統王
大広間に入った二人は絨毯の上を進む。
アッサルートが先導し、クロスは師の動きを真似るので精一杯だった。
どこまで進むべきか、どのような礼を取るべきか、緊張の中で師の振る舞いを注視するあまり、玉座の方を見る余裕を失っていた。
大広間の構造自体は、タルギンのものと大差ない。3倍ほどの広さがあるだけだ。
つまり、玉座の手前には段があり、アッサルートはその手前で跪いた。
クロスも慌てて跪き、顔を伏せる。
「面を上げよ」
段の上より浴びせかけられる言葉に、心臓が一際高鳴った。
張りのある、落ち着いた声。深山が如き貫禄と渓谷が如き深みを併せ持った、確かな経験を感じさせる声。
統王の声だ。
心臓の高鳴りが抑えられぬまま、顔を上げる。
いよいよ統王と対面だ。
世界を統べる、ただ一人の魔界人。
震える瞳で、クロスはついにその顔を見上げた。
まず目についたのは、血の川のような長髪を割って伸びる三本角。
天を衝くように聳えるそれらは、通常のゴン・ガンク族の範疇を超えるほど太く、長く、それ自体が王の冠が如き威容を放っていた。
その下にある眉と目は細く切れ上がり、鼻は高く、肌は燃えゆく絹のように白く滑らかだ。
細い顎には髭も無く、唇の色も薄く、凝った厚手の服に身を包んではいるものの体格も細い。
総じてゴン・ガンク族としては「軟弱」と呼ばれうる、それでいて堂々とした高貴さと危うさを共に感じさせる、実に神秘的な姿をしていた。
御歳200近くだというのに驚異的な若々しさを保っており、まさに物語の登場人物であるかのような風格を具えていた。
これが、統王。
クロスは高鳴っていた心臓が、一転して停止したような感覚を抱いた。
「ストイル、普段は顔すら伏せないお前がそのように振る舞うとは、余にとって良い兆候と取っていいものか?」
背もたれに背を預け、肘掛から伸ばした腕で頬杖をつきながら微笑む。
その姿だけで、28人もの妻全てから愛を受け取れる理由を、心から理解できた。
「この子のためにね。緊張を解すきっかけになるかな〜と思って」
師はあっさりと立ち上がって、あたかも友のように話す。
弟子は足に力が入らず、緊張も相まって一切動けなかった。
「彼が、例の? 思ったより若い」
「ええ、紹介するわね」
どん、という音と共に足先に痛みが走った。
アッサルートが杖の石突でクロスの足を強く叩いたのである。
足先から背筋にかけて走った、突然の痺れるような激痛に目を剥いて叫びながら立ち上がる。
「なっ、何するんですかお師匠様!」
ツボを突いただけの痛みはすぐに引いたが、気恥ずかしさに抗議の声を向ける。
だが、アッサルートはくすくすと笑いながら「クロス・フォーリーズ、私の弟子ですわ」と悪びれもせず統王へ述べる。
それでクロスも慌てて統王の方へ向き直り、師の蛮行を咎めるどころではなくなった。
既に足には力が戻り、膝の震えすら収まっていた。
「ク、クロス・フォーリーズです。あ、その、本日は」
だが、極度の緊張までは解れていなかった。
どう挨拶するか、あらかじめ考えて来ていたのに、ここに立ってしまったらその全てが間違っているような気になってしまう。
結果、しどろもどろと要領を得ぬ音が喉から出るのみで、統王は優しげに手を振ってそれを制した。
「無理せずとも良い、余とてただの人に過ぎぬからな。心を鎮めてからでも、遅くはないさ」
続いて、衛兵らに「下がれ」と命じる。
命令は躊躇なく速やかに実行され、広間にはアッサルートとクロスと統王の3人だけとなった。
そのおかげか、少しだけ心への負担が軽くなったように感じられた。
「ストイル、お前と初めて会った時を思い出すな。彼よりもガチガチに緊張していた」
「あらぁ、もう結婚したつもりなの? 私まだ返事してないと思うのだけれど?」
「嫌なら嫌と言えば良い。遠慮するような仲でもないだろう?」
「魔道士たちがへそを曲げるわよぉ」
「奴らにその度胸と知恵があるなら、俺は魔道士と結婚すべきだな」
人目がなくなって軽くなったのは、クロスの心だけではないようだ。
アッサルートは軽やかに段を上がって統王に迫り、統王は軽めに口調を緩めて立ち上がる。
そして両者は、恋人でも戦友でもあるかのような、熱い抱擁を交わした。
「ストイル、我が星々の光よ」
「コードラン、私の波濤」
耳元で囁き合い、離れてからも互いに指を絡ませ視線を交換する。
その様を、クロスは呆気にとられて眺めていた。
二人がここまで親密な関係とは夢にも思わなかったのだ。
「本当に諦めない人ね。こんな年増に、酔狂だと思われるわよ?」
「何を言う、お前は益々美しくなるばかりだ。心の外も内もな」
「でも"屍の魔女"とは結婚させないわよん。私、そこまで器用じゃないもの」
「ではやはり、彼次第という訳か」
「そうなるわよねぇ」
絡まった指が解かれ、アッサルートが魔女らしい笑みを浮かべながら段を降りる。
統王はその後ろ姿を愛おしそうに眺め、彼女はそれを感じ取りながらも、あえて振り向かなかった。
「それじゃ、あとは二人で、ごゆっくりとね〜」
そしてそのまま、手をひらひらと振って歩き去っていった。
クロスは呆然としたまま、一歩も動けず師の後ろ姿を見送るばかりであった。
「フォーリーズ」
すぐ後ろで声が響き、思わず全身がびくりと跳ねる。
振り向くと、目の前には統王が立っていた。
細身といえど、身長はゴン・ガンク族のそれである。ましてや相手は統王だ。
すぐ間近で見下ろされれば、咄嗟に畏まって礼を取ってしまうものだ。
「緊張は解れたか?」
そんな彼に、統王は笑みを向けた。
慈しむような笑みではなく、友に向けるような、無防備で王には似つかわしくない親しげな笑みだった。
正直、心臓は今も鳴りっぱなしだ。
だが体の硬直は無い。高揚と憧憬と期待があるのみで、恐れはほぼ無くなっていた。
「は、はい。先ほどは失礼を」
「あれを失礼と謗っていては半日を叱責で無駄にしよう。気にするな」
「まことに恐縮の至りで……」
だが相手は、あの統王だ。統世史書に描かれ、数多の詩に謳われ、制度と文化で世界を統べる、伝説の人物である。
クロスは自分自身の誇りのために、畏まらずにはいられなかった。
「堅苦しいのはやめてくれ。俺たちは家族になるかもしれないんだからな」
「へっ?」
だが、思わず素っ頓狂な声が上がる。間抜け面も晒したことだろう。
それに対し、統王も意外そうに眉を上げた。
「君はストイルの拾い子ではないのか?」
「ま、まあ、そうですけど」
「では彼女は君の親代わりだろう。法的にも後見人だったはずだ。ならば俺とストイルが結婚した暁には、君は俺の義理の息子だ」
言われてみればその通りではあるが、ついにクロスは自分の胸を押さえた。
憧れの統王に会えただけでなく、いきなり息子とまで言われたのだ。
アッサルートとの結婚を望むあまりの発言であったとしても、少し衝撃が大き過ぎた。
「大丈夫か?」
「はい、あの、一度に沢山起きすぎて、すいません」
両膝に手をつき、俯いて大きく息をつく。
意識して大きく目を見開き、頭を振ってなんとか切り替える。
そうして気を取り直したのに、再び顔を上げて統王の顔を直視してしまったら、また血流が揺らぐ思いがした。
「ストイルはよく君の話をしているよ。統世史書の殆どを諳んじれるんだってな?」
気を遣ってくれたのか、統王の方から話を振る。
哀れなことに、クロスはそれにまんまと乗っかった。
「はい! 子供の頃から、ずっと夢中でした。ただの歴史書や物語じゃなくって、本当にその場で起きたことが書かれているようで」
やっと引き出せた笑みに、統王も満足げだった。
「この上ない評価だ。あれは可能な限り事実のみを書かせたものだからな。俺の体験談をもとに、証拠や証言を集めて、学者や魔法使いたちに編集させたんだ。"史の魔女"も関わっていたはずだ」
統世史書は、統王ことコードラン・ヴァルグホーン・ハーバントの人生を描き、その周辺の歴史や事物をまとめた史書である。
彼の人生の全てが記されている本であり、現在も新しい版の編纂が営々と続けられている。
「歴史書の意義は何か分かるか? フォーリーズ」
問いかける彼の口調と目は、まるで教師のようだった。
だが、シリネディーク城でクロスを教えた死人たちや"屍の魔女"とは全く違う。
それはまるで、父親が子供に諭すかのようだった。
「えと、後世に記録を残す、ですか?」
「どうして記録を残すんだ? 記録が無くても、死にはしない。心臓は動くし、魔力も消えないし、魂も崩れはしない。天は落ちぬし海も干上がらない。朝が来て、夜が来て、腹が減れば喰らい、眠ければ眠り、盛れば愛し合うだろう」
「発見とか、日々の知恵とか、役に立つものを伝えていくためだと思います」
「では何故書き残さねばならん? 便利な知識は口で伝えていけば良いのではないか? 便利ならば、書かずとも忘れはしないだろう。魔界のサキュバス族は文字を持たなかったが、房中術の技を二千年間伝え続けていた」
「どうして書かねばならん?」と続けて肩に手を置いた統王の思わせぶりな目つきにクロスは気付いた。
そして、答えを得る。彼が導き、クロスが辿り着いた答えを。
「失敗を、忘れないため」
「その通りだ」
微笑んで肩を叩き、背を向けてゆっくりと歩き始める。
その後ろ姿には王者然とした風格さと共に、教師のような奇妙な親しみやすさがあった。
「人は失敗を重ねながら成長するが、多くの者は成功によって果実を得る。故に、失敗を忘れがちだ。果実が実ったのは、一つのやり方が成功したおかげだと。だが真実は、その裏に夥しい数の失敗と犠牲がひしめいている。果実をより多く実らせたいと願った時、その失敗の歴史を知らねば同じ過ちを無駄に繰り返し、無用の犠牲と散財が生ずるだろう」
再びクロスの方を向き直り、腰を下ろす。
だが玉座にではなく、その手前の段に、である。
「実際に歴史を紐解けば、数多の暴君や暗君が同じ過ちを繰り返し、良君や賢君がたった一つの誤解で歴史に陰を落としている。彼らが何を行い、それがどのように影響し、そしてどのような結果を生んだか。歴史書とは、失敗を学ぶ失敗談集だ。そして、時の権力者が己の見栄や恥よりも、使命感と責任感を優先したならば、更に多くを学べる歴史書になるだろう」
足を広げて座し、背を丸めて、膝に肘をつく姿は傭兵のようでもあった。
彼はハーバント家の王子時代、部隊を率いて前線で戦っていた。ゴン・ガンク族の責任ある指揮官として。
段に座して語る姿は、まさにその時代の彼を思わせるものだった。
「統世史書には、俺のほぼ全てがある。俺の犯した過ち、俺の罪、全て書き残す。肉親を裏切ったことも、スロヴ諸族を滅ぼしたことも、スツェルネツァクツを見殺しにしたことも、謀反人らを虐殺したことも、天核教のためカーギ・カリンを弾圧したことも、何もかも書かせた。同じ失敗を防げはしないだろうが、俺なりに、一石を投じたくてな」
彼が挙げた出来事全てを、クロスは知っていた。
誰が登場し、何が行われ、何が起き、そしてどのような悲惨な結末を辿ったかを。
それらは全て、統世史書に書かれていたことであり、それぞれにはっきりと統王の行いが明記されていた。
「だからフォーリーズ、君もいつか歴史書を書き残すといい。"史の魔女"に書かせるだけではなく、自分の手でな。そのために、今は先達の俺に、なんでも聞いてくれ」
両手を広げて、再び友のように笑いかける。
クロスは心が震えた。あの統王に、なんでも訊ねて良いのだ。
統王はアッサルートとの結婚のために、クロスを魔女協会の後継として育てたいだけなのかもしれない。
アッサルートはそんな統王を誘導して、自分の弟子に多くを教えさせるつもりなだけなのかもしれない。
そして二人が二人とも、そんな相手の心算を知りながら、良しとしているだけなのかもしれない。
クロスはそんな二人の間で投げ交わされる手紙のようなものでしかないのかもしれない。
だが、もう止められなかった。
彼とて、魔法使いの弟子なのだ。
「でっ、では統王様、畏れながらっ、一体どうして経済を食兌換という方式に切り替えたのでしょうか?」
それは統王の意表を突いた問いだったようで、彼を数秒の間考え込ませた。
どうやら、簡潔に、短く説明しようとしたのだろう。
だが、その数秒が経つと、彼はやにわに立ち上がった。
「少し歩こうか」
そして、そう提案した。
短い言葉で説明するのを諦めたようである。
じっくりと、散歩でもしながら長話に耽ろうというわけだ。
それはクロスにとって、願ってもないことだった。
「はい、是非!」




