03
冬子はたまに、この丘の上まで登るのが嫌になる。ヤマシタさんでも軽々と登れるほどの丘ではあるが、食料品を買い込んだ日は、丘の途中でなにもかも投げ出したくなるのだ。
今日は雪久の好きな酒が安かった。雪久はそう多く飲むわけではないが、たまの晩酌では楽しそうにしている。ならば、酒の肴も少しばかり作ってやりたい。冬子はそう思い、材料もいくつか追加してしまったのだ。自分の体力を考えずに。
丘が平坦になればいいのに。冬子は足を進めながらそんなことを思った。平たい道なら歩きやすい。いや、荷物がこれほど多ければ同じだろうか。いっそ半分ここに置いて、明日にでも取りにこようか。そんなことを考えていたら、丘の上、家の方から、ぺたりぺたりと音がした。
「冬子くん、大丈夫? どこか痛むのか?」
腹でも痛んでいるかのような、しかめっ面をしていたに違いない。心配そうにする雪久を見て、それから荷物を見ると、雪久はその視線を追って、ほっとしたように眉を下げた。
「たくさん買ってきてくれたようだね。電話をくれたら迎えに行くのだから、連絡しなさい」
「大丈夫だと思ったんです」
「お前は昔からそういうところがあるね。あ、酒だ。嬉しいなあ。たまには冬子くんも一緒にどう?」
「いただきます」
冬子は雪久が荷物を当たり前のように受け取るのを見て、ふと出会った日のことを思い出していた。
それはある春の日。冬子は丘の上をじっと眺めて、意を決したように一歩を踏み出す。
電話で聞いた場所はここであっているはずだ。小高い丘の上、この先に家があるだなんてこれまで知らなかった。
数日前のことを思い返しながら、ゆるやかな坂道を登っていく。町の掲示板に貼ってあった、達筆な文字で書かれた求人募集の紙。住み込みでも通いでも可だという、お手伝いさんの募集。一般的な家事が出来れば業務に問題はないというその条件は、ちょうど職を探していた冬子には願ってもないものだった。ただ一つを除いては。
冬子はその貼り紙を見た時、文字の達筆さからいって、雇い主は老人だろうと思い込んでいた。老人相手の仕事はしたことがなかったが、若い雇い主よりも身の安全が保障されている気がする。住み込みをさせてもらうのなら尚更だ。しかし、電話に出た相手は若い男の声をしていた。
危ないと思ったらすぐに帰ろう。冬子はそう決めていた。人の気配のしない場所での若い男との暮らしなど、危険があるかもしれない。こうやって対面するだけでも、なにかあるかもしれない。本来なら断ればいいものの、冬子は生来生真面目な性格で、せっかく時間をとってくれた相手なのだからと足を運ぶことにしたのだった。
さて、丘をのぼった先にあったのは、お世辞にも新しいとは言えない屋敷だった。辺りは草花が生い茂っているが、無作為に伸び放題というわけではない。玄関先も綺麗にされている。ほんの少し覗き込めば、中庭に咲く花々が見える。その様子に幾分か緊張が解けたのか、呼び鈴を鳴らす手に強張りはなかった。
「はぁーい。ちょっと待って下さいね」
電話口で聞いた男の声が、家の奥の方からする。声を張り上げているようだが、どこか静かな低い声だ。それから、ぺたりぺたりとサンダルの音がして、玄関の扉が開いた。
目の前に立っていたのは、自分よりいくらか年上の男だった。細面で背の高い、ひょろりとした木のような男。薄墨色の髪がぴょんとはねているのは、寝癖だろうか。来客が来るというのに些か緩いのでは。冬子は口から出そうになった言葉を飲み込んで、挨拶をした。
「お電話した冬子と申します」
「はい。電話をくれたのはあなただけなんですよ。中に入ってお話させてもらいたいのだが、いいかな?」
冬子と同じように、雪久も彼女からの電話には驚いていた。お手伝いさんを募集しようと考えた時、想定していたのは年上の人間だったからだ。まさか若い女から電話がくるとは思いもしなかった。断られるだろうかと考えたが、そんな連絡も来ることはなく、冬子は目の前にやってきた。危機感がないのか、誠実なのか。どちらにせよこちらに悪意がないことを示さねばならない。雪久のそういった配慮ある言葉に、冬子はきょとんとした顔を返す。
「ほら、私もあなたも年齢が近そうだ。想定と違ったのではないかな? もし男の家に入ることが不安であれば、ここで帰ってもらってもいい。もちろん、私はあなたに危害を加えるつもりはないし、できれば話を聞いていってほしいと思っているよ」
「ああ、そういう……」
冬子は雪久の言葉にそう囁くように返して、「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。