胞の魔女5
クルギャが知性に目覚めたのは初めての言葉を発した時であった。
だが、最も古い記憶はそれよりも3年後の一幕である。
初代"眼の魔女"は檻に入れられたミミズの塊を我が子のように愛し、常に傍に置いていた。
余人が一見したならば、それは狂人の振る舞いであり、事実初代"屍の魔女"は彼女を可能な限り人前に出さないように心を配っていた。
"原初の目"の秘密を守り本人を守るため、という建前を超え、王国としての権威や体制を保つためにも過剰なまでの隠匿が行われた。
結果として、"眼の魔女"とクルギャは多くの時間を二人きりで過ごしていた。
最初の記憶こそ、"眼の魔女"の膝の上で、彼女の指先を一匹のミミズで握りながら、語って聞かせる物語を聞いているというものであった。
物語は天核教の経典に著された民話の一つ『応報の領主ドラウゴンの御伽噺』であった。
何千年も前、西のフランド・ゼヴの一地方を統べるドラウゴンという男がいた。
彼は非常に激昂しやすく、力弱きものを容赦なく踏みにじる人間として、皆から恐れられていた。
周辺の諸族は彼を疎み、連合を結んで滅ぼさんと一斉に攻めかかった。
どんなに強い大男でも多勢には適わない。彼と彼の軍は見る見る内に追い詰められた。
その時、彼は天に祈った。
『我が怒り、奴らの愚かさに応報したまえ。愚者を滅ぼす力を、今一度この身に宿したまえ』
祈りは天に届いた。
ドラウゴンの体は、蝙蝠に似た翼を持つ大きな大きなトカゲの怪物へと変じた。
眼には怒りがみなぎり、牙と爪には殺意が込められていた。
それは翼で飛び上がると口から炎を吐き、あらゆるものを焼いた。
土も、岩も、草も、鉄も、敵も、そして味方も、怪物は全て焼き尽くした。
あらゆるものが燃え尽きた後、怪物は叫び声をあげながら太陽に向かって突進し、遂に自らも燃え尽きた。
こうしてドラウゴンの暴威はフランド・ゼヴ諸族を滅ぼしたのである。
天はドラウゴンに、その本性にふさわしい姿と運命を与えたのだ。
この話がクルギャのような幼さと賢さを共に有する知性に対し、どのような影響を及ぼしたか。
自分が他者とは異なるということ。それでも物語を膝の上で語って聞かせてくれる人がいるということ。
ドラウゴンは怪物へと変じたが、それは自ら望んだものだ。
彼は、怪物になりたかったに違いない。歓喜の中で、太陽へと突撃したに違いないのだ。
怖くて"眼の魔女"の指を力一杯握ったのを憶えている。
ドラウゴンになりたくない。
クルギャにとって、それは漠然とした、初めての誓いであった。
彼女が明確に自己と他者との違いを認識し始めたのは"胞の魔女"になってからであった。
死人がのさばる城の中にあってさえ、彼女の形態はあまりにも異質であった。
死人を操る屍術師の魔女たちは集団で陰口を叩き、城下の民草は鉄檻の軋みと虫の羽音がする度に物を投げつけた。
特に民衆は、容赦なく彼女の迫害に勤しんだ。
女に支配されるという日常の屈辱的な抑圧と、死人たちに囲まれて暮らすという不安、いつか自らが死んだ後は否応なく『死人の軍勢』に加えられるという事実への鬱積した感情。
それらをぶつける相手として、何があってもやり返さぬ怪物クルギャは格好の標的であった。
もし"屍の魔女"の権威と庇護がなければ、"胞の魔女"は誰かを殺さなくてはならない程に追い詰められただろう。
しかし既に"胞の魔女"を名乗っていた。目標があったのだ。
自らを解明し、生命のなんたるかを知る。それが自らに課した使命だった。
何故自分は生まれ、何故生きるものは死なねばならないのか。
肉体を虫によって入れ替えられる彼女は長寿を手にし、長い年月は知識と人格をルーライワインのように熟成させた。
その知識と人格、古参という立場への敬意は、迫害を日に日に薄れさせた。
だが欲したのは生活や権威ではなく答えだった。
"胞の魔女"は160歳の時、魔女王国からの旅立ちを決意したのだ。
自分を守るものが無い世界への旅立ちである。不安はあったが、経験と自信がそれを上回った。
生命を知るためには、その生命が息づく自然と場所を感じなくてはならない。
死人と魔法に満ちた魔女王国では、自ずと限界があったのだ。
そうして、10年にも及ぶ旅の末、ナッグ・ローグへと辿り着いた。
己の優しさ故に、彼女はそこに留まったのだ。
それ以来"胞の魔女"はナッグに住み続けている。
彼女の知識が大地へ染み渡って行くのを、無数の目で見守りながら。
村に到着した二人が初めに見たものは、木のエレメンタルの群れであった。
木が本来持つ魔力とは異なる、外部からの魔力が多量に蓄積された結果生じるのが木のエレメンタルだ。
植物の中でも樹木は大量の水分や養分を必要とする上に、代謝の速度が遅いため、環境の変化による魔力の過剰摂取が起きやすいのである。
樹木内部で発生したエレメンタル核は瞬く間に樹木本来の魔力を吸収し尽くし、体を乗っ取るのだ。
木のエレメンタルは自らを引き抜き、倒れ、その勢いで逆さまに立ち上がる。
枝葉を足、根を腕として、自らの足を踏み折りながら移動する。
故に移動の速度も頻度も低く、攻撃能力と言えば根を振り回して殴りつけるか、倒れかかって押し潰すぐらいのものだ。
一度倒れれば起き上がることも出来ず、押し潰された生物の魔力を吸い尽くせば枯れ果てるのみ。
だが村人たちは逃げ惑っていた。
逆さまの木が、群れをなしてゆっくりと行進して来るのである。
それも、自分たちを殺して吸い尽くすためだけに。
異様な光景と単純な事実。動物という種として、逃げ惑わずにいられなかった。
『いけない!』
手袋を脱ぎ、村人に覆い被さろうとする木に左手を向けると、左手の鉄檻に紫色に光る文字が浮かび上がった。
その光に応じるようにして、木の足元の地面から地枝虫が湧き上がり、引き倒す。
村人は情けない悲鳴をあげながら這々の体で、無事に逃げ延びた。
「どうしましょう、すごい数ですよ!」
だが、木のエレメンタルは見える範囲でも20体はいる。
その上、既に村の各所に浸透しており、駆け回って一体一体潰していっては犠牲者が出かねない。
『集めましょう。彼らは光に寄る虫さんと同じです』
胸の前で腕を組み、全ての虫どもを静止させる。
全身の鉄檻に紫色に光る文字が浮かび上がった。
クロスは同様のものを既に見たことがある。
"石の魔女"が用いていた文字玉の光と、ゴーレムの魔力炉の表面に浮き出た文字である。
これがために"胞の魔女"は鉄檻を取りに家へ戻ったのだ。
光は時間と共に輝きを増し、ついに文字が見えなくなるほどになった。
その時、全ての木のエレメンタルは村人を追うのをやめた。
標的を村人ではなく、その何倍も強い魔力の源へと切り替えたのだ。
それはまさしく、光に寄り集まる蛾のようだった。
光が止んでも、一度見つけた標的は変わらず、今や村中の木のエレメンタルが"胞の魔女"を目指していた。
『さて、あとは』
虫どもが再び鉄檻の中で蠢動する。
異形の木々はゆっくりと、しかし確実に二人を取り囲みつつあった。
クロスはカンテラの鉄枠を掴み、掲げるようにして構える。
敵の注意は引いた。村人たちの安全は確保した。あとは──
『逃げましょう!』
「えっ」
──回れ左、そして駆け出す。
てっきり踏ん張って戦うものと思っていたクロスは反応が遅れた。
その隙に、1本目の木が倒れかかってくる。
「うわわわ!」
"胞の魔女"の後を追って、なんとか攻撃を避け切った。
木のエレメンタルたちは二人を追って方向転換し、互いにぶつかり合う。
倒れるほどではなかったが、行動は遅滞し、あっさりと包囲からの脱出を許してしまった。
「逃げるって、どこへ行くんですか!?」
走りながら、前を行く"胞の魔女"へと訊ねる。
森の中でもそうであったが、鉄檻の重さを感じさせない軽快な足さばきであった。
『ルーライ畑で迎え撃ちます! とにかく村からは引き離さないと!』
一体の木のエレメンタルが立ち塞がる。
"胞の魔女"は足を踏ん張ってブレーキをかけつつ、両手を前方へ向ける。
両手の鉄檻に紫文字が浮かび上がると、その間から紫色の光球が飛び出し、エレメンタルの魔力核を貫いた。
再び駆け出し、木の横をすり抜け、後方に置き去りにした時、ようやく核を失った木の倒れる音が響いた。
クロスも、横から襲いかかるエレメンタルへ向けて炎を放つ。
魔漏法の魔力で火種の炎を押し出して吹きかけるだけの、単純な炎の魔法だ。
それでも動作の鈍い木のエレメンタル相手なら十分に有効である。
足である枝葉を燃やして、明後日の方向へ転倒させるのだ。
「あっちちちちちっち!」
しかし鉄枠を直接握っているせいで、手が熱くてしょうがない。
持ち替えながら次々と炎を放ってはいるが、連続使用はできなかった。
『てやっ!』
立ちはだかる木のエレメンタルに飛び蹴りをする魔女。
鉄檻の重さと虫どもの力と、相手の不安定さによって成り立つ攻撃だ。
倒れる木は他の個体をドミノのように押し倒し、道を拓く。
そして返す刀で、クロスの後方から迫る木の根を紫光球で吹き飛ばした。
『さあ、畑に入ります! 迷わないように!』
"胞の魔女"がクロスの手を握った。
鉄檻の冷たい感触と、虫にくすぐられているような感触で背筋が震える。
しかし悲鳴をあげる間も無く、"胞の魔女"は手を引いてルーライ畑へと突入した。
ルーライは蔓性の低木植物だが、ナッグでは人間の背丈以上に伸ばして育てている。
春から夏にかけて非常に多くの葉を茂らせ、中に入れば視界はほぼ効かない。
土地に詳しくないクロスが迷わぬよう、手を繋ぐのは合理的な優しさからであった。
檻から飛び出た虫が、その手に纏わり付かなければ、であるが。
クロスは明確に、自身の毛が逆立って行くのを感じた。意図せず細められた声も漏れてしまう。
葉と蔓をかき分け、土を踏みしめ、引かれるままに畑を走る。
木の軋む音が後を追い、鉄の軋む音を追いかける。
それは奇妙な逃走劇であった。
数十秒ほど走り"胞の魔女"は立ち止まった。
手は握ったままであったが、クロスも既に感触に慣れつつあった。
『火はまだ使えますか?』
どうやら、手を繋いだままであることには気付いていない様子だ。
「使えないことはないです、けど」
カンテラを持ち上げて見せる。
その手は既に赤みを帯びており、火傷を負う一歩手前という状態であった。
『ではクロスさんは自分の身を守るのに集中してください。エレメンタルたちは私が除きます』
ぱっと手を離し、木のエレメンタルたちが迫っているであろう方向へ一歩踏み出す。
先ほど同様に手を胸の前で組み、全身の鉄檻を光らせると、両手を下へと向けた。
ルーライの豊かな葉によって木のエレメンタルたちの姿は見えない。
だが、作物を薙ぎ倒しながら迫ってくる、木の唸りはよく聞こえた。
時間と共に、それは大きく、近く、重なり続ける。
少しずつ、だが確実に迫ってくるという圧迫感。
クロスは袖をカンテラの鉄枠に巻きつけながら、その時を待った。
そして遂に、1本目の木のエレメンタルが葉を割って倒れかかって来た。
『ふっ!』
力を込めるような一声。
それと同時に、くっきりと、紫色の魔力の波動が大気に迸った。
呼応するかの如く足元の地中から湧き出る地枝虫の群れ。
だが、その規模はクロスがこれまで見たものを遥かに超えていた。
一瞬のうちに地面全てが黒く染まり、無数の黒枝が天へと突き出す。
それはもはや洪水か、もしくは天へ注ぐ黒い豪雨であった。
地を埋め尽くし、天を衝く地枝虫の風圧だけで、クロスは吹き飛ばされそうだった。
それは木を突き倒す、などという生易しい群れではない。
一つ一つを個別に視認できぬほどの、高密で複雑に絡み合った群れ。
木のエレメンタルは一撃で、握り拳大の木片まで打ち砕かれた。
クロスが己の身を守ろうとする余地さえない、たった一瞬の極大な虫操術。
"胞の魔女"の特異な体質のみが実現可能な、奇跡の一端であった。
木片が雨のように降り注ぐ。
土地そのものをひっくり返したような一撃は、すべてのエレメンタルを砕いたようだった。
二人を取り囲む黒い枝の壁は要塞に似た荘厳さすら備えており、天窓からばらばらと木の死骸が降る様は、さながら嵐の通過痕である。
「これほどの、地枝虫が……」
思わず黒い壁に触れながら呟く。
触れられた部分が微かに蠢き、やはり虫なのだということを再認識させられる。
突き出た地枝虫の壁は15mの高さにまで達していた。
『ナッグ・ローグの土を丸ごと入れ替えられる程の数です。畑を走りながら、集合をかけていました』
クロスと共に壁を見上げながら呟く。
畑に入った木のエレメンタルを全滅させたのならば、この壁はかなり広い範囲で展開されているはずである。
そんな術を村の中で行えばかなりの被害が出たはずだ。
無論、畑に誘き出したことで作物と土壌にかなりの損害が出ている。
しかしながら、人死が出るよりはいい。"胞の魔女"はそう考えたのだ。
壁が少しずつ、土中へと引き戻されていく。
地枝虫たちは、自らが掘り返した土で穴を埋めながら、巣穴に戻る蛇のように地中へ帰っていく。
『さ、行きましょう』
地中へ流れる黒い川。
それを背景に歩き、自在に川を割る"胞の魔女"を、クロスは呆然と眺めていた。
しかし置いていかれては、今度こそ迷子になってしまう。
頭を振って気を確かに保つと、足早に"胞の魔女"の後を追っていった。
『魔女でもなけりゃ生きてもいない俺が言うのもなんだがな、"胞の魔女"は存在そのものが不可思議な謎だ。
つまりは、かなり魔女という本質に近いということだな。魔女王国が権威を集め、実績が名声を呼ぶまで、女が学を得ようとするという現象は不可思議な謎だったそうだ。
魔道士会の古い文献にも、精神病症状の一覧に『女なのに本を読んでいる』という文言があるぐらいだからな。
魔女とは、存在そのものが謎であり、神秘であり、誰も根拠を知らない禁忌だったわけだ。
"胞の魔女"は現代でその本質を象徴している。魔女王国以前の、なにものでもなかった魔女たちの姿だ。
だからなクロス、あの女は強えぇぞ。女房にするならああいうのがいい。あれで奥手なウブだっていうからな、お前みたいな未熟者にもチャンスはあるぞ。
是非モノにしちまえ。そしたら感想を聞かせてくれよな?』