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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
繋の章
205/208

火焔

トゥッピ・ノックタックはイラついていた。

タバコを噛み、岩に腰掛け、片足を揺すっている。


彼は、投資をしたのだ。

反統王連衡に、統王を倒すという野望そのものに。

そのために様々な都合をつけてやった。

流通網や連絡網として自らの販路とコネを使わせてやり、資金源となる裏取引の段取りを整え、金や物資を滞りなく行き渡らせ、補給維持や拠点維持のために大枚をはたいた。

それがどうだ。盟主は幹部たちを使い捨てにし、とうとうモタグが裏切り、ノーグルーンは死んで、”流木団”の頭目は逮捕、魔界方面の責任者であるノイジーローズまで敵の手に落ちた。

しかも、計画の要である”兵の魔女”は武装魔女隊の襲撃によって行方不明ときている。

悪いことが重なり続けるのは、崩壊の始まりを予感させた。

まして彼は時流に敏い商人。損切りすべきか、覚悟を決めるか、揺れ動き続けていた。

その動揺が彼自身をイラつかせるのだ。




「首領!」


「ああ?」




声をかけてきた部下に、思わず凄んでしまう。

睨まれた男は体を強張らせ、「あ、あの」とどもってしまうが、明後日の方向をおずおずと指差しながら、告げた。


「き、来ました。馬車……」

「馬車ぁ?」


顔をひん曲げながらそう応えたが、数秒すると、意味が理解できた。

勢いよく立ち上がり「どけ!」と部下を押しのけながら力強く歩みを早める。

キャンプ中の他の部下たちの間を通り、とにかく進む。

その先に、見覚えある形の馬車を見つけた時、思わず「おお、天よ! 感謝します!」と叫んでしまった。

駆け寄って檻を覗き込むと、その中ではアイランがちょこんと座っていた。

ノックタックを見つけると、微笑みながら手など振っている。



「ああ、なんてこった! この感動を言い表す言葉は共通語には存在しない! Vezel as zhellihi boochenka xe cederaaaaaana!! 天よ神よ偉大なる魂よこの世全ての神秘よ感謝いたします!」



ノックタックは大げさに天を仰ぎながら目を瞑る。

絶望に沈みかけた彼の心は、晴れやかな光に照らされ澄み渡っていた。

暗雲が晴れたあとの青空のように。



「でかしたぞ! 連れて来たのは誰だ!?」



腕を振るいながら興奮する彼に声をかけたのはザレだった。


「連れて来たのは俺です」

「ザレか! よくやった!」

「戦場から連れ出して守ったのは、あいつです」


親指で後ろを指し示す。

その先にいたのは、馬車の御者席に座ってぐったりとしているアレクだった。



「おぉーあの坊主か! 大した忠誠心だ!」



喜びながら顔を向けるノックタックだったが、その表情はすぐに曇ったのだった。


「……おい、あいつ大丈夫か? 生きてんだろうな?」

「大丈夫です。少し張り切り過ぎたみてえで、疲れてるんですよ。空いてる馬車があれば横にさせてやりてえんですが」

「ああ、生憎空きはない。こっちも負傷者で一杯なんでな」

「それじゃあ、この女と相席させとくのはどうでしょう」

「何ぃ?」

「あの小僧、女とまずまずの仲みてえです。女に面倒看させてやりゃあ手もかからないでしょうよ」

「……あの女は最重要の護衛対象だ。万が一があっちゃ困る」

「俺たち全員でもどうにも出来ないってのに、萎びた小僧一人にどうこう出来るとは思えませんが……首領がそう言うなら」


「あら、わたしは構わないわよぅ!」


格子を掴みながら会話に割り込む。

ノックタックは小さく舌打ちをしてから、振り返った。



「お嬢さん、ここまで色々あった。本当に大変だったんだ。最後の最後で下手打ちたくないんだよ。どうかここは俺に免じて──」

「あの子の看病をしたらいいのよね?」

「は? いや、話を」

「なら別に檻の中じゃなくってもいいわよねぇ?」



両手に力が込められ、格子が大きくたわむように曲がり、檻全体が軋み音をあげた。

それは物が立てる悲鳴そのものであり、檻が檻ではない何かになる一歩手前だった。



「ま、待て! よせ!」



なだめるように両手を突き出して腰を落とす。

それで、アイランによる蛮行は一時停止してくれた。

にっこりと、意味を含んだ微笑みを投げかける。

それでまた、小さな舌打ちが鳴った。



「わかった、わかったよ、好きにしな!」



結局、観念してふて腐れたように背を向ける。

その後ろで、ザレの子分たちがアレクを御者席から下ろしていた。






檻の中、横になったアレクの顔を拭ってやるアイラン。

布は自らの衣服の一部を裂き、水は渡された飲み水を使った。

冷たい布巾で汗と埃を拭い取ってやると、不思議とそれだけで体の疲れも幾分解れた。


しかも、拭くのは顔だけではない。

首、肩、背中、腕、胸、と手当は全身に及んだ。

その度に水をつけ、細い指で絞り、甲斐甲斐しく世話を焼く。

その姿を、アレクは可能な限り視界に収め続けた。

彼女の顔、腕、指、全身、滑らかな動き、柔らかく慈しみ溢れる表情に手つき。

何もかもを、どの一瞬も、逃したくはなかった。記憶に留め続けたかった。

ある予感があったから。



「アイラン」



戦場からここまでの道中で、問題なく話せる程まで回復していた。

消耗からの回復が早いのも、この色褪せることのない情熱も、若さ故だろうか。



「ええ、そうね」



もはや、二人の間には多くの言葉も不要だった。



「その時が近いわ」



馬車は進む。

ノックタックが号令をかけて部下たちを引き連れ、林の中道無き道を進む。

城など影も形も見えてこないが、鬱蒼とした林の中では無理もない。

200名程度の一行はノックタックの後ろにぞろぞろとついて行くように、ただ歩いた。

彼らのほとんどは、自分が何故そうしているのかもわかっていないような表情だった。



「よぉーしここだ!」



行進が止まった時、その目の前にあるのは岩だった。

苔むした岩は他の岩石に比べて取り立てて大きいということも小さいということもなく、苔を被った佇まいは林の風景と同化していた。

その岩肌に左手のひらをぴったりと付けると、懐からごそごそと布切れを取り出す。


「え、えー、Ezeel なん…narn votmake みす、みすぇ……なんて読むんだこれ……」


その布切れを見ながら、胸を張って何かを唱え始める。

途切れ途切れのえっちらおっちらといったような詠唱だったが。



「missendlana」



その後ろから響いた流暢なカシッド・イル語に「あぁ?」と振り向く。

視線の先でにたにたと笑っていたのは、アイランだった。



「Ezeel narn votmake missendlana aun vork、『問いかけにこたえ無し』。秘密結社ヤヴァセナティの標語『問わずしてこたえ無し』の逆の意味よん」



専門家の解説に、ばつが悪そうに「お、おう」と唸りながら改めて岩に向き直る。

そして咳払い一つの後に、布切れを握りしめて唱え上げた。


「『Ezeel narn votmake missendlana aun vork!!』」


高らかに言い切ったその直後、左手で触れていた場所を中心とし、岩全体に幾何学的な亀裂が走る。

ノックタックが驚いて左手を引っ込めるのにも構わず、岩は亀裂から展開し、変形を繰り返す。

その隙間から見えるのは複雑に絡み合った歯車と金属の柱。そしてそれらは全てが連動し続け、岩の形を変えていった。

そうして十数秒後には、岩は真下の地面を掘りながら展延し、地下道に続く階段そのものに変化していた。



「す、すげえ」

「なんだいまの……」



ごろつきたちがざわめく。

それは驚きであり、感動であり、不安であり、恐れであった。

正直ノックタックも驚いていたが、腰の銃を抜いて天に掲げながら振り向いた。


「ビビるな! こっから先はお袋の産道より安全な道だ! ただ進みゃいいんだよ!」


「しかし首領、馬車はどうしましょう」


「ああ!? 馬車、馬車か……そうだな、檻を手曳きの荷車に積み換えて人力で運べ。ザレ、お前に任すぞ!」


「へい」


「それじゃ、行くか」と銃を仕舞い、襟を正して向き直る。

そして、ノックタックを先頭として、一行は地下道へと吸い込まれていった。






「ねえ、アレク」


人力車の檻の中、いくぶんか大きくなった揺れの中で、アイランは彼を見下ろした。

その慈愛の眼差しと微笑みは、母のようでも、女神のようでも、恋人のようでもあった。



「あと数分で、あなたはもうすっかり元気になるわ。そうしたら、あなたはもう自由よ。誓いもなし、したいことを、やればいい。解放されるのよ」

「そんな、もう、終わりなんですか」



アレクの声と視線は縋り付くようだった。

実際、縋り付いているのだろう。



「ええ。でも、何事にも、終わりなんてない。だからわたし達がいるの。終わらないものを終わらせるために、わたし達”兵の魔女”はいた。わたしがあなたから離れたとしても、あなたの人生は続く。でもそれを終わりにすることだって出来るのよ」

「……アイランから、離れたくない。そんな人生なんて、クソだ」

「早まらないで。でも、あなたがそれを本当に望むなら、それもいいのかもしれない。あなたは自由になるんだから。あなたの望みはなぁに?」

「……ずっと、一緒にいたい……アイランのお腹の子供の父親を、八つ裂きに、してやりたい。僕だけの……アイランにしたい」

「なら、そうしたらいい」



ぐいと身を乗り出し、アイランはアレクに馬乗りになった。

さらに体を倒し、仰向けのアレクの鼻先が、アイランの鼻先に触れた。

至近距離、まさに目と鼻の先で互いの目が真正面に存在する。

もはやお互い以外が視界にも、触覚にも存在しなかった。

垂れ下がる髪が顔に触れる感触ですら、他の全ての感覚を削ぎ落としてしまえるほど大きく魂の領域を占有した。

息の暖かさ、衣服越しに感じる肌と肉の柔らかさ。

感じている彼女の何もかもが、アレクの全身全霊を埋め尽くしていた。



「いまここで、わたしを押し倒して、思う存分犯したっていい。拒絶しないって約束するわ」



しかし、だからこそ、アレクの心は掻き乱れた。

震える手がわなわなとアイランの肩へと伸び……ぎゅっと、虚空のみを掴んだ。



「……約束、とか、拒絶しない、とか、犯す、とか」



絞り出す言葉は、これが人生最後だと思えるほど慎重で、同時に大胆だった。



「そんなんじゃ、イヤなんだ。それじゃアイランは、拒絶しない”だけ”だ、約束だからっていう”だけ”だ、僕はもう、それだけじゃ……」

「欲望だけじゃ、足りない?」



アイランの長い舌が、べろりと彼の頬を撫でた。

ぬとついた唾液の感触と臭いすら、彼を意図せずいきりたたせる。

それを、必死で抑え込んでいた。



「最初は、欲望と幸福だけだった……と思う。最初の10日間は、とにかく幸せだった。でも、今じゃもう……あなたがどれだけ素敵か、もう僕にすらわからないんだ」


「……そう」



体を起こし、袖でアレクの頬をうりうりと拭いてやる。

それから、微笑みを浴びせかけた。

獣のそれでも、恋人のそれでも、母のそれでも、女神のそれでもない。

いつも通りの、あらゆる人間に対して向ける笑みだった。



「アレク、もうわたしがあなたのために出来ることは無いのね」



そして、腰を浮かせて、アレクの体から離れた。

同じ檻の中にいるというのに、格子を隔てていた時以上の距離を感じた。


壊れたわけじゃない。

最初から、こうだっただけ。

あるべき形になった。それだけだ。

彼女は僕を捨てる。

わかりきっていたことだ。


でも、涙が滲む。

どうしてだろう、胸が痛む。

抑え切れないものが、こみあげる。




誰にも気づかれないよう、アレクは声を押し殺して泣いた。

さめざめと、嗚咽を噛んで、静かに鼻をせせった。

それは初めての、失恋だった。






一行は地下道を進む。

道はただ土を掘り固めたものから、石によって舗装されたトンネルへと変わっていた。

既にかなりの距離を進んでいる。

窒息対策で松明から魔石灯に持ち替えるほど、トンネルは長く続いた。


「おっ、出口だ!」


だが唐突に、トンネルは途切れた。

ノックタックとごろつきたちが踏み入れたのは巨大な鍾乳洞のようだった。

自然が作り出した天然の空洞は、ごく小さな音すら大きく反響する。

彼は直感していた、ここはヤヴァセナティの古城の真下なのだと。


「すげえ、城の真下に、こんなもんが……」


感嘆の声を響かせながら、魔石灯を掲げて歩く。

ほどなくして、鍾乳洞の各所に据えられた魔石灯が点灯し、洞窟全体を明るく照らした。

そうして、彼らは見た。少し進んだ先で待ち受けている大勢の魔道士と、その先頭に立っているクランツの姿を。

そしてそれらの奥に鎮座している、よくわからない巨大な機械を。


「やあ、よく来たね。歓迎するよ」


両手を広げ、にこやかにノックタック一行を迎える。


「ここまで大変だったろう。さ、こちらへ、さあ」


クランツ自らノックタックの手を引き、労いながら導く。

何が何やらといった様子で呆気にとられているノックタックはただ引かれるがままに、奥へと案内されていった。

一行もそのあとを追い、張り付いたのような満面の笑みを浮かべている魔道士たちに囲まれながら進む。

そうして、一行は巨大な機械まで案内されると、クランツはその前に立って両手を広げた。



「さあ、見たまえ! これこそ、古代錬金術文明カシッド・イルの遺産『両天儀』だ!」



ぽかーんと機械を見上げるノックタックとごろつきたち。

まるで理解ができない物体であったが、何やら非常に精巧な装置のようであることはわかった。



「あ、あー、その、それで、何をするんですか?」



ようやく絞り出せた言葉はそれだけだった。


「よく訊いてくれたね!」


だが、クランツは大喜びでノックタックの隣に立って肩を組む。

そしてともに『両天儀』を見上げた。



「これは、言わば万能の抽出機だ。あのカプセルの中に入れたものから、どんなものであろうと抽出することができる。ヤヴァセナティの連中はこの上に城を建てて、この遺産を占有して修理しようとしていた。ヤヴァセナティという秘密結社自体が、そのために結成されたようなもんさ」

「う、動くんですか?」

「もちろん。ヤヴァセナティの時代じゃ無理だったけど、今なら修理もできるし、使うことだってできる。そのために魔道士をかき集めたんだ」

「えっ? そ、それじゃあ、このために? こいつを使うためだけに、私らは」

「いやいや、大丈夫だよ、当然統王の世界は潰す。そのために必要な装置なのさ。君たちのおかげで、ようやくここまで漕ぎ着けられた。檻をここへ!」



クランツが叫ぶと、がらがらと人力車が列を割って押し出された。

クランツとノックタックの前で、檻の鍵が内側からひねり千切られる。

そして、ゆっくりと開かれた檻の扉からは、まずアレクが飛び降りた。

彼はすぐさま振り返って片膝をつくと、檻を見上げながら片手を差し出す。

まるで王族の手に口付けようとする臣下のように。


檻から伸び、その手にそっと添えられたのは白い細指だった。

誘われるように、エスコートされるように、優雅な気品を振りまきながら、彼女は姿をさらす。

黒い薄手のローブはドレスのようにふわりと浮き、軽やかさと厳かさをともに具えた足取りが洞窟の固い土に柔らかく添えられる。

黒い帽子で主張する薔薇の刺繍すら、今は恐怖を呼び覚ますそれではなかった。


アイラン・ヘルゼンデル。


彼女が降り立つと、魔道士たちは一斉に拍手までした。

変わらぬ笑みをたたえたまま。


立ち上がったアレクが改めてアイランの手を引き、クランツの前まで導く。

コー・ナイルの檻の中で再会した二人は、またもや陽の光が差さぬ場所で対面した。



「久しぶりだね、アイラン」

「そうかしらぁ? 近頃はよく会ってるような気がするわぁ」



笑みを浮かべながらの軽口に、クランツもふっと笑みを強める。

その視線は次に、アレクの方を向いた。



「君が、アレクだね」



体がびくりと震える。

当然、奴は知っていた。

アレクのことも。



「ありがとう、アイランの友達になってくれて」



友達、その響きを小さくうつむいて飲み込んだ。


その瞬間、小さな衝撃を感じた。

とん、と軽く腹を突き飛ばされたような感覚に思わずよろける。


「……え?」


素っ頓狂な、間抜けな声を上げる。

下を向いた時、見えたのは自分の腹部に突き立つ短刀。

そこから滲み溢れる、赤黒い血と染みだった。


「なんだ、これ」


わけがわからない。どうして、いきなり、こんな。

何が起こった? 何が起こっている? これは現実か?

痛い、足に力が入らない、熱い。

アイランがこっちを見ている。驚いた顔も、かわいいな。

体を支えられない。




「急所は外した。君には、これから起こることを見届ける権利がある。ゆっくり、静かに、魚のように血を抜かれながら死ぬのがいい」


「アレク」


振り返りながら駆け寄ろうとしたアイランの喉元に、刃先が突きつけられた。

スル・ヤグがいつの間にか横に立ち、薙刀を向けていたのだ。

その眼差しは、擬皮を被ったハンターとは思えぬほど鋭く、油断していなかった。


「君はこっちだ、彼なら心配いらない、心配する必要が、もう無いからね」


刃を喉に突きつけられながら、促されるまま『両天儀』の方へ案内される。


「ヤヴァセナティは、初めこの機械を天体の観測に使うものだと思ったようだ。遥か遠くの存在を、立体の虚像としてこのカプセルの中に再現する装置だと思ったらしい。その発想は悪くなかったけど、あいにく向きが逆だった」


バルブを回すとカプセルの金属フレームが動き、カプセルを開く。

その中へと入るよう、スル・ヤグが切っ先で小突くように促した。


「この機械は遠くにあるものの情報をこっちに持ってくるものじゃない、こっちにあるものの情報を、遠くへ送るためのものだったのさ」


アイランがカプセルに入ると、逆にバルブを回して閉じる。

それでも、不思議と外の音や声はよく聞こえた。

カプセルの大部分を形成する透明なガラスのような壁面を、指でなぞる。

そこには、一粒の埃も土も水気も、付着してはいなかった。



「そのカプセルは、何万年という時間によっても傷一つ付かなかった。たとえ君でも、壊せないよ」



“兵の魔女”は、これまで数多のものを破壊してきた。

生物も、無生物も、形なき感情すらほしいままに破壊できた。

その経験から、直観した。このカプセルは壊せないと。

指先でわずかに触れただけで、その密度が物質という形を本来保ち得ないほどであることが理解できた。



「さて、それじゃあ……彼が死なないうちに急ぐ必要があるが、それでも、少しお勉強の時間としよう」



出っ張った岩の一部にクランツが座る。

いつの間にか、ノックタックとその一行は魔道士たちによって囲まれていた。


そして、スル・ヤグが、どこから持ってきたのか、大きな古びた本を抱えてきた。

手で隠れて題や装丁の細かい部分は見えなかったが、それでもすぐにわかった。

あれが、『スゥガ・タムト写本』だ。

詰まっている知識の重みそのものの重さで、クランツの膝の上に置かれる。

それを、彼は手慣れた様子で、百科事典でも開くかのように事もなさげに開いた。


「さ、て、最後の方に載ってるんだけど……あったあった、これだ。『苛む炎』について」


目当てのページを開くと、そこに指先を添える。


「こう書いてある、『魂はエネルギー源として魔力に並び有用だが有望ではない。魂はその独立性を保つため非常に遮断力が高く、この上なく孤立的な物質なのだ。質量などないままに、何にも混ざらず、影響されず、ただ自己を保てなくなって拡散し崩壊するまでは外的要因による影響をほぼ受け付けない。つまりエネルギーとして自在に取り扱おうとする干渉そのものを、大部分はねつけてしまうのだ。それ故に”忌み子”の治療は困難を極めるのである』」


書いてある文面を読み進めながら、指先も進めていく。


「『しかし、魂が己を守り、孤立性を維持するための境界とでも呼ぶべき外皮部位を内部からではなく外部から無力化し、孤立的存在から親和的存在へ変える方法が一つ存在する、それこそが古のカシッド・イル古文書『パラケルスス博士著書』に記述された『苛む炎』なのではないかと思う』」


アイランは押し黙っていた。

ただ、じっと、クランツを見据えていた。


「『魂が閉鎖から開放へと至るには許容量を超えた情報によって為される。水を蓄えた堤が堰を開放するかの如く、反応を引き出しやすい高精度の情報と刺激、それは苦痛である。『苛む炎』とはなんらかの寄生幽体を核とし、その代謝によって発される苦痛の信号を魂へぶつけ、取り込んで利用するという構造そのものなのではないだろうか。大きすぎる苦痛を排出せんとして開いた魂の穴に潜り込み、さらなる苦痛によって溶け合わせ、魂の性質を引き継いだ純粋魔力として使う、そのための魔道具なのではないだろうか。そして現代に於いて、その再現に成功したのはおそらくただ一例、”兵の魔女”のみであろう』」


ぱたり、と本を閉じる。

そこから先は、クランツの言葉だ。



「……知っているぞ、魔女王国は”眼の魔女”が有する、強大な存在を秘匿し続けていた。おそらくは何らかの非常に強力な寄生幽体だろう。そこから分かたれた力で生み出したんだな、『苛む炎』を。そしてそれを利用して”兵の魔女”を生み出した。『苛む炎』の作り方はこの本にすら載っていない、魔女にとっても秘匿された寄生幽体の力で強引に生み出しただけで、安定した技術などではないのだろう。だから”兵の魔女”は唯一無二の存在となった」



“兵の魔女”に顔を食われて死んだ犠牲者は、永遠に苦しみ続ける。

魂は吸い出され、咀嚼され、飲み下され、そして腹の中で、焼かれ続ける。

炎が生み出す苦痛に苛まれ、うめくほどに、叫ぶほどに、軛は食い込み炎は激しさを増す。

何故ならば彼らの悲鳴こそが、炎の糧なのだ。

やがて自我は燃え尽きて混ざり合い、己を一切保てないただの力と化しても、苦痛の塊として悲鳴は残り続ける。

魂を燃料として燃え、燃え続ける限り魂を燃料へ変換する代謝が継続する。

そこから生み出される莫大なエネルギーこそが、人体を容易く歪め、変化を促すのだ。

それが”兵の魔女”なのだ。

やがて自分自身すら、その炎の一部となる宿命を負って。

彼女たちは苦痛より生まれ、苦痛へと還ってゆく運命なのだ。



「今から……その『苛む炎』を、アイラン、君から抽出する」



本を置き、立ち上がる。



「それで、私の計画は完成する。”忌み子”──いや、”進化の子”たちによって作られる『何もかも許された世界』が」



その顔は、喜悦に歪んでいた。

喜びと欲望と快楽、そして更なるそれらが未来に待ち受けているという確信と期待。

全てが入り混じった笑顔は、”兵の魔女”が浮かべるそれと、そっくりだった。



「既に種は蒔いた。次世代の”進化の子”たちの遺伝子をばら撒き、政治の混乱によって分裂的志向、積極的かつ希望に満ちた孤立への思想も染み込ませた。統王が衰えた次の世に、世界は美名にかこつけた怠惰な断絶と孤立へと自ら突き進む。再統一のための分裂ではなく、分裂のための分裂だ。だが”進化の子”らはまだまだ不安定だ、どんな才能に目覚めるか、社会を動かせるような存在になれるのか、正直予測がつかない。だが『苛む炎』の力を使えば、彼らを望む姿へと誘導できる。ほんの少しだけ、彼らに進化の道筋を作ってやれる。その先は……」



鷲づかむように己の頭を手で押さえる。

自らの興奮を抑えようとするかのように。

呼吸は早く、言葉も早く、心音も早い。


「興奮、してるのね?」


それらを全て、”兵の魔女”は感じ取っていた。



「当たり前だ! やっと、やっと私の理論が、アイデアが実現するんだ! ああ、心も手も震えているよ。彼らが作る凄まじいまでの混沌を思うと、魂の高鳴りが止まらない!」



ぶち撒けるかのように声を上げる。


「何もかも、全てこの瞬間のためにあったんだ! 彼らは自由だ、私同様に! だから彼らがどうするか、どんな世界を作るのかありありと見えるぞ! 何もかも、何もかも全てが……私の”許し”の下に存在しているんだ!」


ノックタックは、隠せないほどに顔を歪めながら体を引いていた。

そしてアイランは、脱力していた。

まるで諦めのように。

あるいは──



「さあ、始めよう。いよいよ、全てが──私の手によって『許される』んだ」



──獲物に忍び寄るかのように。




機械の操作レバーを掴み、下げる。

その瞬間、機械は腹の底を震わせるような重低音と共に光を放った。

一体何がどうなるのか、誰もが機械を見上げていた。

ある者は恍惚とした表情で、ある者は苦々しい表情で、ある者は何の感慨もない表情で。


「アイ、ラン……」


その間を、アレクは這いずっていた。

誰もが機械を見ている中で、彼だけがアイランだけを見ていた。

全身に入らぬ力を懸命に込め、血の跡を続かせ、そして手を伸ばす。

求めるためか、守るためか、そのような違いなど今の彼には些細だった。


そして、アイランも彼を見た。

光を帯び始めたカプセルの中で、アレクの方を向くと──




──にっこりと、少女のように笑った。




光が彼女に降り注ぎ、機械がうなりを上げる。

機械の力は彼女の内部へ至り『苛む炎』を捉え、定義した。

一切の輪郭のブレなく、機械はそれのみを削り、抽出するだろう。


だがその時、機械にとって動作範囲外のことが起きた。

痛みに喘ぐ獣のように、機械のうなり声が大きさを増す。

そしてその全貌は、まるで痙攣のように震え始めた。



「な、なんだ? どうしたんだ!?」



クランツも異変に気付いた。

『苛む炎』の抽出が進んでいないのだ。

まるで何かが引っかかったかのように、抽出が止まったのだ。

それでもなお動作を続けようとしていることによって、機械に負荷がかかっているのだ。



「おい、なんだこれは! 何が起きている!」



近くの魔道士に怒鳴りつけるが、魔道士たちも困った表情か慌てた表情を浮かべざわめくのみ。

一体何が起きているのか、理解している者は一人もいなかった。




「……っく、あはっ」




アイラン・ヘルゼンデルを除いて。



「あっはははははははははは!」



彼女の高笑いが機械のうなりを上書きする。

腹を押さえ、涙すら浮かべながら大笑いする姿に、誰もが唖然としていた。

だがクランツだけは、拳を握り込み、汗をほとばしらせながら進み出た。



「……何をした」



低い声はともすれば機械のうなりや彼女の笑い声にかき消されてしまいそうだったが、”兵の魔女”にとって聞き取るのは容易いことだった。



「あはははははは! わたしがどぉーしてここまで大人しくついて来たのか、まだわからないのぉー!?」



その姿は、まさしく”魔女”だった。

他者を嗤い、愚かさを嗤い、傲慢を嗤い、世界を嗤う。



「同意したからだろう!? 君や歴代を蝕んできた『苛む炎』を、私が取り除いて全て終わらせる! それを予測してついて来たのなら、何故今更阻むんだ!?」



そしていま彼女が笑顔を向けるのは、クランツの慌てふためく可愛らしい顔にだった。



「くすっ、そうねえ、その通りだわぁ。でもそれじゃ、ちょーっと面白くないじゃなぁい?」



光の中、彼女はおどけて見せる。

まるで少女か、道化のように。



「だ・か・らぁ、少し細工してもらったの、シヤナ導師にね」



クランツの瞳孔が開き、瞼も極限まで開かれる。

彼は瞬時に、理解してしまった。



「アイラン、お、お前、お前って奴は……!」


「世界の在り方は、誰でも好きに決めていい。あなただろうが、統王だろうが、誰かが支配したらいい。でも──」



カプセルの壁面に手のひらを合わせる。

押し付けるようにではなく、そっと添えるように。



「──少し”あたしたち”のこと舐めすぎじゃなぁい?」



機械の天辺、抽出物の一時貯蔵庫が震えながら弾け、吹き飛んだ蓋が鍾乳石を砕く。

ぶるぶると痙攣しながら溢れ出ようとしているのは、橙色の輝き。



「わたしは“31代目兵の魔女”アイラン・ヘルゼンデル」



そして、その輝きから溢れ出るのは、悲鳴でも苦痛でもなかった。





「さぁみんな、自己紹介して?」





鋭くぬらついた白い牙が覗く笑み。


それと同時に、輝きは火山のように弾け、溢れ、飛び出させた。


観衆に降り注ぐ、魔女の形をした30もの『苛む炎』を。

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