06
お手伝いとしてやってきた当時の冬子は、雪久の家に住み込み始めて、丘の下に広がる商店街を利用するようになった。見慣れない女が毎日のように買い物へ来ることに商店街の人間は疑問を持ったらしい。その様子をこっそりと尾行し、冬子が丘の上の屋敷に入って行くのを確認したのは、商店街で井戸端会議をすることが日課の女性たちだった。
「雪久くんに彼女が出来たなんてねえ!」
次の日、冬子は精肉店でそう声をかけられた。雪久くんと呼ばれたのが雇い主であると気が付き、すぐに否定した。自分は彼の家に住み込みで雇われているお手伝いなのだと告げると、精肉店の主人も、その妻も、遠巻きに見ていた井戸端会議の女性たちも、がっくりと肩を落とした。
どうやら雇い主が商店街のみんなに余計な心配をされているらしいということを、冬子はこの時知った。
たしかに雪久は壮年の男で、丘の上の古びた家に住み、数日共に過ごしただけでどこか心配になるような人間だというのは実感している。
背が高く、柔かな表情も悪くない。住人にも嫌われている様子はない。暴力的な面も見られないし、給与の支払いが出来るところを見ると、職もあるのだろう。引く手数多とまではいかなくとも、特定の相手を持つことは難しくないはずだ。冬子はそんなことを考えながら、やはりそれはお節介な話だと頭の中で一蹴した。
「商店街の人に、彼女が出来たのかと言われました」
「え? ああ、あなたが私の恋人とだと? なるほど、それは失礼した。私の方からも訂正しておくよ。しかし精肉店の主人はその手の話が好きだからね、困ったものだ」
今日はピーマンの肉詰めを作った。雪久と冬子は話し合って、食事は一緒に取ることにした。支度もそのほうが楽だったし、なにより誰かと共に食べるほうが美味しいだろうと冬子が言った。冬子は自分が作ったピーマンの肉詰めの、やや形の悪いほうを口にしながら、雪久の言葉に違和感を覚えた。
「精肉店の主人が言ったと、話しましたっけ?」
「え! ああ、それはほら、このお肉が」
「ピーマンも商店街で買ったものです。八百屋の可能性もあったのでは?」
「……」
「まさか、尾行なさっていたんですか?」
仕事ぶりを観察されたのだろうか。それならそれで仕方ないが、だんまりを決め込む雪久の顔は、これまでの柔和で余裕のある青年のものではなく、何かを叱られる少年のようだった。
「わたし、怒ってませんよ」
「本当かい? これから話すことは、信じがたいことだと思うし、きっと気味が悪いと感じることだ。でも、出来ることなら怖がらないでほしい」
箸を置いた雪久に倣い、冬子も同じようにする。怖がるような話だと前置きされれば、否が応にも緊張感は増した。
「私は、あらゆるものと話が出来る」
「……はい?」
「動物や昆虫、あとは死者。言語の違う他国のものでも、なんでも。今日の話はスズメから聞いた。商店街でパンくずをもらっている時にあなたの様子を見かけたと」
「え! いいなあ」
冬子が思ったのはそれだけだった。動物と会話が出来るなんて、とても羨ましい。ただそれだけ。便利だろうというよりも、楽しいだろう。自分も聞いてみたい。ただそう思った。
「それだけかい? 気が狂っているだとか、嘘を言っているだとか、思わないのか?」
「思いませんけど?」
冬子は狼狽する雪久を不思議な目で見た。だが雪久にとってこの告白は、お手伝いとして彼女を招き入れた時から、いつかしなくてはならないと思っていたものだった。
そしてその告白が元で彼女に恐れられるかもしれないと危惧していた。もしそうなったなら、それは仕方がない。彼女が家にやってきてくれて、随分と楽になったことが多くあった。食事はおいしく、その時間が楽しい。それを失うのは、少し残念ではある。
ただ、これで終わりだとしても冬子に恐ろしいものを見るような目を向けられることは、出来ることならないほうがいいと、そう思った。それがなぜなのかはわからないけれど。だから彼女が向ける丸い目に、雪久は拍子抜けした。
「そうか……。思わないのか……」
「はい」
「私の生業はね、そうやって、色々なものの話を聞くことなんだ。だからいつかあなたにも話さねばとは思っていたんだよ」
「言って下されば良かったのに」
「おかしな人間だと思われたくない」
「むしろ自慢できることです。すごいです。あ、お料理冷めちゃいます、食べましょう」
「うん。……いただきます」
食べかけだったピーマンの肉詰めを口にしながら、雪久は両親を思い出した。決して自分を否定しなかった彼らと同じように、冬子がすんなりと受け入れたことが、雪久は嬉しかった。胸の奥がじんわりと温もっていくのを感じていた。