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ソロモンズ・リング  作者: 比呂
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第9話


 翌日、門浪家の朝の食卓に三人が揃っていた。


 今日の天気も快晴が続くと思われるような清々しい日差しが窓から差し込み、朗らかな日常の風景がそこにあった。


 テーブルの上には、焼いたトースト、目玉焼き、日本茶が二人分だけ用意されている。


「あの、コーヒーが無かったようなので……」


 と、エプロンをつけたアリカが申し訳なさそうに苦笑した。


「マヨネーズ取ってくださいー」


 既にテーブルについて食事を始めている真理栖が、不平を漏らすように言う。

 それに対し、アリカが甲斐甲斐しく冷蔵庫からマヨネーズを取ってきた。


「目玉焼きにはこれですよー」


 真理栖は目玉焼きの上に、マヨネーズで渦巻きを描いた。

 そして目玉焼きを半分に折りたたみ、フォークで刺して食べた。


 口に入った目玉焼きの反対側から、マヨネーズがボトボトと落ちている。


 そこでようやく、彼は真理栖を睨んだ。


「おい、マヨネーズが落ちてる。気をつけろ」

「ふぁーひ」

「ったく」


 素也は自分の目玉焼きに醤油を垂らしてから、箸で割り裂いて食べる。

 おかしな同居人が増えることに決まったのが、僅か数時間前だとは思えない馴染ようだった。


 素也としては、アリカがこの家にいるのは普通だと思っている。


 元々は彼のものであるし、この家以外に行き場所は無い。

 だが流石に元はフィギュアとはいえ、今は立派な女性である。


 彼女と同じ部屋で就寝することは躊躇われたため、不満がるアリカを説得して、使われていない両親の部屋を使わせるようにした。


 そして一番の問題だったのが、真理栖の処遇だった。

 何故かアリカに対抗するように、素也と同じ部屋を希望してきたのだ。


 彼は断固としてこれを拒否し、狭間へ帰れと言ったら、真理栖が『裸になって素也さんに襲われたって叫びながら近所中を走り回ってやるー』と言って服を脱ぎ始めたので、素也とアリカは必死で彼女を押さえつけた。


 そんなこともあり、素也も渋々だが真理栖を受け入れた。

 彼女も両親の部屋に居候することとなった。


「…………それで、これからのことだけどな」


 食事を終えた素也が、飲み終えた湯飲みをテーブルに置いた。

 他の二人の視線が彼に集中する。


「安藤は――――」


 彼が言いかけたところで、真理栖が掌を突き出して首を横に振る。


「真理栖って呼んでくださいー。個性、大事。これ重要ですー」

「……まあいいけど。で、真理栖はどうやって他の悪魔を探してるんだ?」


 彼女は腕組みをして唸った。


「んー、正確にわかるのは、悪魔の居場所じゃないんですよー。私は『隠された悪事を暴く』って特性なので、見つけられるのは指輪です。しかも、探知系特性を持つ専門の悪魔ほど強くは無いので、本気で隠蔽されるとアウトですー」

「ん? 悪魔のくせに悪事を暴くってのもおかしいけど、それでどうやって指輪を探せるんだよ」

「うふふふー、悪魔が人間界に来てやることなんて、悪事以外の何があるっていうんですか。ソロモン戦争も立派な悪事ですよ。指輪も関連品ですしー」

「そうなのか。……よく天使もそんなこと認めたよなぁ」


 素也がぼやくと、真理栖が薄く笑った。


「天使が悪いことをしないわけではないのですよー。悪魔って分類されてますが、堕ちた天使なんかもいますし、人間にとっての悪なんか関係ありません。天使にとって重要なのは、神にとっての悪なのですー」


 ああ、と呟いた彼は、どこか遠い国の話を聞いているようだった。


「そこら辺の話は、俺にはどうしようもないな。それで、指輪の持ち主を探れる範囲はどれくらいだ」

「はあー、指輪を装着した人間なら、どんなに隠蔽しても五メートル以内で察知できますよー」

「それはつまり、面と向かって話し合う距離にならないと確実にはわからない、ってことだな」


 素也は昨夜の電話の相手を思い出す。

 彼女をこちらから探し出して接触することは、難しいと言わざるを得なかった。


「面目ないですー」

「いや、お前の能力を責めてるわけじゃない。指輪の持ち主を探す方法があるだけマシだ。学校に行ったら持ち主を見つけ次第、俺に報告してくれ」

「了解ですー。でもどうするんですか。殴ります?」

「そればっかりは、時と場合と相手によるな。いくら指輪の持ち主でも、授業中に教室で女子を殴るわけにもいかないだろ」

「人としてどうかと思いますねー」

「ま、そういうことだ」


 三人の内の一人には心当たりが無いこともないしな、と心の中で呟いた。

 放課後に呼び出されている相手は、悪魔か指輪の保持者に違いない。


 直接会ってみて、悪意のある悪魔なら逃げ出せばいいし、指輪の保持者がいれば奪ってもいいのだ。

 自分よりも能力があり、善人であるならば、指輪を託しても良いとさえ彼は思う。


「……あの、私はどういたしましょう?」


 食卓の食器を片付け終わったアリカが、控えめに聞いてきた。

 素也は、彼女の表情を見つめる。


 アリカと話せなくなるということだけが、心残りになりそうだった。


「あの、素也?」


 聞き返してくるアリカに、彼は感情を抑えた声で言った。


「家にいてくれ。本拠地を守ってくれれば、それでいい」

「……そうですか。はい、わかりました。任せてください」


 彼女は少しだけ残念そうに笑ったのだった。


「それでは、お守りと言っては難ですが、これをお持ちください」


 自分の長い黒髪に手を伸ばしたアリカは、髪の毛を一本だけ引き抜いた。

 そして素也の右手を取り、小指の付け根に黒髪を巻きつける。


「え、え?」


 されるがままになっている素也は、照れと緊張で顔が真っ赤に染まっていた。


 まるで初恋の人に初めて触れたような初々しさではあったが、悪人面のために女性遍歴が皆無な彼のことを思えば無理もない。


「その髪は危険を察知すると切れるようになっています。髪が切れたことは、私も気付きますのでご安心ください」


 そう言われて微笑まれると、彼はだらしない顔になるしかなかった。


「あ、ああ、うん、ありがとう」

「それでも間に合わないときは、願い事を呟いてくださいね」

「願い事?」

「ええ。心からの願い事ならば、きっと叶いますよ。私のように」


 素也は自分を励ましてくれていることに気付いた。

 アリカの心遣いが嬉しくて顔が緩む。


「……そっか。そうだな。それじゃ、学校に行ってくるよ」


 浮き足立っている素也は椅子から離れ、足元に置いてあった鞄を持ち上げた。

 彼を見送るように、アリカも一緒に玄関に向かう。


「あ、待ってくださいよー」


 二人が話している隙に、テレビでやっている朝の星座占いを見ていた真理栖は出遅れていた。

 リモコンでテレビの電源を落とすと、素也の背中を追う。


「いってきます」

「いってきますー」


 素也と真理栖がそう言って玄関から出て行った。


 残されたアリカが、二人の姿が見えなくなるまで手を降った。

 そして、玄関を閉めて鍵をかける。


 アリカが留守番をするに当っての素也の指示は、昨日の時点で明確に示されている。

 それは、何もしないでいい、ということだった。


 もしも近所の人が家に訪れるようであれば、親戚の居候ということを説明することになっている。

 彼女は、周囲に誰もいないことを確認すると、考え事でもするような顔をした。


「――――何だか心配です。上手くいくと良いですけど」


 玄関に背を向け、アリカは音もなく廊下を歩いた。



 高校へ向かう素也は、通学路を歩いていた。

 隣には真理栖がいる。


 黙って歩いている分には、彼女は綺麗な顔立ちをしていた。

 義経が騒ぐのも無理はない、と彼は思った。


 突然、前を向いていた真理栖がこちらを向く。


「? 何か用ですかー」

「何もねぇよ。……あ、いや」


 そこで素也は思いついたことがあった。


「悪魔って男ばかりだと思ってたんだけど、女もいたんだな」

「へ? 普通にいますよー。というか、特に性別を気にしてないだけです。頑張ればどっちにもなれますけどー」


 今は無理ですが、と真理栖が付け加える。


「そんなもんなのか」


 それほど興味がなさそうに言う素也だった。

 流石に今ここで彼女が男になれば困惑するが、時間が経てば慣れるだろう、くらいの感想しかない。


 真理栖は口を尖らせて文句を言っていた。


「ちょっと『地獄の門』が故障してましてねー。姿に不具合が出てるんですよ。人間の書物に出てくる私たちとは、ちょっと違ってると思いますー」

「はあ? 人間の書物、ってお前、有名なのか?」

「ええ、人間に呼ばれては、ちょくちょく人間界に顔を出してましたからねー。最近は忘れられたのか、まったく呼ばれませんけど」


 あははー、と笑う真理栖だった。


 そんな彼女の背後から、脱色したような金髪のジャージ女が歩いてきた。

 何処から現れたのかはわからなかったが、敵意は無さそうだった。


「よ、元気そうだな。やっぱりお前は見込んだ通りの男だったぜ」


 三科にしては、珍しく女らしい笑顔だった。

 素也が何かを言う前に、真理栖が訝しげな顔をした。


「んー? 偏平足の声が聞こえますね。空耳でしょうけどー」

「本人目の前にして空耳か……、あたしに対する新しい嫌がらせだな?」


 三科恵瑠は片手で真理栖の頭を掴み、力を込めた。


「え? のぅ! わ、私の、脳がぁ……割れ、われ――――」

「大丈夫だって。割れても治してやっから、な?」


 妙な慰め方をしてから、三科恵瑠は素也に向き直った。


「こいつ、借りてくぜ? すぐ返すから心配するな」


 それだけ言うと、素也の返事も聞かずに、もと来た道を戻っていった。


 彼は何も言えずに二人を見送った。

 片手で真理栖を持ち運んでいる事実を見せ付けられると、彼女もかなり人間離れしているように思われる。


 三科にも聞きたいことが山ほどあったが、当人がいないのではどうしようも無い。


「さて、学校に行くか……」


 と振り向いたところに、唖然としている義経が立っていた。


「な、なあ素也。あれって、三科先生か? 引き摺られてるのは、安藤さん?」

「気にするな。お前は今、夢を見てるんだ」

「あ、そっか、夢か。なあんだ……って、そんなわけねーじゃん!」

「ちっ」


 舌打ちをした素也が、拳を強く握り締める。

 大きく肩を回しながら拳を振りかぶった。


 義経が慌てて両手を振る。


「ちょ、ちょっと待ってくれよ、頭に強い衝撃を与えても記憶がなくなるとは限らないからな! わかった、忘れる、僕は何も見なかった。うん。三科先生? 何それ。わっはっは」

「はぁ」


 溜息をついた素也は、拳を解いた。そういえば、と口を開く。


「何やってんだよ、義経。お前はいつも、この道を使わないだろ」

「そ、そうだ。ちょっと素也に聞きたいことがあったから、寄ってみたんだけど……」

「そうか。で、何だよ」

「いや、な。昨日の夜に、偶然素也の家の前を通りかかったんだけどさ。お前の部屋、凄く光ってなかったか? 僕は家に帰った後で電話したけど話中で繋がらなかったし。何だったんだあれ」

「…………」


 素也は思わず黙り込んでしまった。


 部屋が光ったというのは、アリカが人間になったときのことだろう。

 電話が繋がらなかったのは、悪魔からの電話を受けていたからだ。


 どう説明すればいいか悩む素也だが、そういえば誰からも、他人にソロモン戦争のことを教えるな、とは言われていないことに気がついた。


 同じ学校に通う義経も被害者の一人になりかねない状況において、忠告くらいはした方が良いような気がしてきたのだった。


 彼は仕方なさそうに言った。


「ちょっと変な話だけど、聞いてくれるか?」

「ん? いいよ。僕と素也の仲じゃないか」


 義経はなんでもないことのように言う。

 それで素也も決心がついた。


「あぁ、どこから話せばいいかわからないけど、お前、アリカのこと知ってるよな?」

「そりゃまあね」

「俺、アリカと会話できるようになったんだ。その原因ってのが――――」


 彼が色々なことを説明しようとしたところで、義経が素也の肩を掴んだ。

 彼が慈愛顔で素也を見つめ、首を横に振った。


「それ以上、言わなくていい」

「あ? いや、これからが本番なんだが」

「いいって、本番のことなんか。むしろ聞きたくない。……でも、目覚めたんだな、素也」


 何にだよ、と素也が聞き返す前に、義経が肩から手を放した。


「僕はそんなお前でも、嫌いになったりなんかしないよ」

「気持ち悪いことを言うな」

「ははは、お互い様だろ?」


 愛の力って壁を簡単に乗り越えちゃうから凄いよなぁ、と遠くを見つめて呟く義経だった。


 義経が何を言っているのか理解できない素也は、難しい顔をしている。

 とにかく自分の説明を聞いてくれそうに無いことだけはわかった。


 素也と義経が道端でそんな話をしていたとき、一人の少女が歩み寄ってきた。

 背格好から推測すれば小学生ぐらいだが、私服だったので本当のところはわからない。


 髪形はストレートで、前髪が一直線に揃っていた。

 肌が白く、髪形の所為もあって、古風な日本人形のように見えた。

 白いブラウスに薄い上着を羽織り、紺のスカートを履いている。


「そなたら、少し道を聞きたいのじゃが」


 妙な口調で喋る少女に、二人は同時に振り向いた。


「むう? そなたは何処かで……」


 少女は素也の顔を見て、首を傾げた。眉を寄せ、何かを考えている様子だった。


「あ」


 それを見た素也は、すぐに顔を背ける。


 小さい子供が彼の顔を見ると、九割の確率で大泣きするのだ。

 残り一割は失神してしまうことになる。


 素也は顔を背けながら、義経の肩を叩いた。


「任せていいか? 泣かれるのは困る」

「わかってるよ、先に学校行ってろ。僕がこの子の相手をするから」

「すまん」


 そう言うなり、素也はその場から小走りで離れた。


「ぬ、しばし待たれよ――――」

「…………」


 素也は少女に呼び止められたような気がしたが、振り向いて泣かれては話にならないので、とにかく学校へ急ぐことにした。


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