29話目 犬申の仲 上
この日、私にとって決定的な事が起こった。
普通の平日で、窓から覗く雨雲と同じように心が晴れないまま、朝のHRで担任の「今日はメンテナンスだのなんだの」という長話をぼんやりと聞き流していた。
昼休み、お手洗いに向かうと近くにある階段で酉水がこの前話していた先輩女子と話しをしていた。以前より親しげで、連絡先でも交換しているのか酉水が頭を下げながらスマホを取り出して何かを操作をしている。
しつこいようだけど、ルール違反を犯さないように私はすぐにお手洗いの中に入った。やっぱり謎の違和感が体の中から内臟を擽るようにして落ち着かない。
これはまだほんの序章で問題は放課後。
この日は酉水の腿の張りもなくなり、「デ部」のトレーニングを行う日。でも、アイツとあまり顔を合わせたくない私は教室に居残り友達と時間を潰して帰宅をした。
ブツ森も何もやる気が起きない空虚感のまま最寄駅へと着く。帰りたくないと思っても、しっかりと私の身体を地元へと運ぶ電車が憎らしかった。
気が重いまま足を動かして駅の改札を抜ける。空は今にも雨が降り出しそうな意地の悪い雲が続いている。アスファルトや植木の葉が濡れていたので、先程まで割と強い雨が降っていたのかも知れない。
トレーニングの時間まであまり時間はないけど、気分転換で少し寄り道をしようと商店街へ向かう。
そこで、酉水とばったり出くわした。更にその隣には犬爪某の姿があった。2人は飲み物を片手に持ちながら仲良さそうにしている。
2人とも目を瞬かせながら私の顔を覗き、犬爪某がバツが悪そうに視線を外す仕草を見た瞬間、頭の中で何かが崩れる音がした。
時間だとか努力だとか、他にも言葉では言い表せない様々なブロックを、私と酉水とで3年間地道に積み上げた2人だけのタワー。
そのタワーを酉水の指先によってツンと押され、倒されて台無しにされたような悲惨な音。
人がそれを「裏切り」と呼ぶのなら、私は酉水に裏切られた。
・・・でもそれは違う。
別に私達の間に制約があったわけでもない。
それに、「デ部」の活動成果で言えばこれ以上ない最高の結果じゃないの。
幼馴染に肥満を理由にフラれて、努力してダイエット以上に肉体改造を施して、見返して晴れて結ばれる。頭で考えるのと、その現場に実際に遭遇するとでは心への染み込み方ってこんなに違うものなのね。
早合点かもしれない。何か事情があるのかもしれない。
それを確認するために何かを言わなくちゃいけないのに、私の口から溢れたのはむしろ遠ざける言葉だった。
「良かったわね。『デ部』のおかげで仲直りができて。随分とお似合いじゃない」
「あの、これはそn───」
「───純礼」
犬爪某が何かを言おうと口を開いた瞬間、酉水がその先を遮った。驚いた表情で彼女が口を閉ざす。何度か見たことのある穏やかな瞳を私の視線と重ね、そして微笑んだ。
温かな微笑みとは逆に私の頭は冷えていき、酉水の口から何か言い訳が出てくるのを期待している自分にうんざりする。
「妃紗のおかげだよ」
「・・・そう、よかったわね」
「うん、ありがとう」
感謝の言葉がこんなにも毒を含んだものだとは思わなかった。その言葉が耳の中から私の全身に広がっていき、足元が急に頼りなくなる。
「そ、それじゃ『理想の男』になったことだしデ部はもう必要ないわね」
それだけを言い切って私は踵を返した。後ろから犬爪某の声がしたけど構わず私は帰路を歩く。
今さら言い訳や情けなんていならない。私は私でケジメをつける。
◇◆
酉水と犬爪某が一緒にいる現場に遭遇してから二週間が経過した。
あの日を境に私は夕方に河川敷に行っていないし、土日にアイツの家を訪れることもしなくなった。
"あのさ、念願叶ってアンタに彼女ができたらあーちゃんの世話はどうするつもりでいるの?"
"言っておくけど、私は『デ部』をただの馴れ合いで終わらせる気はないから"
いつだかアイツに忠告した事が今起こっているだけ。だから結局は時間の問題ってだけの話。
それにアイツの言葉を借りるのであればこれも立派な「現場主義」よ。現場判断で私がアイツから距離を取るのを選んだのだから。
"あーちゃんのお姉ちゃんだから"
オルゴールの音のように記憶の蓋を開け、アイツの台詞を頭の中で鳴らしてみる。ごめんねあーちゃん。結局私は「お姉ちゃん」じゃなかったみたい。小母さんからのお願い事も、犬爪某にそのまま引き継ぐ形になるんだ。
そう考えた途端、ゴワゴワした空気がお腹の中で膨れ、喉元まで迫り上がり、重い空気となって口から洩れる。自嘲めいた乾いた笑い。帰路へと向かう足取りも鉛みたいに重い。
この離れた二週間で気づいたことがあった。
とにかくやることがないの。
放課後に友達と一緒にダベってクレープを食べたりタピオカを飲んだりしたけど、どうにもしっくり来ない。今まで本当に「デ部」中心の生活を送っていたんだなって改めて思い知った。
それでも私の心境なんて世界は意に介せず回っていく。
校内は一週間を切った文化祭の準備で慌ただしい雰囲気と浮ついた雰囲気がせめぎ合って、活気に満ち溢れていた。
その時には勿論私も準備に参加していた。
クラス展示のちぎり絵の完成まで日程が足りないという嘆きに、担当じゃない人もヘルプで作業をする。
何かに没頭している最中は嫌なことも考えなくて済むから気が楽になる。
この文化祭が終わったら何か熱中できることでも探そうかな。
あれから酉水から声はかけられないしスマホに連絡もない。それが妙にリアリティをもたらし、下世話好きな友達が「なんだか酉水君が7組の犬爪さんに会いに教室に行ってたらしいよ」と、どこから仕入れたのか不明なネタまで提供してきてくれるから、正直放っておいて欲しかった。
いよいよ切羽詰まったクラスのちぎり絵を放課後に手伝い下校したある日のこと。
11月に近づくこの時期は夜の訪れが随分と早く、19時となると空が真っ暗になる。
最寄駅に降りて改札を抜け駅を出ようとすると、「庚申さん」と声をかけられた。
聞き心地の良い声の主は犬爪某で、その声は外気の寒さからか少し震えているようにも聞こえる。心なしか表情も強張っていた。
「犬爪・・・さん」
私は初めて犬爪某と会話をした。




