5 蝕の王
「あれは……!? 」
グウィンは顔を引き攣らせた。
『黄金船』のある縦穴にいた怪物。それをこんな近くで目の当たりにして、またその名を耳にして、伝説を愛するこの王の驚愕を引き出さないわけがなかった。
「――――ベルリオズ! 皇帝特権執行! 兵たちよ、弟たちを守れ! 」
埠頭の石畳から、次々と白金の兵士たちが顕れる。「おまえたち! 一刻も早く離れるんだ! 」
濃霧の中に立ち上がった兵士たちは、自らの体を盾にするように隊列を組み、その中心にアトラスの皇子たちを閉じ込めて駆けだした。
「兄さん、あの怪物はなんだ!? 」
「毒の怪物だ! 」ヒューゴがケヴィンに怒鳴った。「息するだけで毒を撒くっていう、世界終焉がお仕事の天使だよ! 」
「天使ィ!? あのグロテスクなのが!? 」
「特別な仕事を与えられた神の使いってわけだ! 殺されたくなかったら黙って走れ! 」
◇
尻もちをついた姿勢のサリヴァンは、立ち上がるのではなく、横に転がることでアポリュオンの砲弾のような拳を避けた。
しこたま打ち付けた右の脇腹がじくじくと痛む。
転がった勢いで立ち上がり、前のめりに駆けだす。
「――――ジジ! 」
黒霧がサリヴァンの体をさらい、大きく跳躍して、寄り合い小屋の屋根に手をかけた。そのまま屋根伝いに走る。
煙の白蛇が、霧を晴らしながら先導する。連なる倉庫の屋根を三棟越えたところで、ジジが大きな声を出した。
「サリー! アポリュオンは追ってきてない……! 」
「なんだってぇ!? 」
はたして怪物は、地面で翼を広げているだけだった。
おぞましいほど逞しく大きな背中を向け、篝火にぴったりと張り付いて動こうとしていない。サリヴァンの脳裏に、黒い稲妻が閃いた。
「まさか……! 」
◇
アポリュオンは翼を広げ、腕を広げて炎を囲むようにかざした。
「……来る、来る来る来る来る来る―――――!!! 」
青い篝火に、泡のように黒いシミが浮かんだ。
……ずるり。
――――それは、さながらサナギからの羽化のように。
理性なき空虚に濁った緑白の複眼が、主人にして父の顔を見て、くちばしを激しく鳴らす。
一匹が炎の中から押し出されると、あとはもうワラワラと、異形の蝗たちがあふれ出した。
埠頭は驚くべき速度で黒光りする蝗の羽で埋め尽くされる。ガチガチとくちばしの合唱が響き渡り、その中心にいるアポリュオンは、満足げに腕と羽を広げていた。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。
くちばしの合唱の中に、やがて本当に意味のある言葉が広がっていく。
――――奈落の王にして蝕の王。大いなる食事に感謝せよ。
――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。
―――――食らえ、食らえ、食らえ。
蝗たちは歯の無い灰色の咥内をさらして、幼児のような声で高らかに合唱している。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。蝗の王にして神の毒。混沌の蛇のきょうだいよ。あらゆる食事は赦された。我らいまこそ飽食に耽るとき。目玉を捧げ、前菜に……。
グウィンらにもその歌声は響いた。
この国に残ったわずかな耳ある者は、例外なく、ぞっと背筋を震わせる。
膝が震えて立ち止まりそうになるたび、互いの肩を強く叩いて先を急いだ。
「走れ、走れ、走れ――――! 」
サリヴァンは舌打ちをして、屋根から身を躍らせた。『銀蛇』を鞭のように伸ばし、埠頭に立つ街灯に巻き付けて地面すれすれを滑空する。
翅をくつろげ、今にも飛び立とうとしている蝗の背中を蹴り飛ばし、その固い背中を足場に再び飛び上がった。踏みつけられた蝗が、ガチガチとくちばしを鳴らす。
闘争に白く濁った複眼は、波のようにサリヴァンへとその邪心を向けた。
サリヴァンは寄り合い場の粗末な扉を蹴破るように中に入ると、余ったトランクをひっ掴む。
顔を上げて目にしたのは、ぞっとする光景だった。
窓に、開け放たれたままの入口に、蝗たちが群がって、その腐った卵のような濡れた複眼を向けている。
棘のついた肢が、中に入ろうと仲間たちを掻きむしる。サリヴァンの脱出口は塞がっていた。
「――――くっそ! 」
海側と逆の窓に向かって『銀蛇』を向ける。噴き出した炎蛇が、あぎとを開いて窓枠ごと蝗たちの体を半分むしり取った。窓枠の痕に足をかけながら、トランクを開ける。組み立てにかかった十秒と少しの時間が、恐ろしいほどの緊張をもたらした。
ガチャン! と金具がはまる音がする。
「……よし! 」
頷き、振り返った瞬間、後頭部を蝗の肢先がかすめるところだった。
髪が長いままだったのなら捕まっていただろう。鼻先を硫黄と腐臭が混ざった吐息がかすめる。
くちばしの奥にあるノコギリのような歯列すら、数えられる距離だった。
『銀蛇』で薙ぎ払い、跳躍する。倉庫とのあいだの細い路地には、葦に似た腰ほどの芯が固い雑草が生い茂り、踏めば跳ね返って、サリヴァンの太腿を真っ赤になるほど何度も叩いた。
組み立てたばかりの持ち手がじわじわと熱を帯びていくのを感じながら、サリヴァンは祈るように、自分の組み立ての成功を信じた。
頭の上に影がさす。
視線を向けるまでもなく、サリヴァンは炎を放った。炎が通ったあとの乾ききった熱風が、サリヴァンの呼吸も苦しくする。
血のようにどろりとした嫌な汗が、全身を包んでいた。
――――ポッ、
はっとして、手にしたものの先を見下ろす。
――――ポッ、ポポポ――――
先っぽの円柱についた無数の穴から、オレンジ色の火花が散っていた。握りの部分はもう、はっきりと温かい。魔力を吸い、無事に動き出している。
サリヴァンは安堵のため息の前に、それに跨った。
ばねのように跳ね返る葦を蹴りあげ、勢いよく空へと飛びあがる。
握りやすいようにくぼんだ持ち手には革のテーピングがされ、繋ぎ目はきちんとはまっているらしく、ぐらつきもない。先から吹き出す炎の勢いもまぁまぁだ。
折り畳み式なので、サリヴァンが愛用しているものよりやや細身なのが難点であるが、じゅうぶん飛べている。
サリヴァンは前屈姿勢になり、『箒』にさらに魔力を押し込んだ。
「――――サリー! 」
白蛇と並走して、黒霧をまとったジジが近づく。「よく無事だったね! 」
「もうごめんだ! 」
「ボクだってごめんだ! 相棒があの虫どもの群れに突っ込んでいったとき、ボクがどんなにゾッとしたか、キミにわかる!? 」
「そりゃ悪かったな! 結果オーライだ! ―――—作戦変更! 予定前倒しだぞ! 」
「分かってるよ! もう皇子たちもそのつもり……だッ! 」
ジジのコートの裾に手をかけようとした蝗が、蹴り飛ばされてキリキリ舞いしながら吹き飛んでいく。
「ザマァみろ! 」
空をおびただしい蝗の群れが覆いつつあった。
埠頭から吹き出した蝗たちは、蚊柱のように黒いヴェールとなって、城下町の上空を飛んでいく。ふるえる翅の不協和音をバックに、耳障りなコーラスが重なった。
――――崇め湛えよ。我らがあるじ。
――――奈落の王にして蝕の王。大いなる食事に感謝せよ。
――――飽食は我らがつとめ。目玉を捧げ、前菜に指のソテー。脊髄のスープ。森と家畜のサラダ。
――――腸詰の血煮込み。手足のロースト。デザートは脳髄のゼリー寄せ。
―――――飽食せよ。飽食せよ。
―――――食らえ、食らえ、食らえ……。
先導するのは、アポリュオンの巨躯である。
アポリュオンは城に近づくと、ぐんぐん上昇し、『花』に向かった。
二分咲きの火炎のつぼみへと、黒い影が迫っていく。
近づくごとに、熱風にまとう毒は剥がされ、その巨躯はどんどん小さく縮んでいった。
長い黒髪をなびかせ、アポリュオン……否、『黒の騎士』は、腕を広げて、その花の花芯へと抱擁を求める。
―――――ふたつの黒い輪郭が、当たり前のように融け合った。
サリヴァンは箒の上で歯噛みした。
「……くっそ! そういうことか……! 『蝕の王』、『落ちる太陽』……! あいつ、『花』を太陽に見立ててやがる! 」
「皇子の中にいたのは、アイツだったってこと!? 」
サリヴァンの歯噛みする顔が、その真実を物語る。
ジジの手が、ポケットの中の銅板の欠片を探った。熱を帯びている。
「……どうするの」
「……作戦は変えない。陛下たちと合流だ」
「それだけで大丈夫なの」
サリヴァンは下唇を噛んだ。
「サリー。……言って」
「…………ジジ」
「うん」
「……やってくれ」
「いいよ」
ジジは悪戯っぽく笑った。危なげに金色の瞳がきらめく。
「ボクのご主人様は、ひどくお困りのようだ。……お望みどおりに」




