いずれ、また
降り注ぐ『苛む炎』の一つが魔道士に襲いかかり、覆い被さって、隙間から体内へ入り込む。
苦しみと痛みの呻きをあげ、痙攣と共に歯の隙間よりあぶくが溢れた。
瞳を押しやられたように白目を剥き、全身の血管が膨張。
強張った体には筋と血管が浮き上がり、失神していながら筋肉と関節は倒れることを許さなかった。
そしてその者の魂は炎によって一瞬にして焼き尽くされ、代わりのものが鎮座する。
第11代目”兵の魔女”、”肉千切り”アーヴィングラッド・ヘルゼンデルの熱く燃えし魂だ。
白目の上に新たな瞳が、海面を割って浮上するクジラのように現れる。
震える両手が拳の形を作り、ひしゃげる異音を立てながら全身の筋肉と骨格が隆起する。
そして異形の人型と成り果てたそれは、尖った歯を見せて、笑った。
一瞬後、近くにいた魔道士の頸部が消失した。
まるでだるま落としのように、頭、首、胴の順番で並んでいたものから首だけが消えたのである。
そして異形の左手、親指と示指が奇妙な形の、皮膚がついたままの肉を摘み持っていた。
どすん、と頭が根元の断面に着体。
その衝撃で崩れるように体が落下した。
瞬く間に、場は阿鼻叫喚と混沌の坩堝と化した。
『苛む炎』と同化した歴代の”兵の魔女”の魂は逃げ惑う魔道士やごろつきたちに降り注ぎ、肉体を乗っ取って改造しては、殺戮を展開し始めた。
骨の一部を変形させて取り出し、生前に愛用していた武器の模造品を作る者までおり、肉体を使い潰す気満々の無茶苦茶な改造はまさに異形そのものだった。
悲鳴と恐怖が轟き、ごろつきと魔道士たちは互いに押し合い逃げる。
だがその先でまた別の”兵の魔女”の魂が憑依した。
足全体の骨と肉を二つに割って折り組み換え、下半身を馬のそれに似せて改造したのは第6代目”兵の魔女”、”たてがみの影”アセナシュ・ヘルゼンデルだ。
片手に短槍を握り、馬のような目をぎょろりと回すと、いななきと共に近くのごろつきの顔を前足で蹴り潰した。
「そんな、そんな、馬鹿な、こんなこと、起こり得るはずがない」
その光景を、クランツは呆然と見つめていた。
「肉体が作り出して届けるような痛みとは訳が違う、意識を構成する要素そのものを、苦痛へと変換してしまうんだぞ、耐えられるはずがない、耐えるなどという問題ではない。自我なんて、保っていられるはずがない」
「いいえ、”あたしたち”はずぅっと耐えてきた。来る日も来る日も、生きている時から、生まれる前から、ずぅーっと耐え続けて来た。”あたしたち”は300年以上、一人きりだった時なんて無かった。何もかも、全て、この瞬間のために、終わらせるために、私たちは繋ぎ、常に支えていた」
『苛む炎』の一つがカプセルにぶつかり、その熱と圧力を押し付ける。
内側からはアイランがその手で自らの炎を以って押す。
そうして、カプセルは焼け溶け、その部分から割れ破れた。
「ありがと♪」と人魂のような炎に手を振りながら、彼女が歩み出る。
「シヤナ導師に手伝ってもらって、その彼女たちを初めて、一人一人、『苛む炎』の本体から抽出して分離させるのと同時に、エネルギーとの同化も進めた。炎から力をもぎ取って吸収してもらったの。そして、ひとまずわたしの中にいてもらった皆が、出口を見つけた瞬間、殺到したのよ。だから機械は詰まってぶっ壊れた」
「これじゃ、これじゃ……エネルギーが足りない。君たちが、ほとんど持って行ってしまった……」
「ええ、そうねぇ。あなたの悪巧みも、ここで終わりよん」
脱力し、膝をつくクランツの後ろに立つ。
まるで処刑人のように。
「……何故だ」
「んん?」
「何故、なんだ。どうして、私を殺さなかった。私のやることを否定するなら、何故あの時……」
「そんなの、簡単」
絶望を浮かべうつむくクランツを見下ろす。
その顔は、誰にも見られなかった。
誰も直視などできぬ顔だった。
「あなたが、可哀想だと思ったから」
彼女自身、その答えを自覚するのに長い時間がかかった。
「……欺瞞だな。いや、偽善、か」
「ええそうね、でもそんなこと関係ないし無意味、私がその時そう感じたからその通りにした、それだけよ。でもあなたはそこに意味を見出そうとしてしまった、あなたは耐えられなかったのね、自分の命が無意味であるという事実そのものに」
小さなため息が響く。
「やっぱり、あなたは今でも、可哀想」
そして、そっと、クランツの頭に手を乗せた。
涙ぐむ我が子を慰め、慈しむかのように。
この上ない侮辱だった。
だが、その手を払い除ける気力すら湧かなかった。
ただうなだれ、何もかもを受け入れるだけだった。
やがて、アイランはクランツの横を通り抜け、歩を進め離れていく。
彼女が傍まで歩み寄り、膝をついて抱き上げたのは、瀕死のアレクだった。
危険に掠れた呼吸を響かせ、ほとんど目も開いていない。体も冷たくなり始めている。
それでも、震える唇は彼女の名を紡いでいた。
「……ごめんなさい、アレク」
青ざめた額に、自らの額を添えるように当てる。
「あなたは死なせない。わたしと一緒に生きて、死んでくれる人は、もう決まってるの」
そして、傷口に自らの右手を押し当てた。
直後、焼きごてを押し当てたような超高熱が傷口に出現。
体に広がらず、局所的に生じたその熱はアレクの肉体を構成する物質を根源から活性化し、凄まじき勢いで傷口の修復を急がせる。
まるで死の淵に沈みゆく彼に銛を打ち込んで無理矢理命の浜辺へと引っ張り上げるかのような、極限の治癒魔法。
消えかけた意識は両目も口も鼻の穴も最大までかっ開くほどに覚醒し、全てが終わってアイランが己の顔をあげた時には、ただひたすら混乱に目が泳いでいた。
「あ、え、あれっ、アイラン……ぼく刺されて、あれっ?」
慌てたように傷口のあった場所をまさぐり、答えを得たくてすがるような視線を送る。
だが彼女はただ、「しぃー」と口をすぼめて小さな息を吐きながら、彼の唇に人差し指を押し当てた。
「これは全て夢。あなたの人生が見た、小さくて、でも確かにあった夢。だから、いつでもいい、いつかは目を覚ましてね?」
優しく語りかける言葉に、アレクはもう何も言えず、ただ頷くばかりだった。
その様を見てくすりと笑い、彼女は立ち上がる。
「さてと」とクランツの方を改めて振り返りながら。
「クランツ、本当に可哀想な子」
ゆっくりと、確かめるように歩み寄る。
その後ろでは、異形の歴代”兵の魔女”たちによる虐殺の光景が繰り広げられている。
刺し、裂き、齧り、潰し、食らう。獣が如きそれら行為が、人の技で以って行われていた。
各々の戦い方に最適化した異形の姿は、実に機能的に、実に大胆に、実に享楽的に、人体を破壊した。
鬱憤を晴らすかのように、恨みを発散するかのように、高らかに笑いながら。
血と肉と悲鳴と苦痛、それを求めるのは『苛む炎』か彼女たち自身か。
その手にかかった死体は、最早死体であるとすら思えぬような形に加工された。
まるで切り分けられた家畜のように。
それを背負って、アイランは歩く。
処刑場へ歩む執行人が如く。
何千回も歩んだ道をいつも通りに歩むかの如く。
「でも、あなたはもう許されない」
指を揃えて高らかに振り上げられる右手。
その影の中で光り、見下ろす目は輝いていた。
喜びや快楽にではなく、殺意によって。
「死ね」
処刑人の斧同様に振り下ろされる右手。
土壇場の罪人のようにうなだれるクランツの、薄く焼けたうなじに迫る。
そして、薙刀の柄に受け止められた。
スル・ヤグ。
額から緑色の液体を垂らしたまま、彼女は割って入って止めたのだ。
薙刀の刃からは血が滴っている。
今の今まで、戦っていたのだ。憑依した”兵の魔女”たちと。
だが斬っても叩いても貫いても、異形たちは一切堪えるどころか、切り飛ばされた部位を瞬く間に『苛む炎』で繋げて治癒させてしまう。
戦う意味などない。だから、あるじの下へ戻ったのだ。
アイランの歪んだ笑みがこぼれる。
腕に力を込め、スル・ヤグをクランツごと押し潰しにかかったのだ。
擬皮で作られた冷徹な顔が苦しげに歪む。
膝を突き破って黒い突起が突き出される。
両足を狙って突き出された攻撃だが、避けることも弾くこともできる。
それによって体勢が崩れれば、脱出の好機が生まれるだろう。
だから、アイランはどちらもしなかった。
二本の突起が足に突き刺さる。
鮮血が飛び散り、黒い鋭角が骨に食い込んだ。
それを、アイランは踏みつけて固定した。
左足に刺さった突起を右足が踏んだのである。
これでますます、スル・ヤグは地面に強く縫い付けられた。
──こいつ、本気だ。ここで、全霊をかけて、殺す気なんだ。
押し付けられる万力を超えた力に少しずつ、体は押され、畳まれていく。
押し倒されれば、そのまま押し潰され、へし曲がる。
それでも、アイランは力を込め続けるだろう。
一人と一匹を押し潰し、圧力だけで完全に両断するまで。
堪え切れず、スル・ヤグの口からけたたましい咆哮が放たれる。
人間のそれではない、甲高くも恐ろしげで、響く全てを割り砕きそうなほどの叫び。
ハンターの叫びだ。
瞬間、擬皮を一気に脱ぎ、本体とアイランの手の間に挟む。
そして十本ほどの突起で、擬皮ごと包むようにしてアイランの手を突き刺した。
無論、その程度で怯むような彼女ではない。
それはスル・ヤグとて理解していた。
反転してクランツの体を傷つけぬよう抱き締めると、擬皮と手を包みながら突き刺していた突起を全て、自切。
受け止め続けている限りそれは体の一部であり、踏ん張り続けなくてはならない。
だが自切したことによって一瞬だけ、それは体との間に生じる隙間となった。
岩を持ち上げている腕を切断したらば、岩の加重は一瞬だけ体から消え失せる。それと同様。
ほんの一瞬だけではあるが、その一瞬を使ってスル・ヤグは飛び出した。
ごろごろと転がりながら、クランツを傷つけないよう突起で守る。
そして7mほど離れると、弾かれたように立ち上がった。
その背中の突起はひしとクランツを抱えている。
「スル……どうして? 何故なんだ?」
涙ぐんだ問いかけに、答えはない。
スル・ヤグはただ、アイランを睨んでいた。
臨戦体勢の獣のように、姿勢を低くして、唸りながら。
クランツを守る突起の力を、決して緩めも強めもせず。
短いため息。
それを聞いたのはスル・ヤグとアイランだけだった。
「そうか……そうだな、まだだ、まだ終わりじゃない。まだまだ、これからだな」
クランツが左手を握り、印のような形を結ぶ。
それによって、彼の左手のひらに薄く刻まれていた術式の断片が互いに接続。
一つの形を成したそれに魔力が流された瞬間、轟音を立てて天井が崩れた。
だが土埃と衝撃を突き破って落ちてくるのは、岩石ではない。鍾乳石ではない。
赤い光を放ち、駆動音を轟かせながらいくつも降ってくるのは──
「導けずとも、種はもうそこにあるんだ。土を整え、畝を見回り、雑草を刈り、カカシを立てて、後は、天に祈ろう」
──鉄ゴーレムだ。
それに気づいた瞬間、アイランは、背を向けて駆け出した。
守りに行ったのだ、無防備なアレクを。
それが、クランツとスル・ヤグの求めた状況だった。
降り注ぐゴーレムが岩を、地面を、機械を砕きながら着地する。
既に起動済みの術式にて規定された行動はただ一つ。
『全て破壊せよ』
手当たり次第に全てを攻撃するのは”兵の魔女”たちとほぼ同じだったが、ゴーレムは味方すら巻き込んだ。
ひたすら暴れるゴーレム、そしてそれらと乱戦を繰り広げる”兵の魔女”で、その場の混沌は混沌という言葉ですら表現し切れない状況に陥った。
そんな中で、アイランはアレクを抱き締め、混沌の端へ跳んで逃れた。
「わ、うわっ」
顔に彼女の胸が押し当てられ、つい間抜けな声を出してしまう。
しかしアイランは構わず「大丈夫? 怪我してなぁい?」と心配する。
「ぼ、僕は大丈夫、です。でも、あいつが」
アレクが視線を向けた先には、もう誰もいなかった。
クランツの姿もスル・ヤグの姿も、既にない。
「そうね、逃げられちゃった。真上の”古城”にゴーレムどもを待機させてたみたい。もう一息だったんだけど」
「すいません、僕なんかのために……」
「いいのよ、どの道、あの子はもう足掻くだけだわ。それに」
混沌に目を向ける。
既にそこに人はほとんど残っておらず、30の異形と100数体の鉄人形が、身の毛もよだつ轟音や絶叫を音楽として戦っているばかりだった。
と言っても、結局は異形たちが凄まじい勢いでゴーレムたちを処理しているというのが実状だが。
長い間『苛む炎』に焼かれ続けていながら自我を保ち続けた彼女らの腕前と凶暴さと欲望は全く衰えを知らず、まさに怪物のような本性にふさわしき姿と機会を得て、恐ろしき宴の不気味な笑い声を高らかに響かせていた。
「パーティーには、わたしだって参加したいもの」
裂け上がった口から舌なめずりを漏らし、アイランもそこへ飛び出す。
異形たちの中にあっても、彼女は、彼女のままだった。
突き出されるゴーレムの拳を、横から第21代目”兵の魔女””螺旋斑蛇”アザマナク・ヘルゼンデルの背筋鞭が拘束する。
その下を潜り、懐に飛び込んで水晶玉を殴りつけた。
拘束された腕が引き千切れ、水晶玉の破片を飛び散らせながら吹き飛んだ鉄の巨躯を第19代目”兵の魔女””砦崩し”アセトマ・ヘルゼンデルが左手で掴み止め、骨化によって棍棒そのものに変化させた右腕で殴り飛ばした。
飛ばされたゴーレムが別の個体に衝突してめり込み、二体まとめて倒れ伏す。
それを第3代目”兵の魔女””足の下の薔薇”アヴォートグ・ヘルゼンデルが肥大した右足で踏み潰しながら、他のゴーレムを殴り飛ばした。
見たことのない、歴史上見た者などいないであろう光景。
だが、アレクはただ、それを眺めていた。
不思議と恐怖は感じなかった。
彼にはわかっていた。彼女たちは、遊んでいるのだ。
子供が集まって、よくわからないが何やら楽しそうにはしゃいでいる。
規則などない遊び、体を動かすという本能的な喜び。
目の前で起きているのは、それに過ぎないものなのだ。
なんて、ああ、なんて──
「──平和な景色なんだ」
数分後、広場にあるのは無数の死体と、無数の死体だったもの。
そして無数のガラクタと、無数のガラクタだったものだけだった。
その中で、異形たちは立っていた。
ただ立って、見ていた。
中心でうずくまる、第31代目”兵の魔女”アイラン・ヘルゼンデルを。
彼女はいつの間にか、自分の双剣を取り戻して握っていた。
ゴーレムの一体の心臓部に突き刺したまま。
一息に剣を抜きながら、立ち上がる。
最後の一体が光を失い、ガラクタの一つに加わると、双剣をローブの中へ納めた。
そして、ぐるりと、全員を見渡す。
異形たちは微動だにせぬまま、神妙な面持ちで視線を送っていた。
その中で、彼女は──アイラン・ヘルゼンデルは、どさり、とゴーレムに座った。
両手をつき、天を仰ぎ、牙の並んだ口を大きく開ける。
「あー! 楽しかったぁ!」
まさしく、子供の笑顔だった。
爛漫で、満足げな、全てを解放しきった爽やかで童心溢るる無垢な笑顔だった。
異形たちの顔もほころび、笑いが起きる。
歪み、裂き割れた不気味この上ない声の笑いだったが。
「みんな、ありがとねー!」
快活に手を振る姿は、少女そのものだった。
「アイラン」
突如、明確に意味のある言葉と声が、異形の間から投げかけられた。
アイランがそちらへ目を向けると、そこにいるのは比較的人の姿を保った異形だった。
身長は、およそ2m近くあったが。
「……お母様?」
瞬時に、気付いた。
姿が全く異なっていても、すぐにわかった。
アイランの母、第30代目”兵の魔女”、”残光”アラメイン・ヘルゼンデルだと。
その顔は、優しく微笑んでいた。
生前には見たことのない表情を、生前とは全く別の顔で浮かべていた。
「礼を言う、ついにやってくれたな。私たちを解放してくれた、終わらせてくれた。これでもう、”兵の魔女”が生まれることはない。お前のお腹の子が、”兵の魔女”になることは、ない」
『苛む炎』は、既にアイランの体からは完全に消え失せていた。
彼女たちが全て持って行ったのだ。
一度変化した肉体が元に戻るようなことこそないが、少なくとも、それはもう継承されることはない。
彼女は、解放されたのだ。
「ありがとう、娘よ」
そして、彼女たちも。
「だが……すまなかったな。お前には、酷な道だったろう。できれば私の代で、終わらせてやりたかった……」
穏やかな声の響きは、消えゆく幽霊を思わせた。
事実、そうなのだろう。
「アローズ、アメリア、アレフェリア、アイナ、アモロシア、アミタナ、アゼルル、アッカリア……私の娘たち、そして、名すら無き息子たち。あの子らの不幸に報いてやる術がもうないのが、口惜しい」
周囲の異形たちもうつむく。
彼女たち全員に、覚えがあった。
“兵の魔女”の本能と継承のしきたりのままに、犠牲を強いてきた我が子たち。
あの子たちを殺したのは魔女王国でも『苛む炎』でもない、母親だ。
彼女らは、そう信じていた。
それを思えば。残酷さを悔い、我が子らが味わった苦しみと惨たらしさを思えば、魂を焼く炎の苦痛が一体なんだというのか。
捧げた犠牲がより深くより高く積み上がるたびに、彼女たちはその意思をより強固にして耐えていた。
子供たちに最低な仕打ちをし、最低な仕打ちをさせる痛みに、比べれば。
「せめて、私たちは消え去ろう。忌まわしき歴史を抱いて、無意味の彼方へ連れて行く。だから、アイラン」
気付けば、アイランの両目から熱が滲み出ていた。
目の周りに力が入り、澄んだ輝きが雫となってこぼれる。
「お前は、自由だ」
「お母様!」
子供のように駆け出していた。
両手を広げ、雫を散らし、堪え切れぬ感情をこぼしながら。
母の胸に飛び込み、ひしと抱きしめる。
異形と化していようとも、抱き返す腕の暖かさと優しさから感じるのは、慈愛のみだった。
生前には一度も母親らしく抱き締めてくれたことなど無かった。優しさと愛情を感じさせてくれたことなど無かった。
でも、本当は、知っていた。
“兵の魔女”を本当は継がせたくなかったことも。
“兵の魔女”の娘らしからぬ爛漫な少女のまぶしさに、密かに救われていたことも。
お母様が──わたしを愛していたことも。
「……ごめんね、アイラン。こんな、私なんかのところに生まれてきたせいで……」
何もかも初めてだった。
髪を優しく撫でてもらうのも、謝られるのも、柔らかい声をかけてもらうのも。
解放されたからこそ出来ることで、解放されたからこそ受け入れられることだった。
アイランは母の胸の中で、子供のように泣きじゃくった。
もっともっと前にそうすべきであり、そうしたかった。
だからこそ、存分に泣いた。
言いたいことが山ほどあったはずなのに、何も言えなかった。
「でも、ありがとう。私なんかのところに、生まれてきてくれて……本当に、ありがとう」
ぽとりと大粒の雫が、少女の頭に落ちる。
これも、初めてのことだった。
ひとつぶ、ふたつぶ、雫は互いを濡らした。
泣き声が嗚咽に変わった頃、母は屈みながら少女の肩を掴む。
といっても、優しく添えるだけの力だ。
そうして向かい合った我が子の顔は……涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、赤くなっていた。
「せっかくの美人が台無しだね」と笑いながら、袖で拭ってやる。
「お母様、わたし、わたしずっと、お母様みたいに、なりたくないって」
自分の袖でも目を拭いながら、震える声を絞り出す。
アイランのこのような姿など、彼女自身ですら知らなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさいお母様。あの時、わたしが手を取らなければ」
母親の手を取る。子供なら誰もがする自然なことから、全ては始まった。
絶望と痛みに耐え切れず、己を捨てて”兵の魔女”となった。
「いい、いいんだアイラン。お前は、特別だった。ずっとそうだった。そのおかげで私たちは解放されたんだ」
しかしアイランは己を捨て切れなかった。
怪物になり切れなかった。意思なき武器になり切れなかった。本能が全ての獣になり切れなかった。
歴代の”兵の魔女”と同じような術式と宿命に満たされた道具には、なれなかった。
野に遊ぶことを楽しみ、人との関わりを楽しみ、自然の美しさと醜さに目を輝かせて心を躍らせる。
彼女はずっと、少女のままだった。
その気まぐれと人間らしさこそ、アイラン・ヘルゼンデルのみが持ち得た個性だった。
「これで良かったんだよ、これで」
改めて我が子を抱き締める。
強く引き寄せるようにではなく、優しく包み込むように。
アイランも、肩に顔を埋めて鼻いっぱいに母親の母ではない匂いを吸い込んだ。
「愛してる、アイラン。お別れを言う機会をくれて、ありがとう」
消え入るような声の後、体が橙色の輝きに包まれていく。
他の異形たちも共振のように体が光り始めた。
皆の表情は、一様に穏やかであった。
まるで、旅立つ死者のように。
光は胸の内に収束すると、するりと体から抜け出ていく。
30人の魔女たち全てで、それが起こり始めた。
橙色に輝く彼女たちの魂は最早燃えておらず、ただ輝くのみ。
その光が揺らめきながら鍾乳洞を照らし、消えてゆく。
血みどろで、不気味で、儚く、美しい光景だった。
「お母様……」
「さようなら、アイラン。私の愛しい娘……」
アラメインの魂が抜け出て、頭上で漂う。
『いずれ、また』
最期に、そう告げてくれたような気がした。
橙色の輝きが、全て虚空へかき消える。
中身を失った異形がどさどさと倒れ、鍾乳洞には静寂が戻った。
アイランも、母が入っていた異形を、そっと地面に横たわらせる。
「……ごめんね。あなたの体、お返しするわ」
謝罪は、ここに斃れた全ての人間に向けたものだった。
「おい! こっちだぞ!」
「押すな!」
「待ち伏せされてるかもしれん!」
「用心しろ!」
「押すなって!」
ふと、どやどやと騒がしい声と足音が鍾乳洞の入り口から投げかけられた。
視線を移すと、ちょうど武装した兵士たちが多数踏み込んできた。
その先頭に立っているのはザレで、彼の左手にはふん縛られたノックタックが掴まれている。
「こ、こりゃあ」
想像を絶する惨状にザレと兵士たちが驚きつつたじろいだ。
「だ、だから言っただろ! ここはヤベェんだ! 早く逃げようぜェー!」
縛られたままじたばたと暴れるノックタック。
それを兵士の一人が「静かにしないか!」と武器を向けて抑制する。
統王の軍勢。それも兵装から言って、屯所の衛兵ではなく禁軍の精鋭たち。
そう判断したアイランがすっと立ち上がると、兵士たちはびくりと体を震わせて武器を向けた。
「待て待て待て! 味方だ! “兵の魔女”だ!」
その前に立って制するザレ。
すると隊列の後方から「“兵の魔女”ォ!?」と声が上がった。
アイランにとって、聞き覚えのある声だった。
同時に隊列が強引に後ろからどかされ、崩されていく。
そしてそれは──彼女は全員を押しのけて列の最前に飛び出した。
「えぇー!? もしかしてもう終わっちゃったのー!?」
「そのようでございますね」
“光の魔女”クルーラー・グーニィと、その従者クリン・ヴィ・カント。
それに、荷車に積まれたなんだかよくわからない装置。
武装魔女隊の先鋒である彼女らがいるということは、どこかで禁軍と合流した状態でザレからの報せを受け取ったのだろう。
「なぁーによもぉー折角今度は皆殺しにできると思ったのにぃー!」
「どのみちこうなるのならば、ルル様の増援を待った方が良うございましたね」
「たらればは止めてよ! 魚も肝臓もキライなんだから!」
「失礼いたしました。しかし、これは……」
クリンが歩み出ながら周囲を見回す。
「光陽様、ここはこの場の最高位指揮官として、何があったのかをアイラン様にお尋ねになった方がよろしいかと」
「えぇー? 敵いないならもうやだー」
「超元帥なのでしょう? 責任は果たしてもらわねばなりません」
「うっ……わかったわよぅ」
グーニィは渋々歩み出る。
そして、アイランの前に立って、見上げた。
誰も恐れて立てない場所で、恐ろしくて見られない顔を。
「で、何があったの?」
ふてぶてしい態度には投げやりな印象があったが、微笑ましい程度のものだ。
常に傲慢で、図太くて、無遠慮で、自分勝手な彼女のことを、アイランは──
──とてもかわいいと思っていた。
「クランツを取り逃がしました。どこかへ落ち延び、再起を図るでしょう」
「ン逃げたぁ? 追ったら追いつく?」
「難しいかと。ノックタックに案内させながらでは、遅すぎます」
「ちェッ、敵もぶちのめせなきゃ”写本”も手に入らずじまいなんてね」
「光陽様」
「もがッ」
後ろからクリンが主人の口を手で塞ぐ。
人の目がある中で『スゥガ・タムト写本』の話などするからだ。
手足をばたつかせるグーニィに代わり、従者が会話を引き継ぐ。
「我らは如何いたしましょう」
「もう少し、ここで待ちましょう。お片付けでもしながらね」
「かしこまりました。しかし、何を待てばよろしいのでしょう?」
ふっと優しく微笑みながら、背を向ける。
両手を後ろで組み、真っ直ぐに立つその後ろ姿は、あどけない乙女のそれだった。
「わたしの、旦那様♪」




