名前のない子供たち
私に名前など無かった。
物心ついた時には、名も知らぬ街のごみ溜めのような通りでうずくまっていた。
父と思しき男は私のことを「てめえ」だの「いけ好かないガキ」だのと呼んでいたが、それが自分の名前とは違うということを知ったのはずっと後だった。
だが、自分の年齢はなんとなくでもわかっていた。私には弟がいたからだ。
日銭を酒と賭博でその日のうちに溶かした父はほぼ毎日のように、理由もなく私たち兄弟を殴り、蹴り、投げ、打ち付けた。
棒切れで頭を殴られた時などは、三日三晩気を失ったままだった。
なんとか目覚めた時には、倒れた時と全く同じ場所で、隣では弟がうずくまって地面を指でいじり回していた。
その時の弟の表情を見て、これが絶望なのだろうと思った。三日三晩昏睡していた兄の傍で、弟は全てに絶望しながら離れられもしなかったのだ。
私たちはいつも一緒だった。
互いに支え合い、二人で耐え、悲しみも苦しみも飲み水も食べ物も全て分かち合っていた。
そうしなければ、とても生きられなかったのだ。
もし一瞬でも目を離せば、あの男は弟に何をするかわからない。
だが弟がいれば、あの男の暴力も分散されるのだ。
弟を守ることが、私自身を守ることにも繋がっていた。当時はそんな打算を踏む余裕すら無かったのだが……
しかし、最も耐え難かったのはあの男の暴力などではなかった。
それは、飢えだ。
常に空腹と渇きに肉体と魂は苛まれ、思考の全てはそれを満たすことで埋め尽くされる。
そのためならば、他のあらゆるものが取るに足らない。
人間的な部分も、最も捨てたくないと思っているものさえ、飢えの前では喜んで手放してしまう。
自分の指をしゃぶっている弟の真似をしてみた時は、泥にまみれ汗が滲んだ自分の指に塩気を感じて美味しかった。
思い余って噛みつきそうになった時、弟に「兄ちゃん、怖いよ」と声をかけられなんとか踏みとどまったのだ。
もし弟がいなければ私はあの時自分の指を噛み千切っていたに違いない。
そんな状態の私たちが、飢えに耐えかねて盗みに走るのは当然の帰結と言えた。
できるだけ綺麗な布を拾い、それを体に巻いて市に出て、隙を見て盗む。
一度に盗めるのは片手で掴めるもの程度。だがそれで、私も弟も大いに喜んでいた。
パン、果物、水、干し肉、穀物、盗めそうなものはなんでも盗み、ネズミ、虫、雑草、食べられそうなものはなんでもとって食った。
やがて、市の商人たちは私たちの存在に気づいたようだった。
汚い身なりの私たちは警戒され、栄養の足りていない私たちが大人たちの足から逃げ切れるはずもなかった。
捕まると、殴られ、蹴られ、打たれ、あるいは刺され、斬りつけられることもあった。
成功して得られるものはパン一切れ、あるいは果物一つ、あるいは穀物一握り。
失敗して得られるものは全身の傷や痛み、骨折、出血、ひどい時などは2週間ぴくりとも動けなくなったものだった。
役人の前に引き立てられた時などは背中を鞭で打たれ、奥歯が噛み締めで割れた。
気を失っても私は鞭で打たれ続け、弟は歯を二本引っこ抜かれた。
だが、それでも私たちは生きていた。
互いに名も知らぬ弟と兄。
毎日の全ての苛酷さが私たちの日常であり、そこには恨みも怒りもなかった。
ある日、片腕を折られた私は弟と一緒にあばら家で寝そべっていると、あの男が数人の男と一緒に帰ってきた。
男たちは私たちを見るなりこう言った。
「こいつらか?」
あの男がへつらいの笑みを浮かべながら「へえ」と答える。
すると男たちは強引に私たちの腕を掴んで立たせた。
見知らぬ男に囲まれ腕を引っ張られた痛みと恐怖で泣き叫ぶ弟。
「静かにしねえか!」と怒鳴られながら頰をぶたれれば、さらに大きく絶叫する。
「二人はいらない」
男たちの奥からもう一人、身なりのいい男が歩み入った。
よく整えられた見たこともないきめの細かい生地に、複雑な折り目や飾り。
まるでそいつだけが、別の世界からやってきた別種類の生き物のようだった。
「どちらか選べ」
男は父へ敢然と告げる。
いつも怪物のように暴れ回る父が、その男の前ではしどろもどろで身を縮こまらせながら冷や汗を流していた。
「“アマルシア・ドアの法則”だ」
にたりと笑みを投げつける男に、父はさらにうつむいて目を泳がせながら「え、へえ、そのお」ともごもご呟くばかりだった。
埒が開かないと見て、ため息をつくと今度は私たちの方へ歩み寄った。
私と弟を捕まえている男たちは、彼の言うことを聞いているようだった。
「君たちは、どうだ?」
身を屈め、目線を合わせて訊ねかける彼の顔は、ぞっとするほど何もなかった。
その笑顔の中は一切の空っぽなのだと、直感で理解できた。
この男は、危険だ。父や商人どもや周りの男たちとは次元が違う、こいつは間違いなく──
「どちらを、連れて行くべきかな?」
「んー?」と様子を探るように喉を鳴らしながら、弟に視線を向ける。
彼の姿を見て私同様に何かを感じ取りぴたりと泣き止んでいた弟は、不安の中で躊躇いながら、答えた。「兄ちゃんと、一緒にいたい」と。
「ふむ?」
もう一度喉を鳴らして、今度は私を見た。
あの目、この世の何よりも昏く、あらゆる光を呑み込み消し潰してしまいそうな目が、笑顔の形に歪んでいた。
その顔の主のことは、もう人間とは思えなくなっていた。
人間の顔を貼り付けた何か、化け物が私たちを吟味している。そう思った。
私は震えていたと思う。
失禁する一歩手前だった。
視線を外し、歯を小刻みに鳴らし、萎縮していく心の中で相反するように一つの感情が弾けていた。
死にたくない。
それは飢えと同じだった。
渇望と同じだった。
気付けば、私は「弟を……」と口走っていた。
それ以上は紡げなかったが、それで十分だった。
男たちは弟を連れて行った。
肩に担がれながら「兄ちゃん!」と泣き叫ぶ弟の声がいつまでもこだましていた。
それを、私は呆然と見つめていた。
身なりの良い男から投げ渡された重そうな巾着袋を浅ましく這いつくばって拾う父の姿など、その時は目に入らなかった。
弟の泣き声が聞こえなくなるまで、私はただずっと、座っていた。
私は弟を売った。自分が生きるために。
そう実感した時、私の中で何かが起きた。
まるで臓器の一つが千切れて、ふわふわとどこかへ飛んで行ってしまうような感覚。
それを最後に、私はもう何も感じなくなっていた。
恐怖も、不安も、悲しみも、辛さも、苦しみも、ただの記憶と化した。
その夜、私は父親を殺した。
棒切れに釘を打っておき、酔っ払って眠っている大の男の首めがけて全力で振り下ろしたのである。
ゲッという耳障りな音だけを出し、父は全身を弓のように反らせて硬直した。
腕だけでばたばたと何度か暴れ、両目で一度だけ私を見たようだが、私は父の顔など見ていなかった。
父を殺したのは、憎かったからではない。怒っていたわけでもない。
ただ禍根を残すと面倒だと思ったからだった。
弟を売った金を、私が盗んだ後の。
父が物言わぬ肉と骨と不純物の集積となった時、私の頭によぎったのは、あの身なりの良い男のことだった。
ああいうふうに振る舞えば、大人たちは言うことを聞くんだ。
屈強そうなならず者どもも、父でさえも。
だったら私もやってみよう。
弟を売った金は、結構残っていた。
一晩で全て酒として飲み切ってしまうなど到底できない金額だったのだろう。
その金で私は、できるだけ良さそうな服を買った。
わざわざ街の外まで行って、汚れた体も川で入念に洗った。
体格の良い男を一人雇い、そいつの身なりも整えさせた。
そして私は、詐欺を始めた。
身許のしっかりした豪商とその息子のふりをして金を借り、そのまま踏み倒して逃げる。
担保は他人の所有物を自分のものであるかのように偽った。
身なりと振る舞い、言葉遣いはあの男を参考にした。
そうしていれば、誰も私たちを疑いはしなかった。
数年すると、雇っていた大人の男が分け前をちょろまかしていたことが分かったので始末し、私は独り立ちした。
私はもう青年と呼んでいい年齢や上背となっており、それを機に生まれ故郷の街を離れた。
その時になって初めて、自分の生まれた場所がティナカンドの”もぐら穴”と呼ばれる貧民窟だったのだと知った。
街を、国を渡り歩きながら、私は詐欺を続けていった。
いくつもの身分を偽り、どんな立場の人間にもなりすます必要性から、自然と様々な知識も身についていった。
自分でも覚えきれぬほどの無数の名前を使い、無数の人々を騙したが、どれも私の名前ではないのだ。
金が貯まり、いつしか本物の金持ちとなり、もう飢えや渇きを感じることすらなくなっていた。
世の中は奇妙だ。貧しい子供がパン一切れを盗んだ時は世界の終わりのように人々は怒り狂うが、身なりの良い青年が笑顔を浮かべながら大金を掠め取るのには見向きもしない。
盗みとは、犯罪とは、悪とは、大きければ大きいほど悪とは気付かれなくなる。いずれこうした悪が人々の周囲全てを包み込み生活を完全に支配して取り込んだ時……完全な犯罪は完成するのだろう。
そこまで、する気はない。
詐欺から足を洗おうかと考え始めていた頃、貴族の四男坊と偽って参加したパーティーで私は一人の男と出会った。
歳をとった男で、魔道士会の評議様ということだった。
魔石相場の変動でも先んじて探れれば儲けものと思い話しかけてみると、どこをどうなったものか、いつの間にやらワインをがぶ飲みしながら偏魔力学と『ヨゼプター仮説』の真偽についての議論を展開していた。
召喚魔法は実在するか否か? それは魔法学や魔力学というより、民俗学や考古学の分野である。
だがこの老人は、それを本気で考えているようだった。
正気ではないな。
即座にそう断じたが、老人から「私の学校に来なさい!」と誘われた時には承諾した。
犯罪の道を極めるつもりはない。ここらで魔道士になるのも悪くはなさそうだ。
老人は、その名をラゥダー・インジックといった。
少し乗り気になった時、私は彼に訊ねてみた。
「“アマルシア・ドアの法則”とはなんでしょうか?」
彼はきょとんと不思議そうな顔をしてから、笑った。
「二つのドアのうちどちらを選んだとしても『もう片方のドアを選べば良かった』と後悔する確率はおおよそ62%である、と唱えた仮説だよ。与太の一種だが、思考実験としては面白い。それがどうかしたのかね?」
「いえ、別に」
二つのドア、62%、根拠に乏しい直感めいた、くだらない学説だ。
だが……もし全ての選択に後悔という澱が生じるのだとしたら、人生に於いてそれは凄まじい量が堆積していくのだろうな。
どこかでかき出すなり漉し取るなりして除かなければ、積み重なり続けた澱はいずれ比重に於いてこのワインを凌駕するだろう。それはもはや人格や知性というより、後悔の塊に付属するおまけ程度の魂でしかあるまい。
だから人は、後悔を恐れるのか。
くだらないな。
そして私は、ワインを飲み干した。
“さざ波の衝角船”に入学した私は、魔法を学びながらインジック翁の実験を度々手伝った。
魔法は私にとって特段面白くもつまらなくもなかったが、違和感なく知識がするすると入ってくる感覚に不満はなかった。
学び、実験を手伝い、肉体の欲求を満たす。それの繰り返しは以前の生活とさほど変わらないようにも思えたが、退屈という感情もなかった。
ある日、インジック翁は私にこう言った。
「君は感情に乏しいようだが、それは生まれつきなのかね?」
「いいえ」と答えると、安心したような、それでも少し残念がっているようなため息がまず返ってきた。
「ならば、君にも感情は恐らくあるのだろう。蓋がされているか、表現の仕方をよく知らないだけだ」
「嬉しい時には、喜びますよ」
「いや、君は自分の感情を分析しているだけだ。嬉しいという感情を分析し、それに応じた反応を想像して自然さを演じている。だから情動的反応がほんの少し遅れる」
「どうすればいいんですか?」
「そうじゃな……何かを作ってみてはどうじゃ? 詩でも彫刻でも絵画でも料理でもなんでもよい、一切の先入観も定型も公式も法則もなく、ただ心のまま直感のままに何かを作ってみてはどうじゃ?」
「なるほど、考えておきます」
後日、試しに絵を描いてみた。
なんの発想も着想も持たずにキャンバスの前に座り、ただ気の向くまま直感のままに筆と絵の具を投げつける。
描いている途中で「この絵は太陽の絵ということにしよう」と思いついたぐらい、無心のままで筆と色を運んでみた。
ふと、後ろにインジック翁が立って絵を見ていることに気づいた。
振り向いてみると、彼は絵を見ながら顔を強張らせていた。
冷や汗を流し、瞳を震わせ、口を固く閉じ、何かをこらえているようだった。
「先生」
話しかけてみると、肩を強く掴まれた。
言葉は無かったが、これ以上は止めるようにと語っていた。
私たちの関係は変わらなかったが、絵と心の話はもう二度としなかった。
数年間、私はインジック翁の下で魔法を学びながら働いていた。
いつしか彼の助手という立場になっており、私もすっかり大人になっていた。
そんな時、魔界は突然統一された。
後の統王が魔界の全てを征服し、あらゆるものを支配したのだ。
ぼんやりと、かつて思想した悪が人々の全てを包み込む時代が来るのだろうかと思いながら、はじめ私は大した関心を抱かなかった。
だが、統王が発した令に目を通していた時だった。
福祉の一環として、天核教に孤児や貧しい子供たちの面倒を見させる。
最底辺の子供にも食料と住居を与え、無料の教堂にて学問も授ける。
子供たちが大人になるまでの間、国と天核教と地域が世話をする。
全ての貧しい子供たちを救うために。
おおよそそのような内容の制度を統王は発した。
それを見た瞬間、私は思った。
「生かしてはおけない」と。
自分でも驚いていた。己の殺意の強さに。
心の底からぐつぐつと湧き上がる、沸騰したような熱く黒い炎。
この統王を、私は、絶対に殺さなければならない。
どれだけ時間がかかろうとも、私の一生を捧げて尚足りなくとも。
どうしてそう決意したのかは私自身にもよくわからなかった。
ただ、溢れ出たのだ。
憎悪が。
間もなく、私はその目的に向けた長い旅の一歩を踏み出す好機と巡り合った。
スゥガ・タムトという魔道士が死に、その遺作たる書の写本をインジック翁が作成する際、私がその手伝いをすることになったのだ。
写本を作るにあたって書の中身を全て読んだ時、私は己の目的の達成が実現可能であることを確信した。
同時に、召喚魔法がこの世に実在することも。
インジック翁はそのためにこそ、この書の写本を作ろうと決意したのだろう。
写本が完成した時、彼はそれを私に託し、遺言のつもりで聞いてほしいと言った。
「召喚魔法を、君の手で実現させてくれ。それを、世の中に、どんな形でもよい、必ず残してほしい」
私はそれを約束し”さざ波の衝角船”を去った。
そして、私はその約束を、己の絵に託した。
絵画ならば、芸術ならば、誰かが必ず保管し続けてくれるだろう。
他者にも理解されやすい題材をもとに描けば、世に残る確率は上がる。
そうして私は、その時にたまたま目についたヨボク神話の翻訳から題材を選び『大ルーン画』を描いた。
召喚魔法の複雑かつ精緻な術式と理論を詰め込んだ絵はどうしても大きなものになってしまい、私個人で扱い続けるのは困難であったため、当初の計画通り商人に売り払った。
幸い、その絵は高い評価を得られた。目論見通り、保管し続けられる絵となったのだ。
『スゥガ・タムト写本』の中には、検証を要する理論が山のように詰め込まれていた。
これを書いた者は恐らく狂人であり天才でもあるのだろう。
だが少なくとも、この禁忌は武器になる。
人を惹きつけ狂わせる危険な魔力と魅力を薄めて広げ、人々を教導することができる。
統王の世を、破壊しろ、と。
そのために私は名を変えて魔道士会に入会し、教育者としての役職を希望した。
ルネイ地方の魔道士会支部の一つへ赴任し教鞭をとり、多くの若者たちに知識を授ける。
かの写本に記されていた知識の一部をちらと織り交ぜながら。
そのうち、何故か私の教えは面白いと評判になっていった。
これも写本の知識がもたらす魅力の一端なのだろうか。
私の教えは若者らにとって刺激的で、魅力的に映るようだった。
その評判が、思いもよらない奇妙な出会いを引き寄せた。
「先生、お願いします!」
ある日突然私の家にやってきて床に頭を擦らせている男、彼はガルガチュアス、”戦う書令”と呼ばれる高級官吏だった。
といっても身なりは平服で、普通にしていればどこにでもいるようなただの男にしか見えないだろう。
「もう先生しか頼れる人がいねえんです!」
「そう言われましても……」
正直に言って、私は困っていた。
頭を擦らせる彼の隣にぼうっと立っているのは、彼の息子だという。
「なんとか隠してここまで育てて来ましたが……もう限界です! もし息子が”忌み子”だと誰かに知られたら……」
「“忌み子”の治療は今まで幾百通り試みられ、その悉くが失敗してきました。その年齢まで生き延びただけでも奇跡です。それ以上など、とても望むべきではないでしょう」
「わかってます! どの医者にも、魔法使いにも、魔女にもそう言われ続けてきました。でも、だからって諦めらんねえんです!」
隣の子供をちらと見遣る。
呆けたような無表情、瞳の中で撹拌される鮮やかな色彩、間違いなく”忌み子”の特徴だ。
10年近くも生き延びた”忌み子”など歴史の中でも皆無であろう。
さしずめこの子供は、溶岩の溜まり続けた火山。水面が盛り上がるほどまでギリギリに注がれた器。
ここでこうしているだけでも非常に危険だ。本来ならば今すぐ殺して適切に処理しなくてはならない。
だが。
「……後悔するからですか?」
「へっ?」と間抜けな表情を浮かべられる。
「自分が後悔しないために、あなたは今そうしているのですか?」
まだ理解できていないようだ。
「真実その子を想い、ただその子を助けたいという一心でそうなさっているのですか? それとも自分自身が道徳に顔向けできる人間でありたいがために、親の義務を利用なさっているのですか?」
「は?」と応える声には怒りが滲んでいた。
「“忌み子”の存在は関わる人間全てにとって無視できない危険です。危険を犯すには見返りが存在していなくてはならない。あなたはどんな見返りを得ているのですか?」
「どういう意味だてめえ!」
立ち上がり、胸倉を掴まれる。
壁に押し付けられたが、せいぜい息の生ぬるさが不快な程度だった。
「その子のためにどれだけのことをする覚悟があるのかと訊いているのです。もしあなたが自分の道徳のために行動しているならば、それに背くような非道義的、非人倫的な手段は取れません。治療の完遂は不可能でしょう。あなたは道徳に反する治療を断行する私を役人に密告し、その子は死ぬ。最後にはあなたの『やれることはやったんだ』という満足感を残して」
充血した目がカッと見開かれる。
胸倉を掴む手がわなわなと震えているのを感じた。
「見損なうなよ頭でっかちのクソ学者風情が……この10年、俺と女房がどんな思いであの子を守って、そのために何を犠牲にしてきたか。こっちは本気なんだよ。ぬくぬくと本と絨毯の間で育って来た魔道士様にゃわからねえだろうがよ、俺たちゃどんな危険にも体一つ命一つでぶつかってきたんだ。こんな……こんな病気ごときで、息子を諦められるかよ!」
怒りは本物のように見えた。
このまま私を絞め殺すことすら、彼は厭わないだろう。
「62%だ」
「あ?」
「私が引き受けるにしろ引き受けないにしろ、あなたは62%の確率で後悔する。治療なんて頼まなければ、私のところになんて来なければ、そして、この子をあの時死なせてやれていれば」
掴む手の力が強まる。
「出来んのか? 出来ねえのか?」
「出来る、とは言い切れない。しかし──」
「──やってみよう」
手が離される。
だがそれでも、彼は私をまだ睨み上げていた。
「恩に着るぜ、このクソ野郎」
「恩の返済は結構。あの子はしばらくこちらで預かる」
肩でガルガチュアスを押しのけ、子供へと歩み寄る。
ぼんやりと見上げる子供の瞳の中では、飜る炎のように色彩が揺らめき踊っていた。
「言葉はわかるか?」
こくん、と頷く。
「私のことは、そうだな、呼びたくなった時に呼びたい名で」
名前などどうでもいい。
私の名も、この子の名も知ろうとは思わなかった。
父親から紹介され知識としてノイジーローズ・ガルガチュアスという文字列を知ってはいたが、ただの言葉だ。
これがこの実験体との出会いだった。
治療を引き受けた理由は三つ。
この子の父親の相手が面倒だったから。
どうやら父親が治療を本気で望んでいるようだったから。
そして、『スゥガ・タムト写本』の中に”忌み子”についての記述があったなと思い出したから。
その日から、私はこの実験体と生活を共にした。
“忌み子”とは魂の形成不全によるものであるからして、まずはその魂の形を把握し、欠損の大きさや深さや位置を知らねばならない。
そのためにはアーゲルンのやり方である共同生活による魂の同一化が効率的だろう。実験体を常に傍に置き、観察と同時に魂の同一化を進める。
ある程度それが進行したところで、本格的に実験を開始するのだ。
しかし、いくつか問題があった。
私には子供との共同生活の経験が乏しい。
生活そのものを円滑に進行しなくては、ストレスが貯まり、それが同一化によって実験体にも不純物的な影響をもたらしてしまうだろう。
子供を持ったことのない私にとって、頼りとなる記憶は……久しく忘れていた、弟との思い出だけだった。
弟を守り、弟に守られていたあの子供時代、私は同じように実験体に接した。
どこへ行くにも一緒で、常に触れ合い、片時も傍を離れなかった。
職場だろうが寝室だろうが沐浴室だろうが居場所を共にし、常に新鮮な刺激を与え続けた。
すると、やがて変化が始まった。
実験体が私の手を握る力、私の服の裾を掴む回数、潤んだ目で私を見上げる頻度、明らかに情動的な反応が向上し始めたのだ。
私の方も、無言のままに実験体の気持ちや要求を察知する成功率が向上していた。
魂の同一化が、成功したのだ。
私たちは次の段階へ移った。
治療のための実験的処置を本格的に開始したのだ。
魂に直接触れる実験、薬品によって脳から魂へ干渉する実験、情動と魂の状態の相関を観察する実験、他の生物の魂で欠損部を補修する実験、他の人間の魂と直結させてみる実験。
『スゥガ・タムト写本』に記された理論をもとに、それを実現する手段を模索する実験を繰り返した。
その多くは苦痛を伴い、一度などは魔力漏出が起きかけて実験体の背中に大きな裂け目が出来てしまった。
生涯残るような傷痕だったが、それでも私は止めなかった。止める理由などないからだ。
「やめて先生」と実験体が叫ぶ声も、その苦悶の悲鳴も、手を止める理由にはならなかった。
実験し、記録し、考察し、また実験する。
幾度も幾度もひたすら繰り返しながら、螺旋階段を登るように前進し続けた。
そうして、私はやり遂げた。
私自身やり遂げられるとは思っていなかったことを。
治療に成功したのだ。
その結果を意外には思ったが、感動はしなかった。
魂は完全に修復され、実験体は人並みの人間らしさを、私よりも人間らしい存在となったのだ。
人間、やってみれば出来るものである。
それと同時に、私は確信しつつあった。
『スゥガ・タムト写本』、頭のおかしい学者の書いた、狂気を伝播させる道具。
だがここにある知識は、本物かもしれない。
この狂気のうちにあるものはさらなる狂気と混沌なのではなく……真実なのかもしれない。
実験体を親へ返し、私は計画を練り直した。
狂気を世界へじわじわと浸透させていくだけではなく、もっと直接的に、即効性のある方法があるのではないか。
この世界を、終わらせるための。
それを考えながら日々をこなしていたある日、生徒の一人が私に話しかけてきた。
それ自体は度々あることだったが、彼の話は私の興味を引いたのである。
「先生、先生が連れ歩いてたあの子供、”忌み子”ですよね?」
無論、最初はいつものようにはぐらかして切り上げようとした。
だが彼は知っていた。実験体のことも、治療を頼まれていたことも、そしてその治療が成功したであろうことも。
その全てを推理にて言い当てた上で、こう言ってきたのだ。
「僕も”忌み子”に興味があるんです、あれの可能性を追求することができれば、もしかしたら社会そのものを塗り替えることができるかもしれない」
その目は、爛々と輝いていた。
それを見て確信した。ばら撒き続けた狂気が、反響となって返ってきたのだと。
彼はフェルマーと名乗った。
その日から、私たちは師弟であり、共同研究者であり、共犯者であり、同志となった。
あの写本を読ませると、彼は非常に興奮した様子でさらに狂気に魂を浸していった。
体を震わせ、目を見開き、うつむいてぶつぶつと呟きながらそこら中を歩き回る姿を度々見せるようになり、その想像の翼は海より深く潜行し、雲より高く飛翔していた。
その熱心ぶりは私の想像以上であり、『スゥガ・タムト写本』を彼に託しても良いとさえ思えたほどだった。
私の代では成し得ない、統王の世を破壊するという事業。それを任せる次代には彼が相応しい、本気でそう思った。
だが彼は、より大々的で、一挙に前進できるような大規模な実験が可能な環境を求めた。
私のように隠れて、地道に一つずつ、確実に慎重に積み上げていくやり方に彼は焦れていたのだ。危険を重視するのは詐欺師時代に培ったやり方だ。許されないことをやっているのだという自覚と共に、石橋を叩いて渡るような慎重さを優先する。その重要性を彼は理解していなかった。
自分の頭の中にあるものを一刻でも早く解放し実現させなくては心がおかしくなってしまう、それが彼の狂気だった。
そんな彼に……この写本を託すのは、それこそ危険すぎる。脇目も振らず性急に直進する彼が下手を打てば、写本が”敵”の手に落ちてしまいかねない。
そう思いとどまり、私は彼を卒業という名目で遠ざけた。彼自身、それを望んでいたようだった。
そして案の定、彼はルネイの国人たちに接近し、彼らの力を背景に様々な実験や無謀な挑戦を始めていた。
魔女協会まで敵に回し”兵の魔女”の抹殺対象に指定されたと聞いた時には、さすがに呆れよりも驚きが勝った。
彼の行う無法な所業は当然、統王の目にも留まることとなり、その後見人たるルネイの国人たちとの関係も悪化。以前から統王への不満を募らせていた彼らはこれを契機とばかりに連合。結果的にはルネイ国人衆が結成され三角連衡の乱が勃発するに至った。
私は、心底呆れていた。
こんなものが、あの統王の世を破壊する楔たり得るはずがない。
あんな連中で、あんな方法で、統王を殺せるはずがないのだ。
私は三角連衡とは距離を置き、ただ淡々と、利用できそうなものは拾いつつ、地道に狂気を撒き役に立ちそうなコネクションを蒐集し続けた。
しかし彼は、フェルマーは、一方的に私に手紙を送り続けていた。
返事などは一通も出さなかったが、読まずに捨てるようなこともしなかった。
内容は日常的な報告であったり、実験の進捗。どんな実験を行い、どう失敗し、何が成功し、次からはどうするか。
現在の情勢や心境なども書き綴ってはいたが、決して私に何かを頼んだり願ったりするようなことは無かった。
それらの全てが、悪化の一途を辿っていた中ですら。
ただ、ある日。
彼からの最後の一通が届いた。
『これが最後の手紙になると思います』と前置かれた文面には、いよいよ”フェルマーの子供たち”もあと一人だけとなってしまったこと、その子の家族と共に逃げ、ある一家に匿ってもらっていること、自分の研究記録を隠すのには成功したこと、それでも、きっと自分は逃げ切れないであろうことが書かれていた。
そして最後に、震えた文字が綴られていた。
『この子だけは死なせたくない。お願いです先生、この子を、お願いします』
読み終えた直後、私は全ての手紙を処分した。
破った上で焼き、灰もすり潰して川へ流した。
そして、向かったのだ。不肖の弟子が匿われているという家へと。
結論から言うと、私は間に合わなかった。
いや、むしろ完璧な時間だったのかもしれない。
到着した時、既に家の者は皆殺しにされていたが、その犯人の姿も兵士の姿も無かった。
ただ屋根裏に設えられた部屋のクローゼットに、その子供はいた。
呆然と腰が抜けたように座っている子供。肩を揺すってみても一切無反応だったが、確実に生きている。
それどころか、何故か彼は勃起していたのだ。
間違いなく、この子こそが”フェルマーの子供たち”最後の生き残り。
そう確信し、ひとまず大急ぎでその子を連れ帰った。
私の人生の中で、またもや幼い子供との共同生活が始まった。
初めのうちこそ警戒する様子を見せていたが、どうやら私が守ってくれているのだと理解すると徐々に打ち解け、結果的にあの実験体よりも早く、私たちの魂は同調した。
彼は非常に賢く、好奇心旺盛で、子供らしいわがままさを振るう子供だった。
私があまりにも彼を名前で呼ばなかったため、ある日新しい名前をせがまれてしまい、フェルマー・ルネイだけ与えてやると「じゃあ僕はクランツ・フェルマー・ルネイだね」と即座に言われてしまった。
またある時は「友達が欲しい」とねだられたので、同様の境遇や生まれであるあの実験体を紹介してやるとあっという間に意気投合し、しばしば会って遊ぶだけでなく文通友達としてもやり取りしているようだった。
だが私の頭の中にあったのは、フェルマーの手紙に書かれていたことだけだった。
彼によると”忌み子”は魂が欠損した状態で生まれたからなのか、何らかの突出した才能を持っていることが非常に多いのだとか。
人間が生物として成立する以上、本来であれば感情や情報を抑制し、偏った状態が生まれないよう調整する機能が存在する。
だが”忌み子”はその機能が全く無いか、あっても弱いというのだ。
それ故に薄く広く様々な情報を取り入れ処理するのではなく、特定の偏った情報に処理の比重が置かれている。情動に問題が生じるのも恐らくそれが理由だろう。
治ったとしても、その傾向は残る。
ならば、彼らは何らかの才能を持っているはずだ。
それが何なのか、調べるべきだ。
私はクランツに手ずから教育を施すこととした。
どこの教堂でも教えているようなことから始め、少しずつ難度を上げつつ分野も広げる。
予想通り彼は凄まじい速度でそれらを吸収していった。
ものの数年で、彼は私の師、インジック翁を学識と論理性の面で凌駕していた。
特に歴史学と社会学については飛び抜けており、齢15にして私が舌を巻くほどの社会学論文を完成させていた。
だが同時に、彼自身の魂や考えが何かに蝕まれているような気もした。
彼はあまりわがままを言わなくなった。むしろ自分の欲求を人から隠すようになっていった。
自分に関するどんな情報も他者に与えなくなり、そんな情報を隠しているような素振りすら見せなかった。
これが賢さというものなのだろう、これが大人になるということなのだろう。
私はそう解釈し、問題ないと断じて彼に知識を与え続けた。
やがて、彼は私の知識全てを吸収しつくしてしまった。
こうなれば、もはや与えられるのは『スゥガ・タムト写本』の知識しか残っていなかった。
フェルマーとは違い、慎重で、隠し事も上手そうな彼ならば託してもよいだろう。
そう思い写本を与えたところ、彼は夢中になってそれを読み耽り始めた。
何日も、何週間も、何ヶ月も彼はずっと繰り返し繰り返し読み続け、その間私たちは一言も言葉を交わさず、目すら合わせなかった。
彼の視線は常に写本のページに向いていたのだ。
やがて、彼がとうとう本から顔を上げた時、その目は黒く輝いていた。
ああ、彼も染まったのだな、この狂気に。
何故か冷たくなってゆく思考の中で、私はそれを実感した。
その日からは、ずっと私は彼らを手助けしてきた。
クランツとノイジーローズ、二人の”忌み子”が作り上げた構想を実現するために。
ノイジーローズは言っていた、元マンマートの連中を利用して魔界の中枢部に潜り込んであるから、うまく利用しよう、と。
実験体を利用して統王の世を破壊できないものかと、三角連衡の際に私がとりあえずそうさせていたのだが、思わぬ形で再利用が叶ったのだ。
私は彼らのために何もかもを行なった。
連衡を結成するための仲間を探し出し、デ・タンダたちを雇い、彼らの手足となる組織の形を作り上げた。
だが実験体は言った、先生のために、と。
だがクランツは言った、世界と先生のために、と。
私はただ、統王が許せないだけだった。
だが統王が許せないということは、今では世界そのものが許せないということになってしまうのだ。
彼が……貧民街で呑んだくれて子供に暴力を振るう一人の男だったら良かったのに。
年下の相棒を騙して上がりをちょろまかすごろつきだったら良かったのに。
『スゥガ・タムト写本』など……存在しなければ良かったのに。
あの子たちを見ていると時折そう思った。
私が望んだことでありながら、私自身がそれを否定する。
なんとも。
なんとも──
──子供じみている。




