プロローグ
とある時空の、とある極東の島国によく似た小さな国。そのまた小さな町の、散歩気分で登ることが出来る丘の上に、彼らの店兼家はある。築ウン十年の年季の入った建物の周辺は木々や草花が生い茂っていて、小動物がちらほら顔を出した。
その家の主人である男は、壮年の背が高い人間で、薄墨色の髪のあちこちをひょこひょこと立てている。陽光を浴びて伸びる姿はまるでひょろ長い木のようだ。
「雪久先生、寝癖くらい直してから外に出てください! お客さんがいらしたらどうするんですか」
家の中から女の声がする。雪久と呼ばれた男は振り返ると、寝癖だらけの頭をぺたりと撫でた。しかし寝癖は変わらず、ぴょんと跳ねる。
視線の先に立つ妙齢の女は、割烹着姿で霧吹きを持って立っている。
「おはよう。冬子くん」
雪久に冬子と呼ばれた女は、ハァとため息をついた。これがほぼ毎朝のことだからだ。
「おはようございます、先生。どんな寝方をしたらそんなに寝癖がつくんですか。ほら、こっちに座って下さい」
「普通に眠っても寝癖がついてしまうんだ。おかしいよね」
「今度、眠っている映像を撮影なさったらいかがです? 驚くほど動いているのかもしれませんよ」
招かれて座った縁側で霧吹きから頭に水をかけられている男は、ふと思いついたように言った。
「お前が一緒に寝てくれたなら、私がどんな風に寝ているのかわかるのにね」
「……。それでは先生がうるさくて、わたしが落ち着いて眠れないではないですか。寝癖のために寝ずの番なんて嫌ですよ」
女は先生と呼んだ男の頭をぺしりと軽く叩く。その顔がほんのり赤くなっていることに気付かれまいと、一層激しく水をかけた。
「わあ! そんなに水浸しにしないでくれ。草花じゃないのだから」
「これ以上育っても困りますものね。たしかに少し水をかけすぎました。手拭いを取ってきます」
女がぱたぱたと家の奥に入ったのを見て、雪久は少しだけ笑う。誰も聞いていないと知っていながら、つい呟いてしまった。
「共寝の誘いは、冗談ではないのだけどなあ」
独り言は木々のざわめきの中に消えた。まるでこんなじれったいやりとりを続けて、彼らは長い月日を暮らしているのだ。