その1
断じてSFではありません。
その日は、なんだか朝から妙な気分だった。
カーテンを開けると真っ青な青空が広がっていた。昨日の雨が嘘みたいだったが、どういうわけかありがたみを感じなかった。
時計を見ると、まだ六時半だった。もう太陽は昇りきっている。夏を感じさせた。
カレンダーにつけられた赤丸は、今日が特別な日だと示している。
そう、春日井さんとの始めてのデートなのだ。駄目もとの告白だったから、実った嬉しさはまた格別だ。
ちなみに春日井さんが何者かというと、端的に言うと同僚である。
同じ職場で俺は営業、彼女は会社の花形受付嬢。後光でも放ちそうなスイートスマイルは社内でも評判で、おまけにちょっと舌足らずな声で「いらっしゃいませ」なんていわれた日には、クレームをつけに来た客の心すら和らげてしまう破壊力を持っている。当然社内でも狙いを定めていた男達は数知れず。それにも拘らず、今まで彼氏がいなかったってのは奇跡としか言いようがない。結構な数の男性社員がアタックしては玉砕していたというから、この勝利の価値は推して分かって頂ける事と思う。
理由を何気に聞いてみたところ「前から気になっていた」という何とも言えず幸せな言葉が返ってきた。それだけで俺の魂が天に昇る気持ちだったことはいうまでもない。
もちろん、この事は極秘中の極秘事項で、もしも秘密を入れておける金庫があるならその中にしまって鍵はすべて便所に流して人目に曝される事が無いようにしたいところだ。
万が一にも俺達の関係が白日の下に曝されたりなんかした日には、俺は社内を歩くことはおろか、会社に向かう電車に乗ることだってできなくなるだろう。
シャワーを浴びて、きちんと髭をそって、髪も整える。それからこの日のために買い求めたジャケットなどに袖を通したりなんかして。
支度をしていると、だんだん浮かれてきた。浮かれついでに起き抜けの妙な気分も吹っ飛ばそうとしたが、鏡を見て俺の気持ちは途端に落ち着いた。
その姿に、妙な見覚えを感じたのだ。おかしい。ジャケットなんて、今までの人生で袖を通したことはない。ましてや、このジャケットはこの日のために一昨日買いに行ったばかりだ。
「どうも妙だ」
呟いてみる。のどの奥に何かつっかえているような気分だった。
何か、大事なことを忘れている?
違うような気もしたが、それが一番近い表現であるようにも思う。全く妙な気分だった。
待ち合わせ場所までは車でたったの十五分。
約束の時間は十時だから、余裕綽々過ぎるほどだ。そんなわけで、俺は一度袖を通したジャケットを脱いでゆっくりと朝食をとることにした。
トーストを二枚焼いて、バターを塗ったらハムとチーズを挟む。俺が知りうる限りで最高の朝飯、ホットサンドである。プレスして作るマシーンがないので、手のひらでぎゅっと押しつぶす。この圧着の一手間が、たまらない一体感を生み出すと思うのは俺だけだろうか。ともあれ、これに一番合うのはホットミルクと相場が決まっている。
喫茶店のしゃれたモーニングには、判で押したようにコーヒーが付いてくるが、朝食にはホットミルクだと思うのだ。パンと牛乳の相性の良さは、フレンチトーストがはっきりと示しているではないか。コーヒーに浸したパンを焼いて食べたって、多分美味くない。
ま、そんなことはどうでも良いんだが。
お気に入りのマグカップを棚から取り出して、冷蔵庫から牛乳を取り出す。牛乳をマグカップに注ごうとして、ふとさっきの嫌な感覚に襲われた。このマグカップに注ぐと、後で大騒ぎする羽目になるような気がしたのだ。
もちろん、気のせい以外のなんでもないのだが、念のためマグカップの取っ手を見てみる。
……ひびが入っていた。
別のコップに注いで電子レンジに入れる。温まるのを待つ間、ホットサンドをかじりながら俺は首をずっと傾げていた。どうもおかしい。俺は予言者にでもなってしまったのだろうか。
ホットミルクをこぼすことなく飲み干し、時計を見ると九時過ぎだった。今から出れば、調度早めに着いて少し待つ感じだろうか。悪くない。
俺は車のキーをポケットに入れて家を出た。
待ち合わせ場所には三十分前に着いた。
初めてのデートだし、先に来て待っておくのはマナーというものだろう。
そして待つこと四十分。つまり、春日井さんは待ち合わせに十分ほど遅刻してきたわけだ。それぐらいなら別にどうってことは無い。デートで十分ぐらいの遅刻に目くじら立てて怒鳴り散らすようなら、はっきり言ってデートそのものをやめたほうが無難であろうと俺は思う。
「あ、あれぇ?」
謝罪より前に、春日井さんの口からはそんな素っ頓狂な声が飛び出してきた。まるで、俺が時間前についているのが意外とでも言いたげな。うーん、なんか悲しいぞ。
ちなみに春日井さんは実に春らしい淡い色合いのワンピースを着ていて、それがまた特別に誂えたのかと思うほどに似合っていた。手に持ったバッグもまた服装とよく似合っていて、この姿を見られただけでもここに来た甲斐があるというものだ。
そんなわけで、眼福のお礼に素っ頓狂な声は聞き流すことにした。
「ご、ごめんなさい、遅くなっちゃって……。……おかしいな」
どうして首を傾げるのか。
悲しい気分になりつつ、とりあえず俺は春日井さんを助手席にエスコート。大して高価な車じゃないが、春日井さんは不満そうな顔一つせずに「ありがとう」と言って乗り込んでくれた。全く、ブランド志向のバカ女に学んでもらいたい素敵な笑顔だ。




