2 wimp ft Lil’ Fang
(とんでもないことになったわ……)
モニカは早鐘を打つ胸を押さえ、みずからの心臓の鼓動を確かめるように掻き抱いた。コナン・ベロー中尉の太い腕が首に回っていた間は、生きた心地がしなかった。まだ頭がふわふわしていて、自分が生きている事実が夢のように思う。
冷たい石畳に座り込んで震えるそんなモニカの肩を、かたわらから、そっと抱く手があった。
顔を跳ね上げたモニカの目に映ったのは、黒髪に縁どられた白い端正な顔立ちと、そこに嵌った濃紺の瞳である。心臓が別の意味で高鳴った。
「大丈夫ですか? 立てます? 」
「あ……え、ええ」
(あらま……目の保養だわ……)作業服の美青年に手を取られながらモニカは目を白黒させ、(……我ながらちょっとオバサン臭いわね)と苦笑した。
(なーんだ。美形に驚いて恐怖を忘れるなんて、あたしって結構図太かったのね)
「モニカさん!!! 」
次の瞬間、モニカの視界は真っ暗になった。
◇
「ごめんなさい! 見捨てたりするつもりは無かったの! 貴女ももちろん家族ですし、もうお義姉さまだと思っていてよ! 嗚呼……ッ! もし貴女に何かあっていたら、わたくしお兄様になんて顔向けしたらいいのかっ! 」
「もがもがもが! 」
「ちょっとお姫様。アンタのか弱いおねーさま圧死しそうなんだけど? 」
「もがが! 」
「ひゃあ! ごめんなさい! 」
「……元気だなぁ。あの皇女」
サリーは頭を掻いて苦笑する。足元には、刺客の中で唯一の生者であったベロー中尉が仰向けに転がっていた。
彼は重要参考人である。そしてヴェロニカ皇女の証言で、中尉はおもに軍が所有する飛鯨船を運行していた航空隊の小隊長だったことが明かされている。つまりどういうことか? ―――――ヒース一人では越えられない第十九海層『魔の海』を、航海士が二人になったことで交代要員が確保でき、越えられるようになったということだ。
『やりたくない』とは言わせない。最悪、ボクがちょちょいっと頭を弄ってでも、言う事をきかせることになるだろう。
自分より三周りは巨大な体に手際よく縄をかけながら、サリーは欠伸をかみ殺した。
「変わろうか? 疲れたでしょう」
その背中に声をかけたのはヒースだ。
「いいよ。大丈夫。―――――まだ気は抜けねえだろ? 」
「……そうだね」
「じゃあ、次におれは何をしたらいい? 」
「っ……」
ヒースは何か言いかけた言葉を飲み込み、いたわるようにサリーの肩に手を置いた。視線は石畳に膝をついて手を止めない親友のつむじを見下ろして。
「……さすがサリー」
「わからいでか。お前の役目は、皇女たちを『上』へ逃がすことだろう。じゃあおれは、『皇帝』の奪還。違うか? 」
「そうだね。それで合ってる」
始祖の魔女が『最後の審判』について告げた預言には、人類の代表として選定された二十二人が『審判』の旅へ向かう、といわれている。
魔女はその時のために、二十二人それぞれを暗示する言葉を遺した。
一のさだめは愚者。やがて真実を知るさだめ。
二のさだめは魔術師。種をまいた流れ者。
三のさだめは女教皇。始まりの女。
四のさだめは女帝。あらゆる愛の母たれや。
五のさだめは我らが皇帝。秩序の守護者。
六のさだめは教皇。知恵を授かりしもの。
七のさだめは恋人たち。自由なる苦悩の奴隷。
八のさだめは戦車。闘争に乾いたもの。
九のさだめは力。力制すもの。
十のさだめは隠者。愚者がやがて至るもの。
十一のさだめは運命の輪。予言に逆らいしもの。
十二のさだめは正義。秤の重きは全の重き。正義の剣は全のために。
十三のさだめは吊るされた男。真実に殉じるもの。
十四のさだめは死神。再生の前の破壊。破壊の前の再生。
十五のさだめは節制。意思なき調整者。
十六のさだめは悪魔。恐れるは死よりも孤独。誘惑を知るもの。
十七のさだめは塔。巡り合わせた罰。楽園からの転落。
十八のさだめは星。希望の予言。賢人の道しるべ。
十九のさだめは月。透明な狂気のヴェール。魔女の後継者。
二十のさだめは太陽。祝福された命。
二十一のさだめは審判。神の代官。審判の具現化。
そして、二十二のさだめ。あらゆるものの根源にして至るもの。宇宙。
「この事態は、預言されていないイレギュラーだ。『影の王』いわく、『最後の審判』についての預言が詠まれた当時と今では、未来が変化している」
「原因は? その口ぶりなら、師匠にはわかってるんだろ? 」
「『死者の王』―――――。神々が世界を砕いた『混沌の夜』よりずっと昔。最初の『人間』にして最初の『死者』。彼がなぜだか、冥界から現世に解き放たれた。彼の目的は、現状から見ておよそ予想がつく。なんせ、人類原罪の立役者。最古の悲劇の人だからね」
「……人類救済のための試練である『審判』に横槍入れて、世界に復讐するってところか? 境遇に同情はするけどよ、迷惑な話だな」
「でも、これが現実だ。フェルヴィン皇国は『審判』のスタート地点。墓守の王であるフェルヴィン皇帝は、審判において【皇帝】の役目を持っている。絶対に死者の王へ渡すわけにはいかない」
「なるほど。おれもこれ以上のイレギュラーは御免だね。ま、おれには例の預言もあるし? ここで死んだりする運命じゃあ無いはずだからな」
「でも、サリー。僕は心配だ。……だって、預言の未来はもう変わっているかもしれないんだよ? 預言に詠まれていると言っても、絶対じゃあない……」
「……エリ」
子供のときの呼び名を投げて親友を振り返ったサリーは、にっかりと笑って、おもむろに少し高い位置にある黒い頭を掻きまわした。
「ちょ――――――ちょっと、サリー! 」
「早いほうがいい。明日の朝に突入する。ジジ、お前はついてくるか? 」
「キミが行くなら、ボクが行かないわけないでしょ? 」
サリーの黒い瞳は、ぎらぎらと生への渇望を燻ぶらせている。ボクはにっこりとして、差し出された手のひらを叩いた。
◇
明朝、ヒースが操る飛鯨船ケトー号は、皇女ヴェロニカとモニカ・アーレを乗せて首都ミルグースを飛び去った。
ヴェロニカ皇女は、一度逃げたことをモニカに謝罪し、こう言った。
「わたくしは、何としてでも生き残らねばなりません。『最後の審判』が始まった以上、墓守の王の血を絶やすわけにはいきませんもの。皇女として……父上の娘として。非力なわたくしは、非力なりのやり方で、この世界と祖国を救いますわ」
黒雲にケトー号が呑まれる、そのときだった。
地面が揺れ、ゲルヴァン火山の火口が沸騰する。王城から、ふたたび眩い青い光があふれだし、波紋のようにうねって、フェルヴィン全土へ広がっていく。
天を衝く青い火柱。それは死者たちの行軍だ。骨を鳴らし、眼窩を晒したシャレコウベどもが舌なき喉を震わせて、現世の再来の歓びを歌いながら駆けていく。
行軍はケトー号のすぐ脇を横切った。行軍を遅れて追いかける少女の亡者が、腐り落ちた貌をほころばせて、指が足らない手を振っている。
それが、旅立つモニカの見た、最後のフェルヴィンの姿だった。




