眼の魔女2
「その左目、どうしたんですか?」
泊まる準備のため、本棚椅子を納めて荷物を解き生活品を出していたところ、ケリーが何かを見つけたように歩み寄ってきた。
クロスは自身の顔に手を当てて、彼女が何を訊ねたのかを察した。
「ああ、昨日から物もらいにかかってしまって」
「見せてください」
膝をついて荷を解いていたクロスの前で同様に膝立ちになり、顔の横に手を添えて、じっと患部を覗く。
しっかりと目を開き、真剣な眼差しで物もらいに相対されると、気恥ずかしいような、馬鹿馬鹿しいような気分にもなったことだろう。
しかし、"眼の魔女"の眼差しには、余人を圧倒する何かがあった。
左目はごく普通の黒い瞳であったが、右目の深い碧色には、鋭く刺すような直線的な力ではなく、まるでその小さな眼に全身を引き摺り込まれるかのような抗いがたい引力のようなものがあった。
目力、などという輪郭と瞼が生み出す漠然としたものではなく、本当に目玉そのものが持つ力を、碧の中で微かに星が輝く瞳から感じられた。
クロスは師の言葉を思い出した。
『"眼の魔女"は魔女の系譜では最古の一つで、記録では協会発足前の魔女王国時代まで遡れる。しかし実際にはそれよりも遥か古代から存在していたと言われているわ。魔女のルーツの一つなんじゃないかと言われるほどよ。
彼女たちがそれほど長く伝統を守り、系譜を繋いできたのには理由がある』
「いえ、ただの物もらいですよ。手を煩わせるほどでは」
「物もらいは炎症です、放っておけば大事にもなりえます。"眼の魔女"として、放置するのは沽券に関わるので」
見上げるように患部を覗き込んでいた目が一瞬伏せられると、ケリーは立ち上がって机の引き出しから赤土の小瓶を取り出した。
小瓶から筆を使って軟膏を取り、物もらいの腫れに塗りつける。
慣れた手つきだったが、軟膏はやや冷たく、触れた瞬間は体がぴくりと震えてしまった。
「"眼の魔女"って、こういうこともするんですね」
「もちろんです。私たちは眼の構造、眼病、視覚についての研究が専門です。近隣の村々には、こうやって貢献することで色々と援助してもらっています。大抵の魔女はそうやって日々の生活をしていると、お師匠様は言っていました」
どこか誇らしげに語る彼女の右目を、今度はちらりと見遣った。
角度によって僅かに色合いの深みが変わる妙は、完璧な芸術作品のようですらあった。
「それ」
クロスは、思わず尋ねてしまっていた。
「その右目が、その、あれなんですか?」
言った直後に、失礼にあたるだろうか、と後悔してしまうような問いかけ。
問われた方は、驚いたり狼狽えたりするような様子もなく、軟膏を塗った患部に綿を押し当てながら答えた。
「ええ、そうです。と、答えるのは少し違いますが、概ね合っています。もっと近くで見ますか?」
彼女はそう言うと、触れ合いそうなほど顔を近づけた。
膝立ちになったまま背筋を伸ばし、真正面からクロスの目を見つめる。
必然、クロスも彼女の目を見つめる格好となる。右目の瞳の大部分を占める碧、その中で瞬く星のような輝きを持つ白、それらの下地になるようにうっすらと塗り込められた黒、それら全てが混じり合ったような深みに、吸引されるような感覚が走るのだ。
肉体を、魂を、魔力を残らず吸い出されてしまいそうな、一つの光景のようですらある目に、一瞬で支配される。
体が硬直し、その強張りに反して鼓動は静まる。クロスの肉体や精神の故ではなく、彼女の瞳がそう望んでいるからだった。
「はい、終わりました」
ようやく顔が、目が、体が離れた時、クロスの頭には布が巻かれていた。
患部に押し当てた綿を固定する布を巻くためには、彼女の小さな体と細腕では肉薄する他なかったのだ。
「あ、ありがとうございます」
解放されてから、ようやく動悸がやってきた。
荒ぶる呼吸を鎮めようと、胸に手を置きながら二度ほど深呼吸する。
今の感覚が、ただの感覚でしかないのか、それとも何らかの魔法なのかは彼にもわからなかった。
「ふふふっ、今のが"原初の目"ですよ」
そんな様子を見て、手品のネタばらしをするかのように微笑みながら彼女が告げる。
笑みによって細められた右目は、まだ輝きと、その正反対を共にたたえている。
『彼女たちは"原初の目"と呼ばれる存在を代々守ってきた。その存在が何なのかは私にもわからないけれど、途方も無い力を持った呪物なのは確かよ。
それが決して誰かの手に渡ることのないようにする役目。それが"眼の魔女"の始まりであり、最も古い誓いの一つとされているわ』
原初の目。クロスの師はそれを呪物と呼んでいたが、ケイネリー・ホルグラックの目そのものにしか見えない。
力を持っていることは感じたが、それを代々受け継いでいるという話には、疑問が残った。
「それって──」
続いて疑問を吐き出そうとしたところで、小屋のドアがノックされた。
「すいません、カーリ・ドゥヌの村から来ました。"眼の魔女"様はいらっしゃいますか?」
続いて、弱々しい男性の声が響く。
クロスに対して行われたのと同様に「はぁい、開いてますよ」と応じられると、静かに、怯えたようにゆっくりとドアが開かれた。
その先にいたのは、赤鼻で口のとんがった、年老いた男だった。
見すぼらしい、擦り切れた格好をしており、衣服は土で汚れている。
だが汚れてはいるものの、靴と帽子は殆ど傷んでおらず、年はとっているものの、手足の筋肉や骨格は健康さを感じさせる。
少し猫背であり、肌は日焼けていたが、それらの特徴は全て、彼が農作を普段の生業としていることを示していた。帽子と靴が定期的に支給される、小作農家だろう。
「どういったご用件でしょう?」
見ると、ケリーはいつの間にか椅子に座ってとんがり帽子を被り直し、男の方を向いていた。
男は帽子をとって不安げに両手で掴みながら、横目でクロスを見遣る。
「彼のことなら気にせずに。私の助手みたいなものですから」
顔を伏せ、とんがり帽子のつばと、右袖で顔を隠しながらくすくすと笑う。
助手、という言い様はクロスにとってやや不本意ではあったものの、魔女の弟子という、誤ってはいない立場なのは確かだった。
「へぇ、あの、あっしはアドリヌークと申します。カーリ・ドゥヌの村で、小作人として働いてるもんです」
「カーリ・ドゥヌ。そういえば、ボルター豆の収穫がもうすぐですね」
「そ、そうです! まさにその話で。ええと、その、あっしの小作契約は三日後に切れてしまうんで、その更新をしようと思ったら、小作契約の書類がなくなっちまっててまして」
男はしどろもどろだった。何を話すか、あらかじめ考えてきたのであろうが、それでも何とか口を動かすだけで精一杯のようだった。
「それを見つけてほしいんですね? 小作契約書を」
「はい、はい、地主様に相談したら、"眼の魔女"様が探してくださるかもしれないっておっしゃって」
「契約書がなくても行政使府に申請して別途更新ができますよ」
「へぇ、でもそれだと時間がかかっちまって、ボルター豆の収穫時期にはとても間に合わなくなっちまうんです。あの、でも、ぎりぎりまで更新をさぼっちまったあっしが悪いんですが、収穫に間に合わないと、家族や地主様や小作仲間たちに迷惑がかかっちまうんです」
その場に跪き、猫背をさらに丸めて頭を下げた。
「なんとか、おねげえします。もう魔女様に頼るしかねえんです」
自分の娘よりも幼いであろう少女に対し、必死に頭を下げる姿は哀れを誘った。
しかしケリーは目を潤ませるでも、ため息をつくでもなく、淡々と言い放つ。
「ボルター豆、素晴らしい作物ですよね。ゴラの挽肉と一緒にスープに入れたり、蒸して萁を除いて潰せば美味しいお菓子も作れます」
男はぽかんと呆けていた。魔女の言わんとしていることが、初めは理解できなかったのだ。
「あなたの畑からは、さぞたんまり獲れるのでしょうね」
にっこりと満面の笑みを浮かべた魔女を見て、ようやく意図を察したのか、再び頭を下げる。
「魔女様のお力で見つけられたなら、必ずお礼します。あっしの豆の取り分の四割を……」
「割合じゃダメです。ボルター豆80kgきっかりもらいます。あなたが20kg、あなたの地主が60kg負担してください。計量には行政使府の者を必ず立ち会わせること。申請と段取りは私がしておきます」
「へ、へいっ、仰せのままに」
一転して、ぴしぴしと鋭い口調で指示する彼女は、あたかも支配者であった。
男はただひたすら、伏して従うばかりである。
「それと、以後は契約更新の期日は地主が管理し、少なくとも二週間前には小作人に催促と確認をすること。契約書をなくす度に、魔女に80kgもむしり取られたくないでしょう」
「へへぇーっ」
ついに男の額が床につく。
豆80kgは、小作人にとっても地主にとっても相当な痛手である。
それはクロスが心配を覚えるほどであるが、口出しする権利も余地も、この空間には無いように思えた。
「それじゃあ、探しましょう。アドリヌークさん、後ろを向いてください」
「へ、へへっ」
今や疑問すら浮かぶことなく、彼女に言われる通りに、跪いたまま背を向ける。
「目をつぶって、私がいいと言うまで決して振り向かないでください。もし振り向いたら、あなたには"静かになってもらう"他ありません」
男は背を向けて目をつぶり、大げさに首を縦に振った。
そして、椅子から降り立ったケリーは、クロスの目には別人のように映った。
椅子から降りるその一瞬の間に、彼女の雰囲気はまるで異なるものに変わっていた。
その姿はまるで、獲物に忍び寄ろうとする獣。
音も立てずに男の背中に近づき、その首元を見下ろす。
あまりの緊張感に、クロスも思わず立ち上がってケリーに歩み寄りかけた。
小さな少女が、哀れな男一人を本当に手にかけようとしているのではあるまいか。
馬鹿馬鹿しい光景に真実味を残すほどに、張り詰めた空気だったのだ。
しかしクロスが立ち上がったまさにその時、ケリーの右目が大きく見開かれた。
それはおおよそ人間の瞼の力では不可能なほどに大きく開き、虹彩に浮かぶ星の瞬きは瞳の中央へ集められていく。
白目には血管が浮き上がり、蠢いては、星同様に瞳へ向かって寄り集まる。
右目周辺の光が歪み、彼女の瞳へ吸い込まれてゆく。
空間が歪み、現実が歪み、その歪みが右目へと集まる。
この世の全てを吸い込もうとするが如く、この世の全てに届こうとするが如く、彼女の右目に全てが集まってゆく。
あの瞳を覗いた時に感じた引力は気のせいではなかったのだと、クロスが確信するほどに、右目周辺の世界は線となって彼女の瞳に降り注ぐ。
「ありました」
どんどんとねじくれてゆく瓶がいつ割れるかと恐々とするかのような、凍てつく緊張感が頂点に達しようかというところで、ケリーの淡々とした声が響いた。
直後に、全ての歪みがあるべき形へ戻り、見開かれた右目が閉じられる。
そして再び開かれた時には、瞳の中の星たちも元の配置へついていた。
「もういいですよ、アドリヌークさん」
その言葉で、男の目も開かれ、ケリーの方を振り向いた。
男の顔には、戦慄がありありと現れていた。
「アドリヌークさん、ゴラに畑を荒らされないよう犬を飼っていますね? あなたと奥さんとお母さんの分の小作契約書は、その子が家の裏に埋めてしまいました。何かの拍子に保管場所から出て、羊皮なので犬が食べ物と思い埋めたのでしょう。あなたの息子さんの分の契約書は、その時に犬に食べられてしまったようです」
「え、ええっ?」
戦慄に困惑が混じる。
それはクロスも同じだった。
「まあ、見たところ息子さんはまだ6つかそこらでしたから、そもそも収穫には参加されないでしょう? 息子さんの分だけ行政使府で別途更新の手続きをして、収穫時期には小作契約領地外にやってどこかのお世話になるといいですよ。親戚の家があれば一番いいですが、カルエーネの町のヴィドラーという商人を頼ってもいいでしょう。その場合は私が紹介状を書きます」
「あ、ああ、えと、ア・ドゥヌ村に叔父夫婦が住んでます。木樵をやってますんで、あの、大丈夫です。ありがとう、ごぜえます」
「それは幸運ですね。あとは急いだ方がいいですよ。虫たちが契約書を食べ始めていますから」
「あ、あああ! ありがとうございます! 家の裏でしたよね!?」
目の前の状況をなんとか飲み込んだのか、あるいは飲み切れないので無視したのかは定かではない。
ともあれ、男は立ち上がると、何度も礼を述べながら早足で飛び出ていった。
「ふぅ」
訪問者が出て行ったのを見て、ケリーが再び椅子につく。今度こそ、ため息を漏らしながら。
そんな彼女の様子をうかがうかのように、クロスは近寄って声をかけた。
「今のは、一体なにが起きてたんですか?」
あまりにも素朴で、あまりにも重要な疑問だった。
"眼の魔女"は頬杖をつき、とんがり帽子を机の上に投げ置くと、上目遣いで青年を見た。
「"原初の目"は、あらゆる眼の起源であり、最初の視点。世界に初めて生まれた目なのだと言われています。目という概念、もしくは観念そのものであり、"視"によって定義される世界の基で、あらゆる眼を支配し、あらゆるものを見れるのです」
「目という概念って、でもそれは、あなたの右目に収まっていますよね?」
「"原初の目"そのものは私の体内の魔力と溶け合っています。もちろん実体はありません。私のこの右目は、その力の表出でしかないんですよ」
「それって、つまり、言うなれば眼の神を宿してるってことですか? すごい、呪物なんて生易しいもんじゃない」
声には若干の興奮が含まれていた。
「そんなすごいものを、村人の探し物を見つけたり、物もらいの治療なんかに使ってたんですか?」
それは、力に携わるものとしてはごく当然の疑問だった。
クロスも若いとはいえ、魔女の弟子なのである。
しかし、ケリーは更に若くして、既に魔女なのであった。
「ええ、そうです。他に、何をするのでしょうか? 初代"屍の魔女"のように、魔女王国を建国するのですか? 統王の御世を討ち、新たな王朝を魔界と現界に打ち立てるのでしょうか? 様々な悪を探し当て、その全てを滅ぼしましょうか? "原初の目"なら全て可能でしょう」
頬杖を解き、クロスの顔をしっかと見据える。教師のように。
「『偉大なものを偉大な目的に使う時、多くの悲劇が生まれる』 私のお師匠様の言葉ですが、私自身も心からそう思います。このままでいいんです」
そこにあるのは、代々続いてきた伝統と役目への誇りだった。
幼くして魔女であらねばならないようにした、様々な事情や事件があったことだろう。
しかし、彼女の左目には右目以上に曇りの無い輝きがあった。
『私たち魔女が何であるか、現在の魔女がどのような姿勢なのかを、全て彼女から学び取れるでしょう。他の魔女たちの言葉を聞く時には、必ず彼女の言葉を共に思い出しなさい。私たちは学びの徒なのよ。私も、もちろんあなたもね。
ひたすらに学びなさいクロス。そしてついでに、彼女が今度の魔女学会に出席するつもりがあるかどうかも聞いといてくれたら嬉しいわね』