01
「先生! 雪久先生!」
今日も朝から丘の上に、冬子の声が響く。雪久は布団の中でもぞりと動いて、それからややあって飛び起きた。
「寝てた……?」
「はい。寝てました。何度も何度も声をかけたのに起きてこられないので、死んでいるのかと顔を見にきたらそれは気持ちよさそうに」
「もっと早く顔を見に来てくれれば……」
「甘えたこと言ってないで、さっさと身支度なさっては?」
そうだね、と雪久は駆け足で洗面所に向かう。雪久がそのままにした布団や、昨晩読みかけで放置された本を片付けて、冬子は台所に戻る。
今日は午前から来客の予定があった。雪久の仕事は、さまざまな生き物の話を聞くことだ。そうして時間を過ごして、対価をもらう。雪久にはその才能があった。言語の違う人間の時もあれば、死者の時も、本来ならば話すことの出来ない生き物の時もある。拝み屋とはまた違う、聞き、話すことに特化した特殊な力だ。
しかし今日の来客は、丘の麓に住む一人暮らしのおばあさんだ。人間であるし、死者でもない。客を値踏みするようなことはないが、身支度を整えておくに越したことはない。相手が動物であれば、寝巻きのままでもいいのだけれど、と、雪久は思った。
「おはよう、冬子くん」
「おはようございます、先生」
身支度を整えた雪久が食卓へやってくる頃には、テーブルの上には朝食が用意されている。何を食べてもおいしいと言う雪久だが、冬子の料理はまた別格だった。今朝も美味しそうな香りがして、腹がぐうと鳴る。
お粥に、冬子特製の漬け物。千切りにしたネギと生姜。二杯目は、練った小麦粉を揚げたパンのようなものを浸して食べるのを楽しみにしていた。
「ほら先生、早く食べてください。お客さんがいらっしゃいますよ」
「朝ごはんはゆっくり食べたい」
「では、次は寝坊しないように」
いただきますと手を合わせる。雪久は、明日は寝坊すまいと決意をして。
朝食が済み、後片付けをする冬子に感謝しながら、雪久は庭に出た。庭仕事は雪久と冬子のどちらも行うが、花の世話は雪久のほうが上手い。花の好む季節には遠い名前の二人だったが、手入れされた庭はいつも草花に囲まれている。
「おはようございます。先生」
「おはようございます。ヤマシタさん」
中庭のほうに直接に顔を出したのが、今日の来客であるヤマシタさんだ。年齢は八十を越えた頃で、数年前に伴侶を亡くしてからは一人で暮らしている。たまにこうして丘を登り会いにくるのを、彼女は健康のためだという。いつか登るのが苦になるまでは、遊びに来たいと。
「そうそう、今日は奥さんも一緒かしら。これねえ、おいしいりんごをもらったんだけど、一人では食べ切れないものだから…」
「ヤマシタさん。彼女は私の世話をしてくれているだけで、奥さんではないんですよ」
「あらやだ。歳を取ると物忘れがひどくてね」
ヤマシタさんはそういうが、彼女の記憶力はしっかりとしたものだ。なのに冬子を雪久の妻だというのは、焦ったい彼らをどうにかしてやりたいという老婆心らしい。雪久もそれを感じながら、受け取ったりんごを渡すべく、家の中にいる冬子に声をかける。
「冬子くーん! ヤマシタさんがいらして、りんごをくれたよ」
「はい先生。ヤマシタさん、いらっしゃいませ。今お茶を持ってきますので」
「あら奥さん、こんにちは」
「あの、ヤマシタさん、わたし奥さんではなくて…」
先ほどと同じように「物忘れがひどくなった」とヤマシタは言って笑った。冬子は雪久のようには対応出来ず、困ったような顔をして雪久を見る。
彼らが共に暮らし始めて、もう随分と長くなる。どこも似ていない男女の二人暮らしであれば、周囲から夫婦だと思われてもおかしくはない。けれど、それは違うのだと言い続けているのだ。近所に住むヤマシタさんが知らないはずもない。
「ヤマシタさん、あまりからかわないでおくれ。冬子くんはその手の冗談にはうまく返せないんだ」
「先生! そんなことありません!」
「ごめん、ごめん。りんご、むいてきてくれるかい?」
「わかりました。ではヤマシタさん、また」
軽く会釈をして部屋に戻る彼女を見送って、ヤマシタさんと雪久は顔を見合わせる。
「先生、あんないい子、そうはいないんだから、さっさと嫁にもらってしまいなさい」
「もらうだなんてヤマシタさん、彼女の気持ちもあるでしょう」
「おやまあ! じゃあ先生は冬子ちゃんをお嫁さんにもらう気持ちはあるのね?」
「そういう話ではなく……」
このままではいけないのだろうかと、雪久は思う。もちろん、冬子がどこか別のところへ行ってしまう可能性を、考えないわけではない。冬子の幸せを願わないわけでもない。けれど、こうして一つ屋根の下で、二人ゆっくりと暮らすのは、なんとも得難い幸せだった。
「甲斐性のない男だねえ」
「それは、まあ……。はい」
雪久の今日の仕事は、一人暮らしの老人の、お節介によるお説教を受けることのようだ。