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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
在の章
201/208

霧よ、霧よ

ダカーヴォギーに設けられた地下監獄モモレスの歴史は古く、ここに最初に入植した人々が罪人を懲らしめるため首だけ出して土に埋めたのが起源であるという。

今ではそのような刑罰など行ってはいないが、石と鉄で頑丈に作られた冷たい監獄に収監されるのは、一時拘置では収まらぬ大罪人たち。

殺人犯、組織犯罪者、巨額詐取犯、強姦魔、放火魔、そして、叛逆者。

ノイジーローズ・ガルガチュアスもそこに収監されていた。

個室ながら常に看守たちに見張られ、分厚いドアと石壁に封じられ、輝く宝石も芸術品もない冷たい獄の中は……ある意味で最も安全と言えた。

豪華ではないが十分な食事、上等ではないが寒さは凌げる悪くない寝床、少し冷えるが地下ながら水漏れもない。

彼はこの監獄で生活し、情報提供のために衛兵の屯所へ出向き、終わったらまたここへ戻るという日々を送っていた。


あれから、アヴムオードとはまだ一度も会えていない。

だが屯所で衛兵たちの噂話は聞けた。

どうやら問題なく回復していっているらしい、と。

なればこそ、彼は安心し、冷静に落ち着いて協力を続けることもできた。



「立て、面会だ」



分厚いドアの覗き窓を開き、看守がぶっきらぼうに告げる。


「はいはい」


寝床から立ち上がり、両手を挙げてドアに近づくと、重々しい音とともに開かれたドアから四人の看守が入ってきた。

彼らはノジーを取り囲むと、一人が挙げられている両手を掴み、後ろ手にさせて縛る。

囚人の腕を縛り続けてうん10年といった風情の使い込まれた縄は荒く、食い込む痛みにはどうしても慣れない。つい顔をしかめて「痛ッ」と口走ってしまう。


「歩け」


縛った縄の余りを掴んだ看守が命じる。

それにおとなしく従うことには、もう慣れていた。



そのままノジーは廊下を進む。

連行され、いくつもの檻の前を横切り、カビの臭いを感じながら一つの部屋の前に立った。


「入れ」


背中を押され、開いた部屋の中へ入らされる。

そのあとに続いて、二人の看守も入って来た。



「旦那様!」



部屋の中で待っていたのは、ザックだった。

ささくれた木の机を挟んで座っていた彼は立ち上がって主人に駆け寄りそうになったが、看守の一人が一歩前に歩み出てそれを制止した。


「面会時間に制限は無いが看守が必要と判断し次第、面会は中断される。なんらかの物品の引き渡し、受け渡しは禁止。何か差し入れをしたいなら専用の窓口に届け出ること。会話は立ち会う看守にも聞こえるように行うこと。共通語話者が共通語以外の言語を用いて会話することは禁止だ」


そのまま、面会の決まり事を説明する。

そうする間に、ノジーの手首の縛めも解かれた。


「接触は可能だが全て机の上で行うこと。たとえ意図していなかろうが、机の下で互いの体が接触した場合は看守判断による引き剥がしか面会中断が実行される。看守は会話についての守秘義務は負わないものとし、ここでの会話は必要と判断された場合報告される可能性がある」


ザックに対面するようノジーが座らされる。

それを受けて、ザックの方もややためらいながら、向かい合うように再び座った。


「報告された会話に法的な意義は無いが今後の司法判断や捜査の判断材料として活用される可能性がある。飲食は禁止だが医師に必要と判断された投薬・服薬のみ許可する。今回は法定後見人による面会ではないため、司法特例は適用されないものとする」


そう言い終わると、看守二人は部屋の隅まで下がった。

なんの合図もなしに、面会は始まったのだった。



「やあ、皆は元気?」



最初に話しかけたのはノジーの方だった。

このような状況の中でまだ、彼はにこやかに微笑んでいた。


「日々、民衆が押しかけて来まして……恐怖を感じた幾人かが職を辞しております。ヤーサ、シジカ、ヴーラミ、フェセティが……しかしフーラルが復帰し、精励してくれているおかげで、なんとかお屋敷の維持はできております。急を聞いてアンガナスに帰省していた者たちも駆けつけてくれるようです」


「そう……ごめんね、君たちにまで迷惑かけちゃって」


「私どもは全力で、旦那様と奥様と、お二方が大切になさってきたあのお屋敷をお守りするばかりです。嵐が来たようなものと思えば、なんということもございません」


「頼もしいよ。アヴィーには会った?」


「いえ、文にて連絡はしておりますが、会うのは危険だと仰られまして」


「そう……」


ノジーの声と表情が幾分か沈む。

ザックは席を立ちそうになったが、えも言われぬ感情がそれを押し留めた。

本来の彼の立場であれば分際を超えた言葉を、どうしても放ちたくなったのだ。



「旦那様、非常に不躾とは思いますが……何故このようなことになってしまったのでしょう?」

「ん?」

「旦那様と奥様は……分裂しかできぬヴェ・ザックの私から見ても、羨むほどのご夫婦であったように思います。心の底から強い絆で繋がり、互いが二人ではなく元々一人の人間であったかのようでした。それが何故……」



何故、裏切ったのか。

そこまでははっきりと言葉に出せなかった。

しかしながら当然、それをノジーは読み取っていた。



「それは、わからない」



だからこそ、その言葉にザックは驚きの表情を見せた。

柔らかい体の表面がぶるぶると震え、波紋が浮かぶ。



「先生には、恩がある。僕の命一つだけじゃ返しきれないような恩が。僕を治すために、幸せにするために、鬼畜に堕ちてくれた恩がね。でも──」



視線を傾けるように横へ向ける。

だがその目は、壁を向いていても、壁を見ていなかった。


「──先生は、どうして統王様に叛いたんだろう。どうしてクランツちゃんを助けたんだろう。どうしてフェルマーなんかと手を組んだんだろう。どうして……写本なんて作って、受け取っちゃったんだろう」


「語らなかったのですか」


「うん。あの人は自分のことは一切話さなかったし、訊ねさせなかった。だから……最期まで、あの人のことは何もわからなかった。一緒に生活していたのに、あの時の僕には先生しか、いなかったのに」


その顔は寂しげでも苦しげでもなく、虚ろだった。

彼がまだ”忌み子”であった時の表情そのままだった。

虚無、虚脱、まるで夢から醒めた直後かのような、あるいは夢など見たこともないかのような。


「だから、僕は大丈夫なんだ。先生が死んでも、悲しくても、寂しくても、平気なんだ。それが僕だから」


深呼吸のように、長いため息をつく。

その間、ザックは押し黙っていた。

その後も、沈黙していた。

どれほどそうしていたのか、看守が面会を終了とみなそうとした、その時に──



「人間は、不自由な生き物です」



──ようやく、ザックは体を震わせた。



「社会の中で、自分の立ち位置がなければ生きられない。そのために言ってはいけない言葉、言うべき言葉、行ってはいけないこと、行うべきことがのし掛かります。心に堆積し押し潰してゆくそうしたしがらみや、欲求に相反する抑圧を、無理矢理にでも受け入れてゆかねばなりません。自分自身が、自分自身でいられなくなるのです」



その声は母親のように優しく、それでいて父親のように力強かった。



「だからこそ芸術がある。表には出せない自分自身を、人間は”形”に託して表現する。だからこそ優れた芸術は多くの人の心を揺さぶる。その”形”が、一人一人の自分自身を代弁するものであり、あるいはその弱点を深く突き刺すものであるからです。私はノーグルーンという方を存じ上げませんが、ヤシャヤーティ・アティナッパとその『大ルーン画』は存じ上げています。初めて目の当たりにした時には、喜びで興奮し、心が打ち震えたものでした!」



言葉に一瞬熱がこもりかける。

が、それは少しの間だけだった。

続く言葉は、元の優しく諭すような声だった。



「……しかし、同時に疑問も生まれました。この絵には、どういう人物の人生が込められているのだろう? 何故作者はヨボク神話の大ルーン譲渡の場面を選んだのだろう? 偶然であるはずはありません。たとえ本人がそう思っていたのだとしても、真実はそれを題材に選ぶしかなかった理由があるはずです。巡らせていた視線が、何故そこで止まったのか。選ばれた物語の中で、何故その場面を切り取ろうと思い立ったのか。必ず理由はあります。そしてその理由を知ることができるのは、私ではなく……彼と多くの刻を過ごした、旦那様だけです」



ノジーが、目を閉じる。



「彼を知りたいと望むならば、あの絵を見るのです。あの絵には彼の全てが、無意識のうちに込められているはず。だから彼は二つ目の作品を作らなかった。自分にしか扱えない魔法の術式というならば、幾つあっても良かったはずなのに。召喚魔法が大事ならば、後から取り戻すのではなく、新しいものを自らの手で作れば事足りたはずなのに。彼は決して、二度と筆をとることはなかった。それがおそらく、ピッタ・ノーグルーンという人間なのです」


「ザック」


「はっ」



その目が開いた時、その輪郭は優しく、穏やかに歪んでいた。



「君がいて、本当に良かったよ」



笑顔の”形”に。



「恐れ入ります。差し出がましいことを申しました」

「いいんだよ、おかげで、だいぶ楽になった。ありがとうね」

「畏れ多いことです……それでは、そろそろ……」

「うん、選手交代。もし会えたら、アヴィーによろしくね?」

「はっ、それでは失礼いたします」



ザックは席を立つと、一礼して、ノジーとは反対側のドアを開いて出て行った。

そしてそのドアは閉じられることなく、次の者が入って来た。

フードを被りうつむいて顔を隠している人物は何事でもないかのように、素早く席に着く。

先ほどまでザックが座っていた場所に。

それを、看守たちは咎めることも声をかけることもせず、ただ立っていた。

そしてこれ以降の時間は、公式にはこう記録されることだろう。

『囚人番号12-8895とザック氏との面会』と。



「すいません、色々と立て込んでしまいまして……」



その人物はフードを取りながら頭を下げる。

ノジーはその姿に、朗らかな笑みを返した。


「いーよいーよ、もうすっかり時の人だもんねー♪」

「いえ、そんな、その」


上げられたその顔つきを、もちろんノジーは知っていた。

クロス・フォーリーズ。60議会で歴史的演説をぶち上げた、有名人だ。


「外の様子はどーお?」


屯所と監獄を行き来する生活。

護送車の隙間より往来する人々の様子は見られたが、世界の情勢を見渡すにはあまりに小さな隙間だった。



「武装化は、まだ完了はしていませんが、現状すぐ動ける衛兵に関しては魔界全土で動いています。反統王連衡を見つけ出すために、ほぼ全ての兵力が捜査に動員されました。各地で強引かつ抑圧的な強制捜査がどんどん実行され、暴動も凄まじい勢いで鎮圧されています」

「よく各地の魔界貴族たちが許したね」

「ナーヴァンドさんが手を回してくれたようですが、彼らの大部分は『なんでもいいから恐慌状態の民衆をどうにかしてくれ』って参ってたみたいで、意外と協力的だったそうです」

「じゃあ、みんな仲良しまで、あと一歩だ」

「それはいいのですが……」



クロスの表情が曇る。

「ん?」と反応したらば、顔をしかめたまま言葉を続けた。



「魔界各地で、私刑事件が報告され始めたそうです。民衆の一部が連衡の一味だ、と誰かを決めつけて、そのまま地域ぐるみで……」

「人間は集団化すると、自分では思いもよらないようなことをいきなりやり始めたりするからね。特に……”許された人々”なんかはさ」

「“許された人々”?」

「そ。やってはいけないことを『やってもいい』と許された人たちさ。それは明確な言葉じゃなくていいし、態度やコミュニケーションによって伝えられたものである必要すらない。本人がいきなり『許されている』と確信した瞬間、何もかもが起こるんだ」

「……クランツも同じようなことを……そのような世界が奴の望みなんですか?」

「人間は、基本的に心の中に本能的な制御装置を持ってる。殺人を忌み嫌ったり、他者の感情に共感したりして『やってはいけないこと』を本能的に定めることで『やるべきこと』や『やりたいこと』を明確化して生きる力や欲望にしているんだ。でも、その制御装置を無力にして突破して、どんなことでもできるようにしてしまう感情が二つ存在する」

「それは?」

「一つは”愛”、そしてもう一つは──」



にこりと笑う。

屈託なきその笑顔は、それ故に……



「──”罪悪感”さ」



クロスはごくりと唾を飲んだ。

気づけば、首が汗ばんでいた。

まだ寒さも残っている時期だというのに。



「罪悪感を持たないようにするために、あるいは既に抱えている罪悪感を洗い流すために、人間はどんなことでもする。その基準は社会の倫理では決して測れない、一人一人それぞれの価値観に基づいた罪悪感が彼らを律する。名誉への愛、金銭への愛、安心への愛、異性への愛、それらのために争い、その結果生じた罪悪感という残りカスの重荷を抱えて、その苦しみを最も恐れるようになるんだ。歳を取ったり、病気になったり、疲れたりして心が弱れば弱るほど、重さへの苦しみは増していく。その抑圧の末にあるものが……」


「解放」


「そう、爆発する。それがクランツちゃんの目的さ。人間の制御装置を……そうやって完全にぶっ壊したいんだよ」


「それが、奴の言う”許し”によって実現するんですか?」


「さあねえ、僕には正直、わからないな。でも少なくとも、今行動している人たちは先んじてクランツちゃんの祝福を受けた人たちだと思うよ」


「奴に抵抗することも……奴と戦おうとすること自体が、奴の目的を叶える手助けになるということですか?」


「きっとね。でもこの戦いに勝とうが負けようが、世界は変わる。それを止めることは……もう出来ないんだ」


「……それでも、奴は、倒します」


「そだね。頑張って」



一見投げやりな返答だったが、クロスはそうとは感じなかった。

世界に衰退と戦いを擲った、その罪悪を抱えながらも決意を露わにしたクロスへ送った、同様な罪悪を抱きながら最後には愛する妻を選んだ者からの、精一杯の応援だと思えた。



「ところでクロスちゃん、何か用があってここに来たんでしょ?」



そういえば、今の話はノジーから切り出したのが発端であった。

クロスがわざわざ隠れてここまで来たのには、異なる目的があるはずである。




クロスは汗を拭い取ると、目を閉じて一度深呼吸する。

そして覚悟を決めて、再び目と口を開いた。



「ノジーさん、”霧”を見たことはありますか?」



誰にも話したことのない現象。

周囲の全てが霧に包まれ、そこに浮かぶ影のように感じられてしまう。

それを訊ねた瞬間、ノジーの表情が固まった。

にこやかな笑みは消え、真剣な、というよりも無表情に近いそれへと変わっていく。

それを前にして、またもや首に汗が滲んだ。




「そう……見えるんだね、クロスちゃんも」




──やはり。


見たんだ、この人も。

ということは。



「あれは、その、僕たちのような……」

「“忌み子”特有の現象。まず間違いなくそうだろうね」



クロスは不安だった。

あの霧が見えている時、孤独を感じるのと同時に、奇妙な全能感、万能感のようなものがひしひしと忍び寄るように湧き上がってくる。

自分以外の何もかもが取るに足らない、どうでもよい存在に感じる中、唯一確かな実存は己のみ。

その確信が自分の魂と意識を高め、全てを見下せる領域に立っているのだと感じる。

それが、そのようなものが、もしかしたら自分の全てなのではないか?

自分は本当は……異常なのではないだろうか?

その不安が、今までこのことを誰にも相談させなかった。



「クランツちゃんも言ってたと思うけど、クロスちゃん、確かに僕らは病理学的、医学的、魔生理(ましょうり)学的には治ってる。生物としての機能に、もう欠陥はない。だけど僕たちはね、”忌み子”となってしまった時点で”本来生まれるはずだったモノ”から永遠に変わってしまったんだ」


「もう、普通の人間ではない、ということですか?」


「“普通の人間”の定義にもよるけど、そゆことだね。クランツちゃんはそれを新しい種族だって解釈して、今の人間と取って代わる未来を描いてるみたいだけど……僕は、そうは思わない」


「どう、してですか?」


「人間は、どの種族もどの民族もどの文化も、大なり小なり、他者を求める。誰かを求めたい、誰かに求められたい。だから誰かを求めるよう、他者に推奨も教導もする。クロスちゃんがこないだ60議会でやったっていう演説もそうさ。人間は無意識のうちに、他者との関係を至上の命題としてしまうんだ」



クロスは沈黙した。

穏やかで、平坦で、物語を語り聞かせるようなノジーの声に、聞き入った。



「でも、僕たちにとって他者との関係は……重要じゃないんだ。というよりも、僕たちにはそもそも重要なものなんて無いんだ。本当は何もかも同価値で、大切な何かなんてなくて、だからこそ何か一つに集中できる、できてしまう。集中している事柄に価値があるのか、それとも無価値なのかを僕たちは考えない。だから普通の人たちなら投げ出して引き返して飽きてしまう地点でも、僕たちは進むことができる。その先の到達点が、普通の人たちには”才能”というものに見えるだけなんだ」


「……」


「クランツちゃんはそれを”種族的特性”だって思ってるけど、僕はただの”後遺症”だと思ってるんだ。僕が大切にしてきた人たちが、先生やアヴィーが、本当はどうでもいいただの他人と同じだなんて、耐えられない。だからね、僕は必死に、本当に必死に、学んだんだ。人の感情、心、魂、その細かな機微やひだに至るまで。人の心に訴えるものをかき集めて、歴史や心理を勉強して、たくさんの人と交わって、そうしている内に……いつの間にか僕は”人間という才能”に到達していたんだよ」



背筋が冷たくなったのを、クロスは自覚した。



「そう気づいちゃった時にはね、すっごく、落ち込んだよ。結局、変われないんだなって、思い知っちゃってさ。ちょうどアヴィーと結婚して、彼女のことが好きになった頃に気づいたから、隠すのはすごく大変だった。多分、あれが絶望ってやつなんだろうね。だから……僕はクランツちゃんのお手伝いをし始めたのかも」


「どうにか、出来ないんですか? せめて、”霧”を消せれば……」


「さあね、いつか、これも治せる時代が来るのかも。でも今は、心の底から、僕は僕の大切な人たちを愛しているんだって、この人たちのためならどんなことでも出来てしまうんだって、自分に嘘をつき続けないといけない。そうしないと、1秒だって、僕はもう正気を保っていられないんだ」



空虚な魂に穴が開かないよう、必死に自らの手で何かを詰め込み続ける。

底が抜けていることを知りながら。

その滑稽な道化姿を、そうと自覚しながら演じ続けねばならない。


自分も、いずれそうせねばならなくなるのだろうか?

いつか自分自身の心すら信じられなくなって……



「でもね、クロスちゃん」



沈みかけたクロスに、再び声をかける。

明るい声に顔を上げると、ノジーの表情はいつもの朗らかな笑みに変わっていた。



「僕は、笑いながら生きて、死んでみせるよ」



それは決意表明だった。

少女のように、少年のように笑う彼の、最後の意地だった。

彼がノーグルーンとの過去ではなく、アヴムオードとの未来を選んだ理由そのものだった。


沈みかけた心に、力が湧き上がってくるのを感じた。

いつ破綻してもおかしくない危うさを抱えながら、それでも走り切る。

それが、生き延びたノイジーローズ・ガルガチュアスの望む人生なのだろう。


「ノジーさん、いま、とても不思議な気分です」


「んー?」


「あなたみたいになりたくないけど、あなたみたいになりたい」


「なぁーにそれぇー? 変なのっ」


けらけらと笑う彼の姿に、偽りなど一切見て取れなかった。

それを見て、クロスもふっと笑みが漏れた。


「そろそろ、帰ります。お別れは言いませんが……幸運を」

「クロスちゃんもね。まだまだ、先は長いんだから」


笑顔を交わし、席を立つ。

そして部屋から出ようとした、その時──



「あ、そうそう。最後に」



呼び止められ、振り向くと、そこには席に座ったままのノジー。


そして、部屋の隅で座るように昏倒している看守二人の姿があった。



「なッ」



驚きの声を上げようとした瞬間、ノジーの風魔法がクロスの口を塞いだ。

呼吸はできる。だが、声によって一切空気が震えない。音だけが出ない。

まるで空気の塊が喉か口の中で栓になっているかのようだ。

看守二人はこれで頸動脈を絞められて一瞬で気を失ったのだろう。


こんなこともできるなんて、やっぱりあの時、その気になればこの人とノーグルーンは一瞬で僕たちを無力化できたんだ。




「クロスちゃん、誰にもまだ言ってない、君にだけ教えることがあるんだ」




それはいつもの声色だった。

「僕にだけ?」と返したかったが、それすら出来なかった。



「知りたいでしょ、クランツちゃんが、いまどこで何をやっているか」

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