02
「冬子くん、泳ぐのは得意かい?」
「あまり得意ではないです。人並み程度かと」
「そうか。……金魚は、みんな泳ぐのが得意だと思う?」
「それは、人間に歩くのは得意か? と聞くのと同じようなことの気がしますけど……」
今日のお客さんを見送って、雪久は冬子に尋ねた。雪久も冬子と同じように、人並み程度にしか泳ぐことが出来ない。すいすいと気持ちよく泳ぐ水中の生き物に、どこか憧れがあった。
けれど今日やってきたお客さんである、『少年に連れられてやってきた金魚のミー子』の話は、雪久の考えているものとは違った。
学校が終わったらお邪魔します、少年は前日に電話でそう言って、放課後、丘の上の家へやってきた。ガラスの金魚鉢を大切そうに抱えて坂を登ってくる姿は、少し不安になるくらいだった。
「ミー子の、元気がないんだ」
金魚らしからぬ名前の赤と白の金魚は、金魚鉢の下の方でヒラヒラと、兵児帯のような尾びれを動かしているだけで、優雅に水の中を泳いでいるわけではない。覗き込む雪久と少年のことはまるで見えていないようだ。
「寝てるように見える」
「うん。ボクもそう思う。たまに死んじゃったのかと思うこともあるんだ。水槽が狭いのかなぁとか、餌がおいしくないのかなぁとか、いっぱい考えてみたんだけど、わかんない」
少年は話しているうちに、涙声になっていく。雪久は少年の頭を優しく撫でる。ちょうどその時、家の奥から冬子が出てきた。盆の上には、瓶の炭酸飲料が乗っている。
「シュワシュワするジュース、飲める?」
「うん、飲める」
ポンっと栓を抜く音が丘の上に響き、夕暮れを待っていた鳥たちが、驚いてバタバタと飛び立って行く。炭酸飲料の入った瓶を渡された少年は、嬉しそうにそれを口にした。
「ミー子ちゃん、こんにちは。お話してくれるかな?」
金魚鉢を指先でこんこんとノックするようにして、雪久が訪ねる。ミー子はふと顔を上げ、じとりと雪久を一瞥して、また顔を背けた。
「ミー子ちゃん、人見知りかな」
「違う。人間なんて怖くない」
雪久は自分の問いかけに答えたミー子の声が、少年よりも低い男性の声であることに驚いて、目を丸くした。
「驚いた。君は男の子なのか」
「ミー子なんてふざけた名前つけて、女みたいに可愛がろうとしやがる。お前ら人間は、金魚はひらひら泳ぐものだと思ってるだろ。そういうの面倒臭い」
反抗期の少年のようなことを言う金魚に、雪久は困った顔をする。けれど主人である少年の不安そうな顔を見れば、ここはなんとかしなくては、と話を続けた。ただ、少年の前では話しにくい。冬子のほうを見ると、事情を察したであろう彼女が、お菓子があると少年を家の中へ連れて行ってくれた。
「名前を変えればいいのかな?」
「それよりよ、先生さん。あの女の人とはもう長いのか?」
「冬子くんのことか? 長いよ」
「つうかあで通じ合ってる感じ、イイねぇ!」
金魚に冷やかされている。雪久はその状況に戸惑いつつも、自分のしてほしいことを察してくれる冬子に対する感謝は、たしかに日々感じていた。彼女は優秀な助手なのだ。
「ああいう雌が俺の水槽にもいてくれりゃあいいんだけどな」
「冬子くんみたいな女の人は、そうそう簡単に現れるものではないよ」
「先生、惚気るねえ」
「君には泣くほど心配してくれる主人がいるだろう。まずは女の子より、主人の気持ちに寄り添ってみたらどうかな。せめて彼が見てる時は泳ぐとか」
「……そういうの、うぜぇんだよなあ」
悪態をついたミー子が、くるりと泳いで見せる。満更でもないのだということは、少年にこっそりと伝えておこう。彼は立派な雄金魚で、君の友達になり得るかもしれないと。雪久はそう決めて、金魚鉢を丁寧に持ち上げると、少年と冬子の待つ部屋へ向かった。
少年は冬子が用意した、芋を揚げて塩をまぶした菓子を摘みながら、なにやら楽しげに話しているようだった。それは先ほどの泣きべそをかいていた少年とはまるきり違う表情だ。
「先生、アイツも男なんだぜ?」
「ん?」
「きれいなおねーさんが初恋になっちまうなんてのは、人間も金魚もありがちだと思うがね」
雪久はそれに悩ましい顔をして、このませた金魚と、少年を、早く家に帰してしまわないといけないと思った。それは帰りが遅くなったら危険だし、という理由であるからで、別に、他に意味はない。