1 ヒース・エリカ・クロックフォード(12/13追加)
はっ、として瞬きをしたヒースは、赤ん坊でも女戦士でもジジの姿でもなかった。
誰よりも知っているこの体が立っているのは、まったく知らない場所である。先ほど見た荒野よりさらに深い闇のとばりと荒廃が進んだ赤い大地と、どす黒い紫と赤でまだらになった空がある。
声は、下のほうからしたように聞こえた。
「こっちこっち」
ごつごつと無数に地面から突き出た石のひとつに、少女が一人座り込んでいた。どうやら盲者のようで、かたわらに立ってもその視線が交わらない。
輝くような青い目をしていた。擦り切れ薄汚れた貫頭衣を着ている。
「あなた、あたしとおんなじなのね」
「同じ? ここはいったい……」
「あなたは今、心だけがここにいるのよ。ここはあたしがいる場所。あなたとあたしはおんなじだから、あなたの心があたしのところへ引き寄せられた。あなたから見れば、あたしは過去ってことになるのかしらね」
「過去……」
「ずっと昔に死んでる人ってことよ」
くすくすと無邪気に少女は笑い声をあげた。
「あたしは過去。あなたは未来。だからあたしからあなたはあんまり見えていないし、未来から過去を見ているあなたからは、あたしがくっきり見えるのね。同じように、あたしはあなたに質問できないわ。そうするとあなたとあたしの繋がりは、こう、ぷつんと。切れてしまうでしょうから」
両手で引きちぎる仕草をして、少女はまたカラカラと笑った。
「僕から質問すればいいのかい? 」
「そうよ。聞きたいことならわかることだけ答えましょう。だってあたしはあなたにとっての過去だから。あなたの『眼』は、そういうもの」
ヒースはぱちくりと瞬きをした。「『眼』? 」
「気付いていないの? 知らないのね? それは予想外だわ」
少女は、ウーンと唸った。
「『ホルスの眼』というものがあります。『血を手繰って過去を知り、現在を見通し、時に未来を引き寄せる』我々の祖先はかつて神から王へ遣わされた片翼の鳥。『その眼は黄金にして太陽の色。富と時を司る歴史の色。王を玉座へ導き、繁栄を約束するもの』。……いわゆる、千里眼よ」
「それを僕が持ってるって? 」
「そうよ」
ヒースには触ることがない風が吹く。
遊ばれる髪を耳にかけ、アリスは輝く瞳でヒースのほうを見た。「これがそう」
その目に瞳孔は無い。水面に波紋が広がるように、光の輪が揺らめきながら渦を巻いている。たゆたう波紋の瞳が、青から黄金色に変わる。
「じゃあ、あなたは僕のご先祖様ってことになるの? 」
「そうかもね。あたしたちの眼は、縁を手繰って過去や未来を視るの。縁ってつまり血筋や仲のいい人のことよ。こうして会話できるくらい繋がるってことは、なかなか珍しいもの。相性がいいって、つまり縁が深いってことだから」
「あなたの名前は? 」
少女は、小首を傾げて言った。
「アリスよ。大魔王さまって呼んでもいいわ」
「……大魔王? 」
「昔のあだ名よ。この眼を使って、いろいろと好きにやらせていただいたから」
いたずらっぽくアリスはヒースに笑いかけた。
「いろいろやったわ~。夢は世界征服だった。仲間を集めて、力をつけて、怖い人に睨まれてもやっつけて。未来が視えるんだから、障害は芽になるうちに取り除ける。過去が視えているから交渉も得意。洗脳だってお手のもの。それが今は荒野でボランティア活動だもの。あたしも丸くなったもんよねぇ」
「夢は叶った? 」
「難しい質問ね。一度は叶ったともいえるし、敗れたともいえるわ。あたしがいなくなったあと、組織は解体されちゃったって聞いたもの。仲間はばらばら。ずいぶん死んだし、あたしはこうして、帰ることができないところで見ての通りの無償奉仕」
「でもあなたは、伝説に名を残す」
アリスは、問いかけるように言葉を呑み込んだ。
「始祖の魔女って呼ばれている人がいる。人々を率いて、神々と交渉して権利を勝ち取ったと。名前はアリス。それはきっと貴女のことだ」
「あら……」そうなの、とアリスは呟いた。
「そうだよ」
「同姓同名かも……しれないじゃない? 」
「それはないよ。過去が知っていることがあるように、未来が知っていることもあるのは当然のことだ」
「嬉しい。何よりの吉報だわ」
少女は立ち上がる。
「ここには銅色の本はないし、ホグワーツも無い。ピーター・パンも、アーサー王も、ヘラクレスも、アリスもキャロルもいなかった。あたしは一度夢破れた女だけど、ここで旗を振って民衆の歌を繰り返し歌うでしょう。荒れ野で出会ったあなた。果てしない未来のひと。あたしを知るあなたの言葉は、大きな希望になってあたしを突き動かすことになるわ。あなたの言葉は、あたしの魔法の杖よ」
また過去の風が彼女の体を横殴りに吹く。
「お礼に帰り道まであたしが導いてあげる。この魔王アリスちゃんに任せなさい! さあ、あなたの大事なものは何? あなたの近くにいる、今いちばん触れたい人は? 縁を手繰るとは思い出すこと。あなたの遺伝子に刻まれているあらゆる記憶を。これから刻むあらゆる記憶を。心に落ちる波紋の行き先。思うがまま、自らの望みを知る人ほど、この力はあなたに応える―――――」
「……ス、ヒース! おいったら! 」
ぐらりと体が傾いた。すかさず小柄な影が腕を伸ばして滑り込み、ヒースは大きくたたらを踏むだけに留まった。
きれいな翠がかった金色の瞳が近くにある。
「ジ、ジジ……」
「なんだいまったく! びっくりするじゃないか! 」
そこはフェルヴィン城だった。ジジはぷりぷりしながら、しかしまじまじとヒースを覗き込んでいる。
「大丈夫そうだね? 」
「あ……う、うん。大丈夫。ちょっと眩暈がしただけ」
足元に箱の中身が散らばっていた。手作りの小鳥の置物や、小さな笛、きれいな小石と混じって、鈍く輝く古ぼけた金細工がある。
指先でつついてみる。おそるおそる手に取った。何も起こらない。
ヒースは、ゆっくりと肺の中の古い空気を吐き出した。
「……大丈夫そうだ」
◇
次の日の早朝である。ケヴィンは朝食の前に、ジジに呼び出されていた。
それは、親指の爪ほどの小さな金細工のピアスだ。
耳たぶを挟み込む形状の、蹄鉄をねじったような雫型で、中心を通る窪みに小さな青い石が三つ、ささやかに並んでいた。
サリヴァンは眼鏡を押し上げると、袖口から針のように細くした『銀蛇』を出し、石やその隙間を押すようにして検分する。
テーブルを覗き込む赤毛のつむじを見つめながら、ケヴィンはそわそわと待った。
「……あっ」
カチッと音がした。見てみれば、中心から二つに開いている。
「中身が空洞ですね。なんか入ってる」
「なんだって? 」
おもむろにサリヴァンは、溜息のような声を漏らした。カチッとまた音がして、封を再び閉じたそれを前に、顔を厳しくしている。
「これは……あの、やっぱりおれが預っちゃあ駄目ですか? 」
「まずいものなのか? 」
サリヴァンはウーンと唸った。
「ごく個人的な品じゃないかと思うんです。失せモノ探しくらい、あの人なら簡単なはずなんで、探さない真意がそもそも分からないんですけれど……。これ自体には、特定の人にしか効果がない呪術がかかってます。一応訊きますが、視力に問題は? 」
「もともと乱視だ。これを拾ってから何かが起こったということもない」
「ですよねぇ。……困ったな。これ、たぶんあの人に返したほうがいい」
「そんなにまずいものなのか? 」
「いや、中にはおもに『眼』に関する呪文が刻まれています。古くて短いから確かではないですが、『賢者の紋』って呼ばれている……えーと、隻眼の知恵の神をあらわす模様を反転したものが組み込まれているので、『見えるものを狭める』そういう魔術がかかった道具です。これのもともとの持ち主は、変な話ですけど、『眼が見えないほうがいい』人だったのかな」
「……もともと目が悪いから幸運にも利かなかったということか? 」
「その人用にカスタマイズされているものだから、利かなかったんだと思います。これは殿下にとっては、ただの装飾具ですよ。でも、魔術具ではある以上、手にしないほうがいいことは確かです」
「いや、つけたりはしないが……すまない。はっきり中身を教えてはもらえないものだろうか」
サリヴァンは、「そうですね。拾ったのは殿下ですし」と、頷いた。しかしその表情からは、見てはいけないものを見てしまったという後悔が読み取れる。
「中にあったのは髪です」
「え? 」
「おそらく遺髪だと思います。魔法使いの国で彼女に会うまで、おれが預ることにしたほうがいいでしょう。それ自体は良いものでも悪いものでもないけれど……持ち主にとって二重の意味で『おまじない』なのは、間違いないんです」




