5 ジジの杖
またまたファンアートいただきました! あとがきに掲載しております。
◇
二人の脳裏に蘇ったのは、二年前の『あの日』のことだった。
『悪夢の街グロゥプス』。賭け事と色事でささやかに繁栄した田舎の歓楽街で、ジジは最悪の朝を迎えていた。
そう。その時も、ミルクのような濃霧だった。
汚泥が流れることなく溜まっていく石畳。濡れたそこに這いつくばり、喉が裂けるほど叫んだあの朝。
ジジという、『積み上げた個人』が踏みにじられたあの朝。
魔人ジジが、朝靄の中で眠る三千人を、刈り取った———-あの朝。
悪夢の七日。
魔人ジジはその後、多くのものと引き換えに、牢獄にてひっそりと安寧を手に入れるのである。
◇
「じゃあ、ここからは別行動だ。蝗たちは、ボクが一掃してあげる」
サリヴァンの耳に、いまさらながら、風の音が大きく聞こえだした。
空の高い場所で、ずいぶん城にも近い。赤い光が直接表皮を炙り、汗が吹き出す。
ぞっとする。
「……本当にいいのか」
「良いっていったろ」
「嫌なことをさせちまう」
ジジは奇妙な笑い方をした。
「キミは……いや、なんていうか……。……いいやつだな」
『奇妙な笑顔』が、サリヴァンにも伝染する。
束の間、牢獄で檻越しに話したときに舞い戻る。
「あのときと反対だ」
「……頼んだぞ」
「くどいな。やってやるさ。ボクにはやることが山ほどある。そのために、ミケとキミの協力が必要だ。ボクには、ミケみたいに全部を捧げる理由も義理も無いんだから」
「そうだな」
サリヴァンは器用にバランスを取りながら、右手を差し出した。
先が二又に分かれた銀色の小枝が握られている。
「少しの間、お前に返すよ」
「いいの? ボクは『グロゥプスの悪魔』だぜ」
「言っとくけど、お前が帰ってこなかったら、すぐに叔父上にバレるからな」
「そりゃマズいな。じゃっ、ちょっとだけ借りとく」
なんてこともないように、ジジは小枝を手に取った。
「……『自分の杖』を握るのはひさしぶりだな。サリーありがと。これで万全にやれる」
ばしん! と、サリヴァンの手がジジの背中を叩いた。押し出されるようにして、ジジは飛び出す。
サリヴァンは肺一杯に息を吸う。
「”願いは彼方で燃え尽きた” ”希望は彼方に置いてきた”」
魔法使いの声が朗々と、風を背に響き渡る。
「”望みはなにかと母が問う”
”そこは楽園ではなく”
”暗闇だけが癒しを注いだ”」
叙事詩を吟じる古代の詩人のように、力強い言葉そのものが呪文となって風に編みこまれていく。
「 ”時さえも味方にならない”
”天は朔の夜”
”星だけが見ている塩の原”
”言葉すらなく”
”微睡みもなく”
”剣を振り下ろす力もなく”……」
蝗の群れが迫る。
黒煙のようにも見えたそれらの、ひとつひとつの白濁した複眼と、くちばしを持つ醜い顔、ぬるぬると黒光りする深緑の体からぶら下がった節だつ手足、棘のついた二又の尾。
奇怪で悪趣味な合唱は、高らかに絶望の花へと捧げられている。
ジジの羽織ったコートの裾が、風に暴れた。
ジジが指揮棒のようにサッと小枝を掲げると、蝗たちの視線がいっせいに注がれる。
ジジは背から聞こえてくる主とともに、自らの呪文を口にした。低く力強いサリヴァンの声に、ジジの、子守歌でも歌っているような囁きが重なる。
「 ”いかづちの槍が白白と、咲いたばかりの花々を穿つ”」
輝くような白銀の小枝に、蝗たちの視線は釘付けになった。そこから放たれる目に見えない『何か』が、蝗たちの飢えを促す。
「”至るべきは此処と、父が言う”」
ふわりと軽やかな風が吹いた。
「”我が身こそが、終わりへと至る小さな鍵”」
ジジは杖を握る腕を天に伸ばし、体を黒霧へと変えていく。魔人がほどけた黒霧は、糸玉を巻くようにその身体を覆っていった。
「”望みはひとつ”—————」
サリヴァンもまた、杖を握る腕を伸ばして、小さくなったジジの背へと向けていた。片刃の三日月形のダガーの切っ先は、まばゆい白に輝いている。
血に似た、生温くドロリとした汗が全身を伝う。
(ジジ―――――! ちゃんと気をしっかり持てよ――――! )
「―――——”やがて、この足が止まること”」
その始まりに、音は無かった。
―――――黒い卵が浮かんでいる。
その一瞬、蝗たちは紅い花のことを忘れた。
ぽつんと、目の前に浮かんでいる黒い卵は、言いようのない不吉さを醸し出している。
なぜなのかは分からない。食欲に満たされた彼らの頭では、理由を見つける術をもたない。
表面はつるりと丸かった。しかし、空も、地も、何も映り込むことのない深い闇の色をしていた。
その表面に、おもむろに白い線が、つう、と伝う。
内側から音なく亀裂をいれたのは、あの銀の小枝だった。
溜息が亀裂から零れる。
眠りから目覚めるときに零れる、あの吐息である。あるいは、夢に落ちるときに胸から押し出される、あの吐息だった。
蝗たちの無機質な複眼に、真っ赤な恐怖が広がっていく。
二度目の溜息は、腹が満たされたときの満足げな吐息だ。
サリヴァンは猛然と空を駆け出していた。
その背後では、土砂降りの雨のように、地面へ落ちていく蝗たちの姿がある。
振り返って確認することなどしない。息をするのも忘れ、サリヴァンは箒を進めることだけに集中した。
そうでもしないと、頭の中に入り込もうとする声に侵入を許すことになる。
(□□□□□□、□□□! □□□□□、□□、□□□□□□□□! □! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! □□□! )
(……ああ、もう! うるっせえ! )
(□□□! □□□! □□□□□□□□……? )
「ジジ! やること終わったんなら帰ってこい! 」
(□□□□□□……□□□□□□□□……『つえ』)
サリヴァンは、空を東へ走りながら、銀蛇を握った手を掲げた。切っ先から白い光の粒が帯になって流れ出す。
『卵』は、蝗の死骸の雨の中で静止している。
遠ざかる主の背中。ジジは、ゆっくりと上昇を始めた。
その天中には、すでに空を覆うほど『開花』をはじめた紅い花がある。
(□□、だ、□□□□□□……□□□いだ□□□……ぐるし□、べ□□□□……ああ□□□ず……□サリヴァ□、ボク、□□…… )
◇
開け放したハッチから飛び込んできたサリヴァンを受け止めたのは、ベルリオズだった。
「どうした! 大丈夫か! 」
ケヴィンが走り寄り、床に這いつくばるサリヴァンに肩を貸す。脈の速さはすぐに分かった。汗にぬれた冷え切った体のことも。
小柄だが、しっかりと重い少年の体を座席に座らせる。マリアが拾い上げた箒を、慎重に座席の下に置く。尾から出ていたオレンジ色の炎は、サリヴァンが柄から手を離すと、勝手に消えてしまっていた。
前の座席に座ったヒューゴが、首をまわしてサリヴァンに問う。
「あの蝗たちは消えたのか? 」
「……決定的な被害が出る前に、ジジが駆除をしました」
「まさか、あれを全部? 」
「はい」
「大丈夫か? 作戦は」
不安が滲んだ質問に、サリヴァンはきっぱりと言った。
「このまま。何も不都合はありません」
操縦席には、グウィンが座っていた。
大戦以後、とくに下層の国家では、軍属の条件に『飛鯨船の操縦資格の有無』をつけることが多い。
フェルヴィン皇国も、また皇太子であっても例に漏れず、アトラス兄弟の中では軍属経験のあるグウィンのみが、小型の輸送用飛鯨船の資格を持っていた。
埠頭よりほど近く、商業地区にある着陸場に、グウィンたちは昨夜からこの小型飛鯨船を準備していたのだ。
飛鯨船の中は、やっと人一人が動けるほどにしかスペースが無く、二列目の座席に挟まれたヒューゴなどは、立つのがやっとという感じで、おとなしく小さくなって一列を占領している。
「……事態が少し変わりました。でも、作戦は変更しません」
念を押すようにサリヴァンは言った。
「でも、それまでに一つ、話しておくことがあります。……あの、『紅い花』にいる、アルヴィン皇子の体のことです―――――」
『精霊と共に地に満ちよ、竜と共に空を駆けよ――そして〝知識〟は人へと宿る――』(https://ncode.syosetu.com/n1480ex/)のごんのすけさんから、アルヴィンのイラストをいただきました。
……この眼差しですよ。
おそらく本編前、まだ学校に通っていたころのアルヴィンです。鬱屈した葛藤と悲しみに満ちたこの表情。本編で描写した以上のアルヴィンの悲哀の表情に、作者は朝から撃ち抜かれました。
素晴らしい描写の力です。読者の皆様には、これを踏まえて今いちど初期のお話を読んでいただきたく、伏してお願いいたします。
ごんのすけさんもまた、私と同じく流行に抗い(笑)、王道本格ハイファンタジーで勝負されている作家さんです。
美しい描写にカッコいい竜騎士、国を揺るがす陰謀、冒険、友情、家族愛、癒しもあったりして……
全力でオススメできるファンタジーになります!どうぞご覧ください!




