自由
どこかの抜け穴、岩壁と鍾乳石に囲まれた狭い道を、スル・ヤグは走っていた。
背中に主人を背負ったまま、明かりもなく足場も不確かな洞窟を矢のように駆けていた。
恐らく敵はもう追って来ないだろう。”兵の魔女”と言えど、暗闇の中見知らぬ地形を踏み越えてハンターを追うほど勇敢ではないし無謀でもないだろう。
だがそれは足を止める理由にはならなかった。休む理由にはならなかった。油断する理由にはならなかった。
相手は誰の想定も、それこそ誰よりも賢いクランツを以ってしても想定外だった怪物。
あんなことが起きたのならば、今はあらゆることが起こり得た。
故に、走った。
主人を縛り付けるように背負ったままで。
その方が、早いからだ。
クランツは、ひしと『スゥガ・タムト写本』を抱えていた。
計画は──彼のアイデアは、100%の完璧さを得る機会を失った。
悔しさもあれば、悲しみも、嘆きもある。
だが最後の10%が満たされぬからと言って、これまで積み上げてきた90%は計画通りなのだ。
戦力もまだ残っている。諜報網も人脈も、再編成が可能なほど残されている。
ならば自分のアイデアは、まだ死んじゃいない。
実験はまだ終わっていない。
世界は、まだ大きな揺れから立ち直っちゃいない。
今の状況でもし統王の王朝が倒れれば、”進化の子”たちが活躍できるほどの混沌と荒野を作り上げるのは十分に可能!
彼らが全世界を支配するための土壌を作り、それからはまた改めて計画を練り直そう。
この本さえあれば、いくらでも代替案や改良案は見つかるさ。
さっきはあまりの衝撃で動揺してしまったが、まだまだ、これからだ。
本を抱く腕に力を込め、魂にも力を込め直す。
その直後、スル・ヤグが停止した。
意識してブレーキをかけて止まったのではなく、つんのめるようにしてよろよろと姿勢が乱れ、その末に踏み止まるようにして止まったのだ。
「スル? どうしたんだ?」
声をかけるが、返事はない。
その時気付いた、スル・ヤグが息を乱し、うなだれ、体を支える突起ががくがくと震えているのに。
──疲労している?
バカな!
たとえ10km全力疾走したところで、彼女は息一つ乱さない。
それがこの程度の距離で、ここまで消耗するなどあり得ない!
“兵の魔女”と干戈を交え、突起を自切し、私を背負って走っているのを加味しても、ここまで消耗はしない。
彼女だってそれで問題ないと判断したのだから、こうしているんだ。
自然と緩んだ縛めから抜け出て着地し、倒れかけているスル・ヤグに横から手を添える。
「一体、これは──」
本は、小脇に抱えていた。
その本から、唐突に、圧力を感じた。
まるで本そのものが自らの意思で開きたがっているかのように。
何の気なしに「ん?」と視線を下ろした時、覗き込むような形になったため、つい脇の締めが緩む。
その瞬間、開きかけた本の隙間から激しい光が放たれた。
突然のことに飛び退き、本を落としてしまう。
「お、お、おおおおおおおおお!」
だが、直ぐに理解した。
その光が何であるのか、落ちて自然に開かれたページに描かれているのが何なのか。
それが、何の意味を持つのか。
「何なんだ、何なんだお前たちはよぉぉーーーッ!!」
光を防ぐように腕をかざして叫ぶ。
眩しさを遮りながらも、はっきりと見えた。
光から、ページから、現れたものが。
召喚魔法によって出現したものが。
それは、二人。
クロス・フォーリーズ。そして、スル・ヤグの方を向き手をかざしたままのメンデル博士だった。
クロス。
クランツ。
二つの”忌み子”が互いを見つけた時、ようやく両者は”敵”となった。
一方が飛び出し、光を背負ったままという有利を生かして右手を突き出す。
咄嗟にそれを左手で受けた瞬間、左手のひらに激痛と激熱が走った。
突き出された右手に握られていたのは短刀。
クロスがダグナマンバの”軍の魔女”より譲り受けた逸品であるからして、未熟かつ素人同然の手つきであっても容易く手の甲をも貫いたのである。
だがクランツは踏ん張った。痛みと衝撃に崩れも退きもせず、全身に力を込めて、受け止めたのである。
彼が後ずさったのは短刀が抜かれた時だった。
引き切る痛みが筋肉と神経を深くまで裂き抉り、飛び散る血とともに後退せざるを得なくさせた。
同時に、光も消えた。
あとに残った明かりは、クロスが腰に下げたランタンのそれのみ。
己のみが標的とされないよう、明かりを強くしてこの場にいる全員を照らし出させる。
クランツの額には脂汗が滲んでいた。
目の前に立っている男が右手に握っているのは血の滴る短刀。
だが左手には、既に『スゥガ・タムト写本』があった。
なんという、ことだ。
今のは間違いない、召喚魔法だ。
本に描かれた術式の例図を使って飛んできたのか。
そんな、こんな、バカげたことが。
「召喚魔法、か……ふっ、あの統王が、禁じられた知識を解禁するとはな」
うずくまったまま、穴の空いた左手の傷を縛る。
その間、クロスは見下ろしていた。
追撃を加えるでもなく、威嚇するでもなく、ただ冷たい視線をくれてやっていた。
「独占さえしていれば、千年だろうが王朝を保ち続けられるほどの知識だぞ。それを、君のような小僧と共有してしまうなんて……彼の覇者としての器量を読み違えていたようだ」
挑発とも強がりとも取れる言動は、注意をこちらに引き付けるため。
今のが召喚魔法ならば、スル・ヤグに術をかけ続けているあの修道服の男の正体は恐らくグレンゴン・メンデル。
ならばあれは間違いなく奴が得意とする加重魔法”蛮聖”だろう。
上から力で押さえつけるような従来の加重魔法とは異なり、”蛮聖”は対象に”重さ”という概念そのものを注ぎ込み続ける感覚に近い。
対象の重さそのものが増していく魔法であるため、相手の膂力や魔力によって押し返されたり跳ね除けられたりしないという利点はあるが、弱点は二つ。
注ぎ込み続ける都合上、一つの対象に集中し続けなくてはならない。そして対象が有する”重さ”に対する許容量を超えた加重状態は作り出せない。
概して力量で上回る相手を拘束し制圧し続けるのには向いているが、殺傷力は低く、己自身も無防備で、自らとどめを刺すことすら出来ない魔法だ。
つまりクロスの注意を引き続けていれば、スルの身に危険が及ぶことはない。
それよりも、これは幸運だ。この状況は私の運が、まだ尽きていないことの証だ!
こいつらは恐らく自分らよりも先にこの加重魔法を送り込んで、安全を確認してから転移を実行したのだろう。
つまり誰に加重魔法がかかるのかは、完全に運任せの状態だった。
スルに異変が起き始めた時、もし加重魔法がスルにではなく背負われていた私にかかっていたなら。彼女の体の上にいて、本からも最も近かった私が重くされていたなら! 既に一網打尽だった!
重くなった私にスルも押し潰されて、今頃何の抵抗も出来ずにやられていた!
これは機会だ!
私はまだ動ける。
この小僧を排除して本を取り戻す。
そして先生が開発した召喚魔法”さかしま”で、こいつらが来たところへ逆に逃げ込めば、完全に奴らは私を見失う!
統王の世を覆す次の戦いへ、希望が繋がる!
だからこそ、今は探れ。
状況を見定めて最善手を打つのだ!
クロスはすぅっと右手を上げる。
その一挙手一投足を見逃すまいとして、閉じた口の奥で歯を噛み締めた。
そして、クロスは短刀の切っ先を、クランツへと向けた。
「アイランさんは、どこだ」
即座にクランツの思考が巡る。
そうだ、ここで起きたことを、こいつらは何も知らんのだ。
しかも予想できるはずもない、あのような事態は。
こいつらが想像できるのは、どこかの狭い洞窟のような通路をどういう理由かで私とスルだけが進んでいる最中だったということまで。
ハンターが擬皮を脱ぎ捨てていることから緊急的な何事かが起きたというのは察せられても、その緊急の中身については決して答えになど辿り着けない。
つまり、その答えを得られるまで、こいつは私を殺せない。
短刀を引き抜いた後すぐに攻撃を続けて繰り出さなかったのも、それが理由だ。
情報の優位は、圧倒的に私の方にある。
「彼女を探しに来たのか。姫を助けにきた騎士というところかな? 若いというのは全く羨ましいやら呆れるやら」
余裕を見せつつ焦らす。
その意図には気付かれるかもしれないが、だとしてもこちらに付き合う他はないはず。
「……はぁぁ〜〜〜」
? なんだ、その深いため息は?
「面倒だな、もうやっちゃおう」
短刀をしかと握り直し、ずかずかと歩を進める。
やっちゃおう? いまそう言ったのか?
本気……か? なんだ、その目は。
待て、まずい、近付くな。
まずい、こいつ、本気だ!
「ま、待て! 彼女の居場所を知りたくないのか!?」
「アイランさんがお前なんかにどうこうされるわけない。障害さえ除けば、彼女から見つけてくれる」
「遠方に移送してある! 探すとなるとかなりの時間と労力になるぞ!」
「どんな場所にいる標的でも仕留めてしまう”兵の魔女”なら、見つけられたがってる僕なんてあっという間に見つける」
尻餅をついて後ずさるクランツの目の前まで迫り、短刀を持つ手が振り上げられる。
薄暗くとも、白刃の輝きはいやにはっきりと目に映った。
その輝きが線を描くように、振り下ろされる。
「か、彼女はもう”兵の魔女”じゃない!!」
命乞いと同等の意味でかざされた両手の間。
そこで、短刀はぴたりと止まった。
「……どういうことだ?」
興味を引いたのだ。
それが、止まらぬ刃を止めてくれた。
まるでなにものをも防ぐ盾が如く。
「“兵の魔女”の呪いを、解いた! これ以降、もう彼女のようなものは生まれない。何かが継承されることもない! 解き放ったんだ!」
「解き、放った……」
呆然と呟く言葉には、困惑と逡巡が篭っていた。
短刀を握ったまま泳ぎかけた目が、再びクランツに向くまでに数秒を要した。
「どうして、そんなことをする。お前に何の利がある! 言え!」
ともあれ、会話は始まった。
「契約だったんだ! 彼女に協力してもらう見返りに、”兵の魔女”を終わらせる! あの写本と、この”古城”の遺産で実現させた!」
「協力、だと。アイランさんがお前に協力するわけがないだろう!」
「何故だ!? 私を生かしたのはアイランだ! 君と彼女の関係のように、私と彼女も折衝の余地は常にあるものだろう!」
ああ、なんて──
「だからって、どうしてお前に協力なんかする。あの人は、あの人は、愛されたいだけだ! 自分が愛している人に愛されたい、それだけのちっぽけな願いなんだぞ! 世界を壊すだの、新しい世界を作るだの、ましてや革命だなんて、無縁の人なんだ!」
「そこまでわかっているならば、知っているだろう。彼女は、他人を気にしてしまう、気にするからこそ”兵の魔女”の本能を実現するため意識して気にすまいとする。その何万枚にも重なった薄皮状の矛盾の重みから解放されるためには、人間同士の関係が主体となって構築される今の社会体制では不可能なんだ!」
なんて──私は幸運なんだ。
「ッ……なんだ、なんだよお前、何がしたいんだよ! この世界を、彼女をどうするつもりなんだよ……!」
つい先ほど、私は追い詰められた。
本当に、追い詰められたんだ。あの短刀を防ぐ術はなかった。
でもそのおかげで、本気で追い詰められたおかげで、今も追い詰められている演技が真に迫るものとなる。
追い詰められているからこその言葉に、嘘に信憑性がまとわりついてくれる。
少なくとも半分以上は真実であるとなれば、尚更だ。
「……彼女は、アイランは、恩人だ。しかし今の世では、彼女自身も”兵の魔女”もどちらも受け入れられない。だから、まずは統王の世を転覆する。然る後、世界を速やかに民主主義体制へ移行させる。全ての伝統的な貴族を廃し、新たな社会組織、新たな政治体制、新たな行政組織の下で……60議会をモデルケースとした社会運用が行われる」
「議会制、民主主義か」
「そうだ。だが君も……60議会の有様を見たなら知っているはず。結局は旧世界の関係や文化の構造を彼らは継承してしまう。制度だけ新しくても、人間と歴史は新しくはならない。だから、地方分権の美名の下で、徹底的に分断を進める。民族、文化、外見、思想、利益、あらゆるものを理由に全ての人々を対立させ、争わせて、事実上の戦乱状態、無法地帯を乱立させるんだ。当然中枢政治の腐敗も進む。上意なくただ放置された議会制の政治家なんて所詮”責任を取らなくていい貴族”でしかないからな。マンマートでもルネイでもそうだった」
「戦乱を、起こして……それがどうアイランさんのためになるっていうんだ」
「わからないのか? 彼女を縛るものが全てなくなるんだ! 真の自由だよ! 国も法律も協会も使命も、彼女を縛る枷が何もかも消え失せた未来が作れる! そして今日、その一つから解放した。”兵の魔女”であるという事実そのものから!」
「何事も、終わりなんてない。結局新しい束縛が、生まれてしまう」
「ああ、そうだ。だがそれは……彼女への愛から、そして罪悪感から、生まれるんだ」
“進化の子”たちの手によって。
短刀を握る手が震える。
呼吸が荒くなる。
薄闇の中でもわかるぐらい、汗が滲んでいる。
断じて油断してはならないのに、両目を閉じている。
動揺は明らかだ。
激しい心音まで聞こえてくるようだ。
機だ!
クランツが立ち上がろうと足に力を込める。
その瞬間、閉じていた両目は開かれた。
手の震えは止まった。
汗は止まった。
呼吸は穏やかな深呼吸を形作った。
心臓も、そして魂も、氷のように冷静だった。
「自由とは、枷が無いことじゃない」
短刀を掴む手に、再び力が込められた。
「どの枷を着けるか選べるということだ」
ランタンの時空子が一際強く燃え上がり、短刀が振り下ろされた。
まずい
だが
「時間は稼いだ!」
暗闇の奥から、突如何本もの黒い線が飛来した。
それの一つは短刀に命中して叩き落とさせ、いくつかはクロスの体に突き刺さる前に時空子の炎に焼き尽くされる。
そしていくつかはメンデルの足に突き刺さって、気を逸らさせた。
即座に、スル・ヤグが立ち上がりメンデルを突き飛ばす。
刺し殺すことも斬り殺すこともできたが、そうしなかった。
転倒している間は、加重魔法に集中することなどできなくなるからだ。
「メンデルさん!」
広がった時空子の炎をただちに押し広げ、倒れたメンデルを覆う。
一挙に形勢は逆転した。
「スル! イード!」
しかし
「退却だ!」
暗闇の奥から躍り出たのは、その暗闇を切り取ったかのような黒い影。
同時にスル・ヤグが突起をクランツに巻きつけて、時空子の光の外、暗闇の中へ飛び退いた。
その同じ暗闇へ、黒い影も吸い込まれるようにして消える。
全員が暗闇の中へ消えたとなれば、もう魔法は届かない。
時空子もこれ以上広げて薄めてしまったら、さきほどの飛び道具を防げるものか、自信がなかった。
逃げられて、しまう。
「クロス、写本は暫く、君に預けておく」
「待て! 逃げるな! 卑怯者め!」
屈み込み、横目でメンデルの様子を見る。
足を押さえて苦しげに悶えてはいるが、出血は激しくない。
手で体に触れてみても、呼吸はきちんとできている。内臓に命中もしていないようだ。
だが、今のがもしデ・タンダの忍び武器だったなら、毒が仕込まれている可能性がある。
早く、医者に診せなくては。
「いつか、受け取りに伺わせてもらうよ」
反響する声は遠ざかっていっていた。
そしてそれきり、もうどんな言葉も響いては来なかった。
逃げられた。
なんてことだ、僕の失敗だ。
あいつが、クランツが、憎かった。
あいつへの憎悪が強すぎた。
その憎悪が苛立ちを生み、苛立ちのせいであいつとの会話に付き合ってしまった。
何をしたのかだけを聞き出して、あとは何も聞かずにすぐ殺すべきだったんだ。
そうしなかったせいで、メンデルさんが……
「メンデルさん、大丈夫ですか?」
「くっ、だ、大丈夫ですよ。痛みますが、大した傷では……」
立ち上がろうとして、やはり痛みで崩れてしまう。
その肩を咄嗟に支えた。
「無理なさらず……すいません、私のせいで」
「なあに、私は鈍い男ですからね、痛みにはッ、強いんです」
ズボンを破り、灯りを近づけて傷を見る。
黒い釘のような金属の針が二本、太ももの外側に刺さっていた。
その傷は大きくも深くもなく、出血も少ない。本来ならば下手に引き抜きたくはなかったが、毒が仕込まれている恐れがあっては、引き抜かざるを得なかった。
多量の血がどくどくと溢れ出るが、ランタンの炎をかざし魔鳴法で炎にむしろ血を吸い出させる。
そうしてある程度まで吸い出した後は、魔漏法で今度は炎を押し出した。時空子の炎がうまく意図を汲んで機能してくれるかは不安だったが、押し出された炎はしっかりと傷口を焼いてくれた。
「くっ、うううぅぅぅぅぅ」
精一杯こらえた苦しげな声を聞きながら、焼いた傷口にハンカチを押し付け、適当な布でぐるぐる巻きにする。
途中、傷を冷やすための冷石を巻き込んで固定しておいた。
圧迫し過ぎないよう、丁寧に、ぴっちりと隙間なく。
“腑の魔女”のところで少しだけした手伝いが、思わぬ形で役立ってくれた。
包帯をただ巻くのにも、いくつもの工夫がある、と教わっていたのだ。
そして最後に、太ももの付け根を革帯で締めて圧迫。
これでかなり出血を抑えられるはずだ。
「立てそうですか?」
「やってみましょう、少し、肩を貸して」
「はい」
肩を貸して、ゆっくりと立ち上がってみる。
「どうですか?」
「なんとか、いけそうです」
支えられたまま、そして支えたまま、えっちらおっちらと道を進む。
クランツたちが消えたのとは反対方向に。
追跡など、この場ではもう出来なかった。
「早くこの洞窟を抜けましょう。ここが”古城”の近くなら、武装魔女隊も近くにいるかもしれません」
ここがどこなのか、クロスたちにはまるで見当がついていない。
しかしだからこそ希望があり、だからこそ不安があった。
どちらも覚悟の上での、召喚魔法だった。
「それより、やりましたね。ついに、あの写本をッ、手に入れ、ました」
苦しげに息も絶え絶えながら、メンデルの声には喜びと達成感があった。
彼の視線が向いているのは、クロスが左腕に抱えている一冊の本。
ついに確保したのだ、あの『スゥガ・タムト写本』を。
「ええ、これでもう、この本のために誰も不幸にはなりません」
「ふふふっ、肩の荷が、降りたようですよ。すごく、晴れ晴れとした、気分です。代償がこんな痛みで済むなら、安いものです」
メンデルはずっと追っていた。
彼はずっと気にかけていた。
この写本のことを、この知識がもたらす影響を。
だから彼は統王の命令に従い、召喚魔法の行使を承諾したのである。
若者を危険な目に遭わせたくなくて自分一人でやるつもりではあったが、今となってはこれで良かったのだとも思えた。
「ありがとう、ございます。フォーリーズさん……あなたのおかげで、心残りはもう……」
「えっ、ちょちょちょっと、何言ってるんですか!? しっかりしてください! ほら、死なないで!」
遥か年上の偉大な学者であり魔法使いであり修道院長の頬をぺしぺしと叩く。
なんとしても、気絶させてはならない。
「ぅ、あぁ、あぶないあぶない」
彼自身も頭を振って気を取り直す。
だが、いつまた気を失いそうになるかわからない。
なんでもいい、何かで意識を引き留めないと。
「メンデルさん、その、不躾ですが……どう思いました?」
「え?」
「さっきの、私と、クランツの会話です。勢いで色々喋っちゃいましたけど、どう思いました?」
「そうですね……私は加重魔法に、集中していたので、部分部分しか、頭に入ってはいませんが……」
「ふぅむ」と唸って顎に手を添える。
きっとそれが、彼の考えるときの癖なのだろう。
「かなり、傲慢さを感じましたね」
「えっ、す、すいません」
「いやいや、あなたのことでは。あのクランツという男、物事全てが、自分の思う、通りにいくべきだと、信じて疑っていないようでした。恥ずかしながら、天核教や魔法の世界には、数多くいる手合いですが……彼のそれは、単に壮大であるという、だけで、根元にあるのはごく単純なもの、のように感じましたね」
「……ということは、まだ」
「ええ、諦めていないでしょう。また、何らかの方法で、世界に牙を向けようとするはず」
その時こそ。
拳を握り締め、決意を固める。
直後だった。
前方の闇の奥から、いくつもの音が聞こえ始めたのだ。
鳴り響く音は明らかにこちらへと接近しており、それがいくつもの足音だと気付いた時にはぼんやりとした光が壁を照らし始めたのが見えた。
即座にランタンを掲げ、短刀の柄を握る。
敵勢か?
メンデルさんを抱えたままで、突破できるか?
にわかに緊張が走り、息を飲む。
引き返したところであっという間に追いつかれるだろう。
それに音が反響して大勢の足音に聞こえるだけで、実際は小勢かもしれない。
ならば機先を制して、驚いている間に突破を図るのが最も成功率が高い。
身構え、そして待ち構える。
そうしてついに、集団の先頭が姿を現した時、できるだけ体を大きく広げて飛び掛か──
「ほげェェェアアアアアアアア!!」
──ろうとした瞬間、凄まじい絶叫で反射的に出足が止まった。
あまりにも、想定を遥か超えて、相手が凄まじい驚きぶりで全身を棒のようにびぃんと立てて跳ね上がったのである。
思わず動きも止まろうというものだ。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ、何よクロスじゃない! 驚かさないでよもう!」
胸を押さえて荒く息をつく、小さなエルフ。
その顔と声には憶えがあった。
彼女の後ろで灯りを携えているアーゲルンの死人にも。
「“光の魔女”さん! と、クリンさん!」
“光の魔女”に遅れて体の力を抜く。
それと同時に、クリンが後ろで控える武装魔女の一人に「これを」と灯りを渡し、それから両手を広げて歩み出る。
その動作で意図を察したクロスは「気をつけて、足を怪我してます」と告げながらメンデルを引き渡した。
抱き留められたメンデルは一旦その場に寝かされ、クリンが傷を診る。
そこへ、クロスも屈み込んで状況を伝えた。
「おそらく、デ・タンダの忍び武器だと思います。数分前に、二本刺されました」
「ふむ……武器に塗る毒なら、遅効毒はあり得ませんね。数分前に刺されて今の傷がこの状態なら、毒は仕込まれていないと思います。さ、これを飲んでください、鎮痛と止血の混合液です」
小瓶を取り出し、中の液体を飲ませる。
すると一口目で、メンデルは吹き出すようにしてそれを吐き出した。
「ちょ、ちょっと、お酒ですかコレ。禁酊の誓いを破るわけには」
「非常時なら天も許してくれるはず。重要なのは酒を飲まないという行為なのですか? 自ら望んで飲みはしないという意思なのですか? あなたが望んだのでないならば、あなたが禁を破ったことにはなりません。それとも天がお決めになった寿命に逆らい一足先に昇天なさるのがお望みですか?」
「……わかりました。ああ、天よ許し給え……」
観念して受け入れると、クリンはあえて無理やり呑ませるように頬を掴んで強引に流し込んだ。
それから、死人の一人を呼びつけると、むせるメンデルを背負わせて後方へと運ばせて行った。
「で、なんでクロスがここいるの?」
改めて、体ごと首を傾げる”光の魔女”。
「ああ、えーと、その……」
目が泳ぐ。
だが、どの道隠せはしない。
“魂感応”を行えるクリンがここにいるのだから。
「……召喚魔法で」
「ふぇ?」と素っ頓狂な声が上がる。
それから、何か気の毒なものを見るような視線が向けられた。
「可哀想……おかしくなっちゃったんだ。クリンに診てもらう?」
「い、いえ! それには及びません。それより、これを」
抱えていた『スゥガ・タムト写本』を差し出す。
目を細め、首を傾けながら「んー?」と装丁を覗き込んだ彼女が、その題字を全て読み終えた瞬間、目をかっと見開いて叫んだ。
「全員目を閉じろ!」と。
すっかり彼女の兵として馴らされた武装魔女たちは逡巡も疑問もなく全員が同時に目を閉じる。
それから、”光の魔女”は写本を受け取った。
眉間にしわを寄せ、神妙な顔つきで確かめるように装丁をまじまじと眺める。
「……これ持ってたヤツは?」
「逃げました。ハンターと、たぶんデ・タンダの忍びに連れられて」
「ちっ、じゃあやっぱしもう追っても無駄ね」
後ろに立つクリンへ写本を投げて寄越す。
それを受け取るや否や、彼女は即座にそれを麻袋に突っ込んだ。
「『いいえ』って答えるだろうけど一応聞いておく、中は読んだ?」
「いいえ」
「んーーーーーまあーーー信じておくわ。で、最後に」
親指を立てて、自分の後ろを指し示す。
仕草や語気からして、指しているのはクリンや武装魔女たちではないとわかった。
「さっきのおっさん、誰?」




