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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
在の章
199/208

天網恢恢

──なんと。


光は、私の秘術は、防がれていた。

あのクロス・フォーリーズとかいう少年が割って入り、かざしたランタンから薄色ながらも多様な色彩の炎が溢れ出していた。

その炎が”金科玉条”を込めた私の両手を遮っていた。

写本の記述をもとに私が独自に編み出した魔術、それを防ぐことなど、頑丈な鎧といった物理的障壁以外では不可能だ。

誰も知らぬ術式を破る術式など、この場で組み上げられるはずがない。


強引に両腕を振り抜いて押し出しながら、自らも飛び退く。

距離ができると炎はランタンへ収められ、その肩に元帥が手をついた。

ぼたぼたと血が垂れ落ち、荒い息とともにうつむいた体が上下する。

相当な深手だ。少年は私を睨みながら、肩と背中で元帥を支えている。

そうしなくては、とても立ってなどいられないのだろう。


しかし、すぐにとどめは刺せない。

あの炎、私の秘術を防いだ。

いや──防いだというよりも、そもそも届かなかった。

まるで私とあの少年との距離が無限に広がったかのように、私の魔術が空を切った感覚があった。

だが物理的な距離ではない。私の手は、肉体は炎越しに彼らを押し出すことに成功している。

となると、あの炎は、まさか時空子か? 時間という概念が物質化したものであるという。

私も仮説だけで、実際に目の当たりにしたことはない。

彼はここに来る前に”界の魔女”を訪ねているはず。時空子を研究しているあの狂人から、もしや何ぞ授けられたのか?


だとしたら、搦め手が必要だ。

直線的な攻撃は、あの炎の前では一切が悠久化するか希釈されてしまうだろう。



「先生」



実験体が私の前に立つ。

元帥を背負って支えるあの少年のように。

なるほど、2対2か。




「フォー、リー、ズ……」


頭の上から、息も絶え絶えのつぶやきが血とともに滴る。


「喋らないで」


二人の”敵”を見据えながら、足と背中と肩──要するに全身に力を込めて立つ。

アヴムオードさんは重傷だ。戦うどころではない、今すぐ手当てしなければ命に関わる。

ナーヴァンドさん、ゼルタルスさん、シロサさんの救援が来るまで、粘れるか?

先ほどの凄まじい魔術で現場は混乱しているはず。

持ち堪えられるのか? 僕一人で。

ランタンの不思議な時空子のおかげで一度攻撃は受け止められたけど、さっきの凄まじい大技は、果たしてこれで防げるのかわからない。


いや、思い出せ。

ヘリルメリアさんとバヴツさんの言葉を思い出すんだ。

『常に己が取り得る手段、活用可能な事物に気を配るべし。己を知らずとも、ただ汝の武器を知れ』

自分が使えるもの、自分の武器は今なんだ? 自分が切れる手札はなんだ!?

魔女ランタン、短刀一振り、着火器、温石、冷石、鳥笛、相互紙、魔法の地図、砕けたガル・プリズムの失敗作。

炎魔法、冷魔法が使える。光の魔法はあのプリズムと僕の技術じゃ無理だ。

鷹のポランも使えるけれど、一つ誤れば彼を危険にさらしてしまう。

相互紙はエルガンと繋がっている。彼を通して近隣の死人の助けを得られるかも。だが衛兵たちよりも速いだろうか?

時空子は……僕には一切の謎だ。何が出来るのかも、どういうふうに使えるのかもわからない、アテにできない。

ノズラクロウさんは、先ほどの大技に巻き込まれたはず。今どうなっているのか、わからない以上は……


なんてことだ。あの、ピッタ・ノーグルーンに対抗できるような武器なんて、殆ど残ってないじゃないか!


でも、僕が戦わないと。

僕が持ち堪えないと、アヴムオードさんは……!




歯が強く噛み締められたのは、全身に込めた力のためだけではなかった。

窮地の只中にあるというのに、クロスの魂のうちにあったのは焦りでも恐れでもなく、闘志だった。



「そのランタン、興味が湧いた」



つぶやきながら、両手を広げる。

ノーグルーンのその両手の指は、7本だった。


来るか……!



「研究させてもらおう」



直後、同時に二人は駆け出した。

クロスをめがけ真っ直ぐに、ノジーとノーグルーンが突進してくる。

先ほどと同じようにランタンをかざして炎を押し出し防御の構えを取ると、その炎にノジーが右手を突き入れた。

その手は炎によって焼けはしなかったが、小さな魔力の渦を腕の周りに作り出し、それが空気を揺るがす風を作り上げて腕に巻きつく。

それに引き込まれるように炎もノジーの腕に吸い寄せられ、広がらなかった。

風魔法、それがノイジーローズの特異な才能の一つだった。

空気を操り、その流れの向きを作り、思いのままに小さな流れを大きくすることも、大きな流れを小さくすることもできた。

クロスの時空子の炎は魔術そのものを遠ざけることはしても、魔術の影響で引き起こされた物理現象は遠ざけなかったのである。


そこへ、またもや”金科玉条”が襲い掛かった。

ノジーの頭の上から振り下ろされる手のひらが迫っているのに、遮るものは何もなかった。



金属音。


飛び散る火花。



死を込められた手は、空中で止められていた。

誰あろうノーグルーンのストールによって。

何故”金剛不壊”が反応したのか? その疑問によって一瞬の混乱が生じる。

だが、すぐに答えには辿り着いた。

ストールはノーグルーンの攻撃を防いだのではない、飛来した矢を自動的に防御したことで”金科玉条”の軌道を遮ったのだ。

クロスの方からは、それがよくわかった。

槍のような矢がストールに弾かれる瞬間が見えたからだ。



──ノズラクロウだ!



もしクロスに背後を振り向く時間の余裕があったならば、崩れた建物の瓦礫の只中に立つノズラクロウの遠い姿が見えただろう。

折れた剛弓をその場で即席の投槍具に仕立て直し、全身の筋肉に血管を浮かばせながら矢を槍投げのように構えている姿が。

それはまさに己の五体を弓として撃ち放つ渾身の一矢。

引き絞り、狙い、撃つ。弓の頂点を究めし”天箭手”にかかれば、最早弓すら必要条件ではないのだ。


「よ〜う面妖な術をつこうてくれたものじゃ」


引き絞った腕と背筋から汗が垂れる。

肉付きにも見えた柔らかい筋肉は、今やここぞとばかりに隆起し固さを増していた。


「おかげで狙いやすいぞ」


風を切る次の矢弾が放たれる。

引き絞り、溜めた力をただそのまま流れるに任せて解放する。

それだけで、矢は何もかもを裂きながら直進した。

次なる狙いは、ノジーだ。


再び金属音。

ノーグルーンがノジーを引っ張り寄せて庇ったのだ。

ストールの自動防護が働き矢は弾かれたが、ノジーが引き寄せられたことによって時空子の炎も解放された。

再び炎を押し出し、ノーグルーンに覆い被さるように展開する。

それを攻撃と自ら認識することによって”金剛不壊”で防ごうとするが、かざしたストールを炎はすり抜けた。


「やはりか!」


咄嗟に叫び、炎の熱から顔を背ける。

その横顔が既にちりちりと焦げ始めていた。


時空子は、”金剛不壊”をすり抜けてしまう。

完全な防護の魔法、”防護する”という事実を現象に先立って成立させる魔法そのものが無力化されている!

この炎の前では、ただの布切れに過ぎないのだ!


ついにストールが燃え始める。

ノジーが「先生!」と叫びながら風を起こすが、広がり切った炎は風に煽られても形を変えるだけで消えはしなかった。


このまま──焼き殺せる!


クロスのその確信を、躊躇が上回った。

あとひと押し炎を繰り出せば、時空子によって敵を倒せる。

だが──それでいいのか?

このままでは、ノジーさんまで焼き殺してしまいかねない。

この炎の力はまだ僕にもわからないんだ。

ノジーさんを殺してしまうのは、絶対に良くない!


踏みとどまり、炎を引っ込める。

するとノーグルーンたちも数歩後ずさった。

だがあのストールは既に破った。火が付いて燃えている。

たとえまだ魔法が残っていたとして、じきに燃え広がって焼き尽くされるだろう。

そうなれば、もうノズラクロウの矢を防ぐ手はない。


次の矢が飛んできた。

それを、ノジーの風が防いだ。

と言っても小さな渦を二つ並べてなんとか防いだだけで、その凄まじい衝撃に小さな体は吹き飛ばされてノーグルーンに受け止められるといった有様だった。


「せ、先生……防ぎきれないよ。風が、切り裂かれちゃう」


風というのは非常に重要かつ複雑な自然現象であり、大掛かりなものはどうしても時間がかかってしまう。

咄嗟に繰り出せるような小さな風では圧倒的な速度と質量の暴力を防ぎきれない上に、受ける度にその衝撃で集中が切れてしまうのだ。



「もう逃げられないぞ!」



瀕死の元帥を背に、クロスが叫ぶ。


「降参しろ! 今なら、統王様直々のお裁きを受けさせてあげられるんだ!」


王の裁きは、全ての法を凌駕する絶対的な判断である。

統王にはどんな法律も政治も踏みにじって我を通せるだけの力と敬意があった。

彼らが助かるためには、もはやそれにすがるしかない。

人の作りし法ではなく、神が如き恩寵だけが、彼らに残された道なのだ。

その道を──



「断る」



──汚すため、ノーグルーンは生きている。


ノジーを小脇に抱え、突進する。

次の矢が放たれるまでの間、それが最後の時間だった。

クロスは顔を歪ませながらランタンを向け、魔力を込めて炎を押し出──




──そうとした瞬間、ノジーが投げつけられた。


ランタンを手放し、抱きとめるように受け止める。

なんということだ。この期に及んで、こいつ、こいつ……



ノジーさんを盾にしやがった!



顔を上げた瞬間、既に目前までノーグルーンが迫っていた。

手に持っていなくとも、ランタンに魔力を差し向けて炎を繰り出すことはできる!

“金科玉条”とかいう技がきたとしても、防げるぞ!


魂の内から魔力を引き出す。

その瞬間、その魔力に異変が生じた。

動かせない。いや、意思に反して動いている。

体が熱い、鼓動が早い、手足が震え、視界がぼやける。

体の奥底が、爆発してしまいそうだ。


まさか、まさかこれは!



「魔力干渉だ。そのランタン、研究はつい今しがた完了した」



魔道士の闘争は本来一瞬で終了する。

相手の持つ魔力に直接干渉し、爆発させるか暴走させるかで魂と肉体を破壊して殺す。

それを防ぐための防護術式は、クロスの場合ランタンに刻まれていた。

その術式を、一度目の突進によって接近し確認。

二度目の突進を敢行するまでの間に解析して突破したのだ。

そして今、触れている。木の実を持つように、クロスの魔力を掴んでいる。


なんてヤツだ。


曲がりなりにも、魔女が刻んだ干渉防護の術式を、こんな短時間で読み解き、突破まで。

お師匠様が特別に組んだ一点物の術式を、こんなに、あっさりと。


「とはいえ、完全な形ではない。無防備状態にさせるのがせいぜいだ」


右手の七本指が複雑に絡まり、開かれる。


「とどめは、この手で刺さねばな」


右手のひらが迫る。

クロスの顔面めがけて。

魔法は使えない。体も動かせる状態じゃない。

ノズラクロウの矢も、もう間に合わない。

防御、できない。



「それが”金科玉条”だ」



視界が黒い手形の影で覆われる。

手も足も出ない。こんな未熟な僕が、魔法戦なんて、無謀だったんだ。

もう、目の前に迫っているんだな、死が。

こんな、こんなことなら──




──もっと早く、アイランさんに──




諦めて目を閉じかけた瞬間、ノーグルーンの手首を掴み止めた。

アヴムオードの、血に塗れた右手が。


うつむき、荒く息をつき、まっすぐ立つことすら出来ない瀕死の戦士。

だが乱れ、垂れ下がった髪の間からは、睨む目が覗いていた。

憎悪に濁り、憤怒に燃え、苦痛に輝く目が。


ばぎりっ


一瞬のうちに、竹を握り潰すような音とともにノーグルーンの腕の骨が握り折られた。

苦痛に顔を歪ませ、体を跳ねさせかけたが、その動作を終える暇すら彼女は与えなかった。

あのクソ忌々しいストールの防護が無力化されているのである。

瞬きと同等の一閃が、ノーグルーンの掴まれた腕を斬り落とした。



まだ、動けるのか!?



そのような驚きで思考を満たすが、一瞬後には、すべきことへと切り替わっていた。

斬り落とされたことで、奇しくも拘束からは脱している。

もう片腕で”金科玉条”を作り、まずはこの死に損ないの女にとどめを刺すのだ。


“金科玉条”をもう片方の手で形成し、アヴムオードに向けて振るう。

彼女はそれを見ていた。見えていた。


だが、既に体は動かなかった。

ぐらりと傾きはしても、同じ斬撃を振るうことはできなかった。かわすことはできなかった。

彼女に最後残されたのは体力でも魔力でも根性でも時間でも接近した状態という優位でもなかった。


ただ、殺意のみ。




最後の交錯。


ノーグルーンがよろりとよろける。


アヴムオードがぐらりと傾く。


ノーグルーンの胸には、突き立っていた。

ついさきほど切断されたばかりの片腕が、まるで胸に付け替えられ、そこから生えているかのように。

腕の断面の尖った骨は肉を押し潰しながら肋の間を抜け、肺に突き刺さっていた。


そしてアヴムオードの胸の中には、ノジーがいた。

クロスを押しのけて立ち上がり、”金科玉条”の黒い手形を胸の下に残した彼がいた。

妻が受けるはずだった死の手形を代わりに受けた夫の姿が、そこにあった。



「ノ、ジー……」



力なくだらりと垂れ下がったような瞳が、夫の姿を捉える。

衝撃を受けた小さな背中が、彼女の胸に預けられる。

それを感じた瞬間、アヴムオードは吠えていた。



「おおおおおおおおおおおお!!!」



力など残っていない体に最後に残った、力を超えた力。

かつて棍棒を掲げ服も言葉すらも持たなかった原始の人々は、それを神秘と思ったのだろう、それを魔法と思ったのだろう。

それが彼女に剣を振るわせた。

まるでもがくかのような一撃が、ノーグルーンの体を肩から心臓にかけて切り裂いた。

苦痛と血と漏れる空気が魔道士の口から溢れ、吹き出る血が眼鏡を染める。

血と苦痛と己の息で溺れながら、その目はありのままを見つめていた。



「──そうか」



やけにはっきりと、そう告げて、魔道士は倒れた。



「ノ、ジー、どうして……」



しかしいまアヴムオードにとって、最も重要なのは、勝利ではなかった。

ノジーを抱きとめ、ゆっくりと膝をつく。

己自身も今すぐ倒れてしまいたいだろうに。


「言った、でしょ。世界で一番、大事だって」


むせて咳き込む口から血が溢れ出る。

“金科玉条”がどういう魔法なのかは皆目見当がつかないが、ノーグルーンが一撃で殺す技として多用していたことを考えると……



「ノジー、ノジー」



胸の中で力が抜けていく夫の顔を見下ろし、アヴムオードの両目からぽろぽろと大粒の雫が滴る。

同様に彼女自身の血も滴り落ちて、ノジーの吐いた血と混ざった。


「頼む、死なないでくれ、お願いだ。どんなことでもする、父上も殺すし、天だって斬ってみせる、だから、死なないで。ノジー以外、何もいらないんだ……」


細く震えた懇願。

クロスには、何も出来なかった。


血を吐きながら、ノジーは遠くを見つめた。

屋敷の天井を超えた、その遥かな空、その空の下にある全てを見つめているかのような目だった。

クロスにはわかった。

死にゆく者の最期の目なのだと。



「僕って、すっごく、幸せ、なんだなあ……」



最早苦痛すらなかった。

天にも昇るような心地だった。

でも。

でも──



「──アマミメの祝祭……行けば、よかっ、た……」



彼が最後に見たのは、祭りの中を楽しく歩む、自分と、妻の幻だった。

ノイジーローズ・ガルガチュアスが望んだ全てが、そこにあった。

ただ殺されるためだけの運命として生まれついたはずの自分。

ありとあらゆるものに、その場所へと縛り付けられた自分。

そのようなものは、その幻には一切存在していなかった。


最期の力が抜け、だらりと腕が垂れ下がる。

両目の光が消え、首がふらりと傾いた。



「うっ、うぅっ、うぐっ」



嗚咽を漏らし、肩を震わせる。

顔の右半分も、左半分も、同じ形に歪んでいた。

血よりも、透き通った粒の方が垂れ落ちる数が多くなった。


そして、アヴムオードは慟哭した。

夫の胸に顔を埋めて、ただ崩れるように泣いた。

瓦礫と血に囲まれて、ひたすら哭いた。

自分のことなど、どうでもよかった。

これが、戦士たる者の宿命であり、末路なのか。

その悲しみと辛さを、子供のように振りまいていた。









──うるさいな。


そう感想を抱いたのは、同じく死にかけているノーグルーンであった。


出血は多量、呼吸もできなければ鼓動すら止まった。

指一本目玉1mm動かせない。

どんな魔法だろうと、もうどうにもならん。


死ぬんだな、私は。


なんというか、あの泣きじゃくっている女のような悲しみや辛さは感じない。

私がそういう人間なのは知っていたが、せめて死の瞬間ぐらいはそういった感覚が蘇るものかと思っていた。

昔の私は……死にたくなかったはずだ。死ぬのを恐れていたはずだ。

だから弟すら、あの男に売った。

あの時に、今の心境だったなら……何かが違っていたのだろうか。




待て。

なんだ。

どういうことだ。

何故そんなことを考えている?

考えるだけ無意味だ。

時間は巻き戻らない、あの時には戻らない。世界は人間の思い通りにはならない。

だというのに……何故死に際に、私はこんなことを考えている?

何の意味もない、一切の無駄だ。理解しているというのに、何故……



もし、あのとき「弟と一緒にいたい」と言っていれば。


もし、あのとき魔道士になろうだなんて気まぐれを起こさなければ。


もし、写本作りの手伝いなんてしなければ。


もし、あんな絵など描かず、取り戻そうともしなければ。


もし、”忌み子”治療の実験など引き受けなければ。


もし、フェルマーにも徹底的にシラを切り通していたらば。


もし、クランツを助けに行かなければ。




もし……統王への殺意を、諦められたなら。




もし……あの子たちと一緒に、ただ平穏な暮らしを求めていたなら。




もし…………こいつらと、敵ではなく……






そうか、そうだったんだな。

ドアは、常にあった。


62%だと?




──大嘘つきめ。








「“天網、恢、 恢”」




血が溢れる口の中で、ぼそりと誰にも聞かれぬ全力を込めた呟きが漏れる。

そしてそれきり、ピッタ・ノーグルーンという存在は、ただの肉と骨と皮と名前の塊となった。

彼の全ては肉体から放出され──



「かはっ! けほっ! けほっ!」



──ノジーへと注がれたのだ。


顔を歪めて血を吐きながら咳き込むノジーから体を起こしながら、アヴムオードは呆然と驚いていた。

見ると、彼の体に捺されたはずの黒手形は跡形もなく、ノジーは「うーん」とうなりながらひょいと体を起こすことができた。

アヴムオードだけではなく、クロスも同じように驚愕を顔に浮かべたまま固まっていた。


「あれ……ここって、もうあの世?」


寝起きのように目をこすりながら呟く。

その声色に、死にゆく者の揺らぎも掠れもない。

まさしく、朝目覚めたばかりの第一声のような声だった。



「のじぃぃぃぃぃぃぃいいいいいい!!」



叫びながら、改めて抱きつくのは彼の妻だ。

自分より遥かに大柄な女性に全力で抱きしめられて、彼の体は一瞬でほとんどが埋もれた。


「ア、アヴィー?」

「良かった、良かった……!」

「もごご……あれ? もしかして僕生きてるの?」

「そうですよノジーさん! 生きてるんです!」


ようやくクロスも気を取り直してノジーの肩を掴む。

涙を浮かべながら自分を強く抱きしめる妻の力、自分の肩を掴む手から伝わる安堵と喜びと興奮と驚きが混ざった力。

実感し、認めざるを得なかった。自分が生きているのだということを。


「でも、どうして……?」

「わかりません! 全てが一瞬で咄嗟のことで“金科玉条”とやらの入りが甘かったのか、僕の魔力に干渉しながらの攻撃だったため万全の出力じゃなかったのか……いずれにしろ、あなたは生きている!」

「そんなはずは。あれは間違いなく致命──」


話しながら、ノジーは気づいた。

少し離れた場所にある、恩師の死体に。

力なく倒れているその指先が、気のせいかと見まごうばかりに、微かに自分の方に向いていることに。


ノイジーローズ・ガルガチュアスは全てを理解して、目を細め、眉を潜めた。

その一瞬の表情には、誰も気づかなかった。

ノジーも、その一瞬の表情だけで、後は何も言わず、何も気取らせなかった。

魔力と魂を攪拌し、単なる”命”としか呼べぬような純粋なエネルギーへと変えて、注ぎ込む。

どんな病もどんな傷も跳ね返し、立ちどころに再生させるほどの強い生命力を一瞬だけ得られるその魔法のことを、ノジーは知っていた。

かつて自分が”忌み子”だった頃、治療実験の一つとして用いられたその魔法を。


先生。



ありがとうございます。


ごめんなさい。


お世話になりました。




「ノジー! ノジー! 何度でも名前を呼ばせてくれ! ノジー! もう絶対に離さないからな!」


涙と鼻水をぼろぼろと振りまきながら頬ずりするアヴムオード。



「ノジー! ノジー! ノジぃぃ! ノ──あっ」



だが、忘れていた。彼女とて重体であるということを。

ふらりと気が遠くなり、ばたりと倒れる。

「わーっ!」と叫ぶクロスとノジーが「大丈夫ですか!?」「しっかりしてアヴィー!」と彼女を心配する中、ようやく階下より「ここじゃ! はようハシゴをかけぬか!」とノズラクロウの声が響いてきたのだった。




裏切り者、ノイジーローズ・ガルガチュアス。

反統王連衡幹部、ピッタ・ノーグルーン。

両名との戦闘は、衛兵に7名の死者、39名の重軽傷者、一般人に3名の死者、15名の重軽傷者を出すという大惨事の大騒動として幕を下ろした。

アヴムオード元帥は重傷を負いながらまたも自らノーグルーンを討ち取り、重体ながら一命も取り留めた。

このことは時を経て、新たな彼女の武勇伝として吟遊詩人や講談師にうなられる逸話のひとつとなり、酒場や道々を彩る余興のひとつとなるだろう。

彼女の名は語り継がれ、ノーグルーンの名はやがて忘れ去られるだろう。

積み重なる時間と歴史に埋もれ、人々に忘れ去られてゆくのだろう。


彼に、名前など無いのだから。


だが、天網恢恢疎にして漏らさず。


何者も、ただ消え去りはしない。

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