08
その日、雪久の元を訪れた来客が丘の上へやってきた時、木々は風に揺れて優しい音をたて、鳥たちはいつもより賑やかに歌った。リスが木を駆け回り、縁の下から出てきたネズミは体を揺らし彼を歓迎した。
「これほどの歓待を受けるとは思いませんでした」
雪久の向かいに座った青年は、きらきらと光る美しく長い金の髪と、空のような薄青い瞳を嬉しそうに輝かせた。対する雪久はいつものように薄墨の髪をぴょんと跳ねさせ、彼の来訪を受け入れた。
雪久や冬子の住う国からずっとずっと遠い場所に、今日の来客者の住う国がある。彼らはいわゆる人間とは違い、長い寿命と、神々しいまでの美しさと、高い身体能力を持っていた。本来ならば自然豊かなその国から出ることは殆どなく、だからこそお伽話のように語られていた。
「しかし、異国の方がなぜここに?」
「わたしのことはスノウと呼んで下さい」
「失礼致しました。それで、ご用件というのは」
遠い場所から彼がやってきたのには、なにか特別な理由があるに違いない。それが外交に関わることであれば、本来雪久の知るところではないが、かといって気軽に扱っていいものでもない。そんな緊張を読み取ったのか、美しい青年は少し困ったように眉を下げ、それからふすまのほうを見た。
「お話させて頂きたいのですが、それより先に気になるものがあります。そっとその扉を開けて下さい」
スノウの言葉に雪久は一つ思い当たることがあり、言われたとおりにそっとふすまを開いた。そこには冬子がいて、いたずらがバレた少女のように顔を青くしている。
「冬子くん、君は一体なにをしているんだ」
「せ、先生…! それにお客様も。ごめんなさい、その……先程買い物から戻りまして、ええと……今日の来客がとても美しいと、近所の方々が言っていたので、一目見ようと、あの、本当にごめんなさい」
冬子の言葉はスノウにはわからないが、女性が縮こまっているということはわかる。その様子を穏やかに見つめながら、スノウは雪久へ告げた。
「叱らないでやってください。プリンセスが悲しそうです」
「プリンセス!?」
声を荒げることなど滅多にない雪久が、スノウの言葉に素っ頓狂な声を上げた。それには冬子も驚いた顔をして、雪久とスノウを見る。
「女性は皆、プリンセスでしょう」
「はあ。そういう感覚は私にはありませんがね」
「フフッ。話すことは出来ないが、そちらの方も同席してください。お二人から感じる空気はとても心地よいものです」
にこりと微笑むスノウに、冬子はわけもわからずにこりと返す。雪久はその様子を横目で見ながら、ひとつため息をつき、冬子に隣に座るよう促した。
「それで、なぜこちらに? 移動だけでも大変だったでしょう」
「あなたの噂は我々の耳にも届いています。我々の中には人間の言葉がわかるものもいますが、言葉を交わすまでとはなかなかいきません。性質がそもそも相入れない。未だに古い考えを持つものは、人間を好きではないのです」
悲しげに言ったスノウは、雪久の淹れたカモミールのお茶を飲み、目を伏せる。長い睫毛が影を落とす様は、まるで絵画のようだ。
「あなたは、そうではない……と」
「ええ。人間と話がしてみたいと思っていました。何度か試みたのですが、なかなかうまくいかなくて。そんな時にあなたに会いにくることを思いついたのです。遠いとはいえ、我々の飛脚であればすぐでしたからね」
「ただそれだけのために?」
「そうですが……。いけませんか?」
雪久はスノウの視線を受けて、いつもの柔和な笑みを返す。
「正直、なにがくるのかと身構えてしまったよ。人間を代表してあなたと対話しなければならないのかと」
「まさか! 私はそんな地位のある者ではありませんよ」
雪久の隣に座っていた冬子が、不安そうに雪久を見つめていることに、スノウが気がつき、ふと目を細めた。長い冬の先の、あたたかな春を思わせるような笑みだ。冬子はそれに目を丸くすると、スノウに見えないように、くい、と雪久のシャツを引いた。
「どうした、冬子くん」
「お客様、怒っておられませんか? わたしが覗き見なんてしたから」
「いや、むしろ君がここにいることを望んでいるし、彼はどうやら本当に話がしたいだけらしい。だから緊張しなくてもいい」
「そうですか……」
ほっとした様子の冬子ではあったが、雪久のシャツを掴んだ指先が離れていくことはない。雪久も無理に剥がそうとはせず、スノウとの会話を続けた。
「それで、話してみた感想はいかがですか?」
「あなたは私が想像していた人間よりも随分とこちら側に寄っている。やはりこのような力を持っているからでしょうか」
「私は普通の人間ですよ。ほんの少し耳がよいだけのね」
ぴりりと空気がひりつくのを感じ、冬子は指先に力を入れる。どうにも彼らの間には、性質的に相入れないものがあるようだった。それは種族の違いに由来するものではなく、なにかもっと、本能的な部分での話だ。
「あなたとは時間をかけて仲良くなりたい。そちらのプリンセスも同様にね」
「残念だが、冬子くんにあなたの声は届きませんよ。私が間に入ることはできるが」
「正しく伝えてはもらえない、ということかな?」
スノウの青い瞳が先ほどより深い色になる。互いに柔和な表情のままではあったが、なにかしらバチバチとしたものを感じ、冬子は身震いした。
それからややあって、スノウは国へと帰るべく席を立った。雪久は彼を玄関先まで見送るといい、冬子には部屋にいるようにと告げる。冬子はそれに疑問を浮かべたが、雪久の目の奥に真剣なものを見て、それに従うことにした。
玄関までの廊下を歩きながら、スノウは愉快そうに声を上げた。雪久はそれにじとりと視線を向け、冬子が一度も聞いたことのないであろう舌打ちをする。雪久のほうを向いたスノウの目から、先ほどの柔和さは消えていた。
「大抵の人間の女はアレで連れ去ることが出来るのですが、やはりあなたがそばにいたのがいけないのかな」
「……冬子くんに近づくなよ」
「仲間への土産として、人間の女を適当に連れて帰ろうと思っていたのですが……。すっかり自信をなくしそうですよ」
玄関先に立った異国の男は、来た時と同じように美しく微笑んだ。しかし、今度は鳥は鳴かなかったし、木々は優しい音を立てない。リスは木の穴に、ネズミは縁の下の奥へと逃げた。まるで苛立つ雪久の気配を感じたように。
「止めないのですか? 人間を誘惑するな、とか。それとも大切なのは彼女だけですか?」
雪久はそれに答えない。彼の誘惑に応じるかどうかは個人の問題で雪久が口を出すことではない。ただ一人を除いて。その反応にスノウはまた愉快そうに肩を揺らすと、ふわりと身を翻す。
「それでは、今日のところはさようなら! 友よ、また遊びにきます」
二度と来るな、と小声で呟くその言葉は、すでに遥か遠くへ消えたスノウにも届いたはずであったが、彼はこの先、宣言どおり何度もここにやってくることになる。
苛立ちを隠せずにどたどたと足音をたてて冬子の元に戻った雪久は、珍しく表情を崩した。
「冬子くん! 塩を撒こう」
「えっ? なめくじでも出ましたか?」
「そう、なめくじのようなものだよ……」
部屋に座ったままの冬子がそう言うのを聞いて、雪久はいつもの調子を取り戻した。木々はざわめき、小鳥が騒ぎ、リスやネズミが駆け回る。いつもと変わらない様子がそこにはあった。