第10話
氷間高校に到着した素也は、下駄箱を抜けて教室に入った。
自分の席に着いて一時限目の授業の用意をしながら、義経を気にしていた。
しかし、SHRの時間になっても、義経は登校してこなかった。
担任の冬村教諭が教室に入ってきて、出席を取りはじめる。
「臼井……臼井は休みか?」
出席簿に欠席の印が書き込まれそうなところで、素也が手を上げた。
「あの、義経は迷子の道案内で遅れてます」
「うん? そうか。臼井は保留、と」
冬村教諭は平然とした態度を保ちながらも、手に持っているペンを震わせていた。
未だに素也の顔を直視することが出来ないらしい。
手を下ろした素也が、義経を思い出して呟いた。
「やっぱり手伝えばよかったか」
どこか抜けている義経のことだから、一人で右往左往しているかもしれない、と考えると頭を抱えたくなった。
「……そういえば」
そこで彼が思い出したのは、道を訊ねてきた少女のことだった。
すぐに顔を逸らしたので確実に言えることではないが、あの少女は素也の顔を見て即座に泣かなかった。
「うぅむ」
何故だろう、と少しばかり悩んだが、しっかりした子なのだろう、という結論に落ち着いた。
後は、二人が無事に目的地へ辿り着いてくれるのを祈るのみだ。
「さて授業だ」
気持ちを切り替えた素也は、机から教科書を取り出した。
そして、SHRが終わって冬村教諭が退室し、予鈴が鳴る。
そこでようやく、真理栖が頭を押さえて教室に入ってきた。
自分の席についてへたり込むと、素也の方に顔だけ向けてうめいた。
「……う~、あやうく脳味噌が新品になるところでしたー」
彼女の顔も見ずに、素也は言った。
「新品になれば良かったのに」
「薄情ですねー。『素也さんとの思い出』という宝物が失われるのですよー」
「是非とも失ってくれ。他にも色々と失ってくれて構わん」
「そんなこと言わないでくださいよー。嫌われ者同士、仲良くしましょうよー」
「あ? 嫌われ者同士?」
素也が振り向くと、真理栖は彼の視線を避けるように反対側を向いた。
「……私ら悪魔ですからねー」
「ふぅん」
言い訳のように聞こえる彼女の言葉を聞き流しながらも、すぐさまにかける言葉が見つからない素也は口を噤む。
彼は無理矢理に質問をつくり、真理栖の態度を探るように訊ねた。
「あ、そうだ。義経を見なかったか」
「えっとー、見てませんー」
「そうか。ならいいんだ」
視線を机の上に戻した素也は、調子が出ないような溜息を漏らしてから、一時限目の担当教師が入室してくるのを待った。
そして昼休みになった。
素也は昼飯をどうしようか悩んで、義経の席を見た。
未だに教室には来ていないので、流石に心配していた。
休み時間の合間に携帯で連絡を入れても、留守番電話に繋がるだけだったのだ。
妙なことになってなければいいけどな、と彼は心の中で思った。
自分の席から立ち上がった素也は、隣にある真理栖の席に近づいた。
「おい、昼飯どうする? 金あるのか」
「はあー、金塊なら売るほどあるんですけどね。人間界で現金化してないので無一文ですー」
「なんつー金持ちだよ。……しかし、金塊じゃ昼飯食えないってところに侘しさを感じるよなぁ」
「……でもー、それどころじゃないかもしれませんねー」
「はあ? どういう意味だ――――」
言葉の途中で、素也はその気配に気付いた。
それは一直線に彼のいる教室へ向かってきていた。
教室の戸口が開いて、義経が駆け込んできた。
彼は素也を見つけると、制服の内ポケットに手を突っ込みながら近づいてくる。
真理栖が唐突に言った。
「あー、指輪の所有者が現れましたー」
「ふん!」
素也は電光石火の勢いで、迫り来る義経の顔面に向かって拳を突き出した。
脇を締めたコンパクトな構えは、最小限の動きで最大限の効果を発揮する。
まるで吸い込まれるように放たれた拳が、義経の額を強打した。
一瞬、義経の身体が宙を浮いた。
彼はそのまま重力に逆らうこともなく、床に崩れ落ちる。
残されたのは教室の静寂と、拳を振り切った状態で佇む素也だけだった。
そして時間の針が進みだすように、教室へ僅かな喧騒が戻った。
その喧騒の内容は、《凶面》がパシリも出来ない舎弟を殴り倒した、というものだった。
言葉は違えど、誰もが同じようなことを囁き合っている。
素也は面倒なことが起こる前に、意識を失ったまま床に寝転んでいる義経を肩に担いだ。
義経が妙に幸せそうな顔で気絶しているので、彼は何だか腹が立った。
「ちっ、この野郎。保健室いくぞ。真理栖も来い」
「……相手が相手とはいえー、まさか本当にやるとは思ってませんでしたー」
驚くというより呆れた感じの真理栖は、歩き出した素也の後ろについていく。
「お、おい。大丈夫なのか?」
いつの間にか近づいてきていた遠嶋美宙が、義経を見ながら話しかけてきた。
「応急処置なら私にも出来るが」
「心配すんな。これから本職に見せてくるから」
「……本職?」
不審そうな顔で彼女が素也の顔を覗きこむので、彼は慌てて否定した。
「言っておくが、死体処理のプロに頼むわけじゃないからな。保健室に連れてくだけだ。じゃあな」
素也はそう言って美宙の横を通り抜けた。真理栖もその後に続くが、彼女は通りすがりに一瞬だけ、美宙の目を覗き込んでいた。
彼らが廊下に出ると、普段の三割り増しで視線が集中した。
気の弱い女子生徒などは、購買で買ってきただろうサンドイッチを取り落としていた。
そして、何事かと風紀委員の一人が駆けつけてきて、素也の顔を見て凍りついた。
「あ、ああ、お前、何をしてるんだ」
「んだよ、面倒くせぇな。……って、咲枝じゃないのか」
「し、新堂さんは、今日は学校に来てない……。だから僕がこの区画の担当だけど」
「そっか」
素也は、あいつが休むとは珍しいな、と呟いてから、目の前の風紀委員を見た。
「ど、どどど、どうしよう、落ち着け、落ち着くんだ。例え悪魔のような顔でも、いきなり暴力は……駄目だ、なんか見た感じ、暴力後の後始末っぽいよなぁ」
風紀委員は丸聞こえの独白を漏らし続け、まともな話が出来る様子ではなさそうだった。
これなら新堂が必要とされるのも無理は無いと思われた。
「とにかく俺、こいつを保健室に連れて行くから」
「いや、ちょっと、僕と一緒に風紀委員室へ来ても貰わなきゃ困る!」
「普通は保健室が先だろ……まあ、風紀委員室に行く気もないけど」
「き、君が悪いことをしたんだろ」
「それが何だよ、あぁ?」
自分で殴ったことを棚に上げておいて、気絶した義経が軽く扱われると腹を立てる素也だった。
それでつい、不機嫌さが表情に出たのだろう。
「ひ、ひぃぃいいっ、殺されるぅ!」
風紀委員は、一目散に逃げ去った。
辺りは僅かに騒然となった。
「ふん」
憮然とした表情の素也は、周囲の反応を意識しないように保健室へ向かった。
職員室を避けるように、校舎を大回りして廊下を歩いた。
教師に見つかると大事になりかねないからだ。
そうしてようやく、保健室にたどり着いた。
引き戸を開けると、消毒液のような匂いが漂ってくる。
部屋の窓際に置かれたデスクに白衣を着た女性の人影があった。
保健医は、黒い回転椅子に座って書き物をしていた。
「失礼します」
素也が挨拶すると、保健医の古木粕子教諭がこちらを振り向いた。
「はい、どうしちゃったの? 気分でも悪くな…………ごめんなさい」
「先生、震えながら謝らないでください」
「え? ……ああ、門浪君だったの。私、新任だからまだあなたの顔に慣れていなくて」
俺を怖がる割には言いたいこと遠慮無くを言う先生だな、と素也は思ったが口にしなかった。
代わりに用件を伝える。
「ベッドを借りても良いですか。友達が気絶したので」
古木教諭は、素也の肩に担がれている義経と、その横に立つ真理栖を見比べて言った。
「……何しちゃうの?」
「友達を寝かせて看病するだけです」
「ああ、そう。……私ね、これから急な用事を思い出しちゃって、職員室に行く所だけど」
黒い回転椅子から恐る恐る立ち上がった古木教諭は、担がれている義経に近づいて、閉じられている瞼をこじ開けた。
脈と呼吸の有無も確認する。
「うん、生きてるみたいね。おでこの腫れは、濡れたハンカチで押さえちゃって。これなら寝かせてるだけで大丈夫ね。それじゃ、お願いしちゃうわ」
古木教諭の言葉は、頷こうとした素也を通り過ぎて、真理栖に向けられていた。
真理栖が含み笑いを浮かべながら、はいー、と答える。
自然と素也の顔が、不機嫌そうになった。
彼の機嫌を察知した古木教諭は、うふふふふ、と愛想笑いを浮かべながらデスクに戻って書類を抱え、よろしくね、と真理栖の肩を叩いて保健室から出て行った。
三人だけになった保健室で、真理栖がポツリと言葉を漏らす。
「色んな人にとことん嫌われてますねー。まさか保健医の先生に逃げられるとは思いませんでしたー」
「もう慣れた」
「平気だ、とは言わないんですねー」
「…………」
「素也さんも充分、嘘吐きの素質がありますよー」
えへへ、と笑う真理栖だった。
素也はそれに何も返さず、白いカーテンで区切られた場所にあるベッドへ、義経を寝かせた。
濡れたハンカチでも載せてやろうかと思ったが、ハンカチが無いことに気付いた。
こちらに近づいてくる真理栖に聞いてみる。
「なあ、ハンカチ持ってるか」
「いえー、持ってませんね。ブラでよければ差し上げますけどー」
「いらん」
ハンカチは諦めた素也だった。
彼は気絶している義経の呼吸を確かめた。
息をしているようで、肺も上下していた。
気道も確保されているらしい。
そして、両手を調べた。しかしそこに、指輪らしきものは見当たらなかった。
「……どういうことだ?」
目を細めて威嚇するような声を出す素也は、真理栖を見た。
「まー、こういう対策もあるのですよー」
彼女は義経の足元に近づき、両足の靴下を剥ぎ取った。
すると、左足の中指に指輪が嵌っていた。
「じゃー、素也さんの指輪をこの指輪に触れさせてください。それで終了ですー」
「何か、汚い気がするのは俺だけか」
嫌そうな顔をしながらも、素也は右手の指輪を近づけようとした。
そこで、保健室の戸がノックされた。
彼が振り向いたそこには、少女が立っていた。
それは、今朝に出会った迷子の少女だった。




