないのかよ!」

「他人の心を勝手に読むな」

「素也の態度を見ればわかるわ! 腕組みして小さく鼻で笑いながら僕を遠い目で見つめたろ!」

「そんなことより、お前は《たまるん》のこと知ってたのか」

「そんなことより? ……まあいいや、《たまるん》なら勿論知ってるよ。好みの分かれる作品だね。三話打ち切りのアニメで有名だけど、幻の第四話が限定で追加されてることを知ってるくらいには詳しいよ」

「……第四話? 限定?」


 咲枝が顔だけを、素也の背後から覗かせた。

 どうやら話に食いついてきたらしい。


 義経が鼻を高くして、得意げに語りだした。


「うん、特別編でね。隠れて同人で配布されたんだけど、知らない人は知らないよね。僕は持ってるよ」

「あの、今度、見せてもらってもいいかな」

「いいよ、どうぞどうぞ」


 咲枝と義経は、どういうわけか《たまるん》談義を始めてしまった。


 素也はそれに付き合いきれず、倒れている真理栖の傍に行った。

 真理栖の隣には、切断された箇所を眺めている加零の姿があった。


「どんな具合だ?」

「ふむ。これなら消滅させられるほどの怪我ではないようじゃ。しかしまあ、治療するに越したことはないのう」

「治療って、どうするんだ。俺に何かできることはあるか?」

「そなたに出来るのは、生贄を捧げることくらいじゃな。ま、……そんなことをせずとも、そこに転がっておる腕を引っ付けて安静にしておけば治るわ。心配せずともよい」

「そうか」


 素也が安堵したところで、ようやく真理栖は瞼を開いた。

 青ざめた顔で彼を見つけると、ゆっくりと笑う。


「……お恥ずかしいところをみせてしまいましたねー。お嫁に行けそうにありませんー」

「そのときは嫁を貰えばいいだろ。悪魔なら頑張ればどっちでも行けるはずだ」

「……あれー。素也さん、何だか雰囲気変わりましたね。まるで悪魔みたいですよー」

「それは言われ慣れてる」

「ですねー。しかしまあ、友達ですかー」


 真理栖が意地悪そうに笑った。

 彼は顔を背ける。


「き、聞いてたのかよ」

「動けませんでしたがー、意識はありましたからね。……正直、嬉しかったですよー」

「うるせぇ」

「あはははー、……っ」


 そこで彼女が、痛そうに顔を歪めた。

 素也は難しい顔をして言う。


「無理するな。二人は転送陣で先に帰ってくれ。俺の家を使えばいい。俺たちは歩いて帰る。場所は分かってるから」

「そうじゃな、それがよい」


 懐から赤いマジックペンを取り出した加零が、地面に魔方陣を描き始めた。


「俺の血なんか使わずに、最初からそれで書けば早かったんじゃないのか」

「そうでもないのう。四人を同時に高速転送させるには、やはり血の力が必要じゃった。我の判断ミスは、全員を運ぼうとしたことじゃな。我ながら甘いことよ」


 彼女が苦笑しつつ、転送陣を書き終えた。

 小さな身体で真理栖を右肩に背負った加零が、左手には切断された腕を掴む。


「では、また会おう」

「お元気でー」


 背負われた真理栖が言った。

 二人が転送陣に入ると、素也は手を振った。


「助けてくれて、ありがとな」


 加零が軽く笑い、真理栖が驚いた表情を見せた。

 彼女らがそのまま、転送陣の中に姿を消した。


「……さて、帰るか」


 未だに《たまるん》談義をしている義経と咲枝を振り返った。


 一歩、踏み出す。

 その瞬間、廃工場が揺れた。


「な、何だ」


 彼は地震かと思ったが、そうではなかった。


 廃工場の壁面だけが突き破られる地震など、ありはしないからだ。

 素也はそこに現れた物体を見て、凍りついたように動けなかった。



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